こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年4月17日 水曜日 坂本龍一&糸井重里 「ぼくのかけら」'81

2013-04-17 23:22:05 | 音楽帳

じぶんの家は、過去にもなんどか話したが「ゴミ屋敷」だ。
とても、他人をお招き出来るような空間ではない。ネコさんなら遊びがいのある空間だろうが。
本、レコード、CD、カセット、おもちゃ、小物、昔書いた絵など・・・・そして、ゴミ。
さまざまなものが、混沌とあちらこちらに散乱している。
ゴミとは、ボク自身にとってはゴミでは無いが、他人が見たら「ゴミ」と認識するのも含む。

いっとき「片付けられないどうたらこうたら・・・」とかいうのを、病理とカテゴリーにした本や思想(とは呼べないハヤリ物)が、ああだのこうだの言われた。「断捨離」と言えば、ハヤリ物でそこになびく。
そーいう意味では、じぶんも「片付けられない者=ビョー人」の中の1人として切り捨てられるだろう。

CMやら何やら・・・あたかも「楽しい生活空間」などで、笑っている家族の姿があるが、どうしてそこまでウソを付かねばならないのか理解しがたい。暮らす空間が、小奇麗過ぎるのは不気味でしかない。
かつてアッコちゃん(矢野顕子さん)が、ラジオで「ライフでは無くて、”暮らす”という言葉を添えたいなあ」と言っていたことが、とても印象に残っている。

いくら可愛い・キレイな女の子でも、ウンコもオシッコもオナラもする。背中をボリボリ掻いたり、目やにやハナクソも取ったりするだろうし、よだれ垂らして寝たりもするだろう。
それでも、外に出るときには・出勤時や仕事場では、あたかもそういった表層を覆い隠そうとする。それは男も女も無い。
しかし、東京という都市や社会は「表層」「浄化」を大事にして、露呈する「本性」があらわになることを忌避しようと必死である。「3・11」という生命の境界線に立ってすら、そのザマ。
オトナ子供社会(=幼稚社会)の「いじめ」に合わないようにばかり、気が行っている。

都市や社会という方の顔に引きづられて、病的なまでに「キレイ/きたない」の二項対立論で、「きたない」と認定したものを”暮らし”から徹底排除するシステムが、ヒトの内部を洗脳し・家族の”暮らし”を引き裂いていったのは、80年代という分水嶺以降のなれの果て。エイリアン的じぶんも、ずいぶんと叩かれて・いじめられて来たものだ。

こちらは既に、20代前半の若かりし頃、先輩に「おまえは、縁側のじじいだなあ」と、よく大阪でいじられていた。そう言われて「凹む」か?と言えば、笠智衆さんや細野さん的世界にあこがれが強かったので、むしろ嬉しかった。
あるいは、色川武大さん・中島らもさん・つげ義春さん・みうらじゅんさん・伊集院光さんなど「フツーのヒトなんか存在しないのさ」とばかりに、それぞれのフィールドで悩みながら・カベにぶち当たりながらも、朴訥と失敗だらけをしながら生きる様の方たちに惹かれてやまない。
あるいは、永井荷風先生や西部邁さんのように、むしろ嫌われてもじぶんを貫きながら、変人扱いされることを恐れず生きる様にもシンパシーを感じる。

最近合った昔の同僚の先輩は、十数年後のじぶんのヒゲハゲ姿を見て「おまえに、縁側のじじい、と名付けたのは正しかったな」と大笑いしていた。一緒に大笑いした。

■坂本龍一 「ぼくのかけら」1981(アルバム「左うでの夢」より)■

作詞:糸井重里
作曲:坂本龍一
編曲:坂本龍一

『あげるよ ぼくのかけら

ありがとう キミのかけら』


ようく動植物との付き合いに置いて、これはなになに性のこういう系統の生き物と、犬で言えば血統書がどうしたこうした。。。
そーいうニンゲンとは一生相容れない。
ニンゲンそのものが、極めてテキトーな不具者であるにも関わらず。
そんなヤツには「じぶんは、道端の雑草や雑種のノラネコの方が可愛い」と言ってやりたい。
いったい何様のつもりだかわからないが、安っぽいヒューマニズムやエゴやスノッブ皆無の上、生命はそれぞれである。それぞれの在り方があるだけのことだ。

相田みつをの「にんげんだもの」やSMAPの「世界に一つだけの花」などは、ヘドが出るほど嫌いである。
コメント
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