こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年4月23日 月曜日 - 70年代、ラジオ、夜、闇、春 -

2012-04-23 22:21:33 | 想い出かたちんば
ラジオとの本格的出会いは、小学生にさかのぼる。

ラジオそのものは、幼稚園の頃から家の中で聴こえていた。
音楽好きのお袋さんは、FM東京を1日中誰が居なくても流していた。
トイレの前の「仕事部屋」(洋裁を教えていた部屋)の一角にある冷蔵庫の上。
そこでホコリをかぶりながら、ラジオはいろんなお話しや音楽を絶え間なく流していた。

三ノ輪の自分の家は、貧しいというほどではなかったが、裕福というほどでもなかった。

***

お袋さんのFM東京のラジオとは別にして。
自分が、何かの流れで、おじさんのおさがりの大きなAMラジオをもらったのが、小学生低学年の頃だろうか?。
かなり古いラジオではあったが、自分の持ち物になった。
小学生に上がって、プロ野球に夢中だった自分は、そのラジオで随分と野球を聴いた。

テレビは一家に一台。
そして、そのチャンネル権が、家父長である者にあった時代に、ラジオは自由に聴くことが出来た。

おぼろげながらだが、ビッグサイズで年代もののラジオの後に(たぶんはもらったのだと思うが)手の大きさくらいの小さなラジオを手に入れた。
それは小学3年生かそこいらだったように思う。
と・計算すると、1975年・昭和50年あたりのこととなる。

***

自分の親には、かつてエリート信仰が強くあり、兄はその親との戦いをしながら、麻布、東大と、ことごとくそれを超えてしまった。
それに比して頭の悪い6つ下の弟、というのが、家父長の、小学生の自分へのあしらい方だった。

お袋さんは、それをかばうようにして、小学3年生から様々な「塾」に申し込んでしまう。
両親の心理のはざまに揺られ・引き裂かれて、行きたくもない「塾」に通うこととなる。
「通う」と言いながらも、通った先では何を学ぶでもない。
もともと能動性を伴わない行為ゆえ、ひたすら壇上で教える者から発せられる言葉・黒板の字・教材・・・全部、自分の中には入ってこない。
ひたすら電車で遠くへ行ったり来たり、そして、街の人ごみにまぎれる。
そんな意味の無い行為を繰り返している感覚のまま、電車で通う窓を通り過ぎる風景、街の光景、そんなものだけが自分の中に切なく響いた。

自分の中にもともと確信めいてあった「自分はエイリアンなのでは無いか」に拍車を掛けるように、この頃の出来事は、自分がどこにも所属出来ないジプシーの放浪感覚を根付かせた。

***

こんな日々だったので、当時の夕方~夜、みんなが見ているであろうテレビ番組には知らない/見られないものが多くあった。
当時、持ち歩いていたスヌーピーのデザインの布袋の中には、お菓子や小物と一緒に本が入っていた。
その本のしおり。
本屋さんで買った際に、本にはさんでくれるしおりには、よく新しく始まるドラマのPRが書かれていた。
「面白そうだけども、見ることはできないんだろうな」しおりを見ながら、そう思った。

そんな行き・帰りの道でのひそかな楽しみが、手のひらサイズのラジオをイヤホンで聴くことだった。
そこから、TBSラジオの面白さを発見し、ラジオに対して、自分の友だちのような親近感を持つ。

小学5年生ごろから、何より好きになったのが、ナイターの後に始まる「夜はともだち」。
小島一慶さん・林美雄さんがDJの9時から0時までの深夜番組。
小島さんと林さんは曜日で交代制になっていた。

毎日毎日、この番組が自分のささやかな楽しみになった。
帰り道の途中で、帰った後の部屋で、お風呂に入るときにも(防水でも無いのに、シャンプーの棚にラジオを立てかけて)。
ずっと「夜はともだち」を聴き、明かりを消す中でラジオを耳に付けて寝た。

冒頭のテーマ曲はキャンディーズ、楽しいはがきやコーナーによっては大人の会話を垣間見る。
掛かる曲も洒落ていて、高橋幸宏がプロデュースしたラジの「ホールド・ミー・タイト」を初めて聴いたのも、この番組であった。
(ラジのこの曲の入ったアルバム[CD]は、数年前に神保町で手に入れた。)
また、渡辺真知子、中原理恵、そして、終盤のひたすら美しくなってゆく山口百恵の曲などを、特に愛した。

音楽番組では、洋楽を掛けるコーナーで、ハードロック、イーグルス、クイーンなどがかかった。
それとは別に、不思議な番組=スネークマンショーも「夜はともだち」の1コーナーだった。

***

ウイキペディアで「一慶・美雄の夜はともだち」は1976年(昭和51年)4月から1978年3月まで、たった2年間であると知る。
自分にとっての10歳から12歳まで。
もっともっと、長い時間の付き合いだったように、今では感ぜられる。

当時、永田町の小学校に通っていた自分には、TBSは至近距離でありながら、実際の距離感はあった。
ただ、毎夜、電波をたどって、まさに「友だち」のように、この番組に寄り添って・つながっていた。

「一慶・美雄の夜はともだち」の最終回(ウイキペディアによってわかった)1978年3月31日の放送は、最初から最後まで、全部聴いた。
是が非でも聴かねばという気持ちがあった。
一慶さんが、赤坂の夜の野外で、いろんなお話しをしてくれた夜。
ごおお、という風の吹く夜だった。

時間の系譜より、今おぼろに分かったのは、自分が小学を卒業した頃と「一慶・美雄の夜はともだち」の終わりが一緒だったこと。
あのごおおという風は、あの番組とともに、自分も境目の中で吹いていた風だったのだな、ということ。

■ラジ「ホールド・ミー・タイト」'77■
コメント (6)
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