昨晩、木村ハルヨさんの二胡と、木場さんの胡弓のライブが終わり、(これは凄かったです、レッドツェッペリンが演奏されるとは夢にまで思いませんでした、ユーチューブにアップされているそうです、ぜひ聞いて下さい)その後皆で食事に行き、二胡の話胡弓の話色々でて来た中で、そういえばあのコウキ(小葉紫檀、レッドサンダー)の二胡は?と聞かれ、ほぉさんが「シカバネになっています。あそこまでやらなくても、本物の小葉紫檀少ないのだから、むっ!!!」と。
以下、いい訳です。
ある意味男というのは、闘うことにこそ生きる意味があるのではないでしょうか。
これを読んでいる方が、二胡を弾いておられる方が多いという事を考えると、多分80%ぐらいが女性ではないでしょうか。
東京でどこの教室に行っても、まず女性の多さに目が惹かれます。
美しい女性達に沢山お会いできるというのは、男冥利に尽きますが、男の生きると言うのはむしろ闘いにこそあるのではないでしょうか。
女性にはご理解いただきにくいかもしれません。でも男というのは、そういう風にきり生きられないと、もう諦めておられる方も沢山いらっしゃるとは思います。
或いは、コドモなのよね!と。
闘うと言ってもいろいろあります。
私の周りには、様々に闘う男が多いのです。
まず、私がいつも内装の工事を頼むところの社長は、40歳以上のK1の全国チャンピョンでした、一回破れて、50歳を越えてなおかつ再度、チャンピョンを狙っています。
なんとなく、昔からK1に縁が有り、館長等とも良く呑みに行きました。
最近はK1もかなり下火になりさみしい限りですね。
私自身走る格闘技、ラグビーをやっていましたし、なんとなく周りに肉体的に闘う男達も多いのです。
闘うと言うのはそれだけではありませんね。
私の大好きな、将棋も囲碁もある意味、というか完全に闘いです。
自分自身の全知全能を振り絞って、囲碁であるならば、盤面には無いはずの半目を争うのですから。(実際には半目などというのは無いのです、互いに1目づつ打つのですから)
囲碁の言葉というのは、かなり殺伐としています。
生きるの、死ぬの、殺すの殺されたの、取ったの取られたのと(これホントに囲碁の中で使う言葉です)
捨て石、等という言葉も有りますし、将棋で言えば捨て駒ということになりますね。
自分の想像外の手で取られた時には、単に取られた、又は殺されたですが、自分で敢えて取られに行く時には、捨て駒、或いは捨て石ということになります。(かっこいいと思うのですよ)
二胡に何でそんなことが関係あるのかというと、私みたいな作り方をしているとあるのです。
普通、もう出来上がった形の二胡を作る人には関係ない事です。
いわゆる伝統をきっちり守っていさえすれば、そんな捨て石等ということはありえません。
全部が決まった通り作るのですから、全て生きた製品になります。
ところが、私のように、その決まった形というのに満足できず、もっと良い物をと考えると、やはり捨て石という実験に使う部分というのは沢山出てきます。
この部分削り込んだら、もっと高音出るのではないかと、限界まで削って、皮を張って、再度削って、結局、駄目にし(この駄目というのも囲碁では使います、1目にもならないところです)ほぉさんの言うシカバネを作りだすことになります。
これ敢えてやっているのです。
ですから、捨て石です、たぶん。
ここまでやっては、楽器にならないというところまでやって初めて、その限界を知りますし、その効果も見えてきます。
もう、既にちゃんとした二胡が伝統的に有るのだからそう作ればよいではないか、と、思う方が殆どかもしれません。
でも闘う二胡作り(私)は、それでは許せないのです。自分自身を許せないのです。
もっと良くなる筈と何処かで手が止まらず、ついやり過ぎてしまいます。
お前は無駄を出すためにやっているのかと言われるほど、シシルイルイ、なのが私の木工場なのです。
今、小葉紫檀の二胡の胴は、鉛筆立てになっています。
以下、いい訳です。
ある意味男というのは、闘うことにこそ生きる意味があるのではないでしょうか。
これを読んでいる方が、二胡を弾いておられる方が多いという事を考えると、多分80%ぐらいが女性ではないでしょうか。
東京でどこの教室に行っても、まず女性の多さに目が惹かれます。
美しい女性達に沢山お会いできるというのは、男冥利に尽きますが、男の生きると言うのはむしろ闘いにこそあるのではないでしょうか。
女性にはご理解いただきにくいかもしれません。でも男というのは、そういう風にきり生きられないと、もう諦めておられる方も沢山いらっしゃるとは思います。
或いは、コドモなのよね!と。
闘うと言ってもいろいろあります。
私の周りには、様々に闘う男が多いのです。
まず、私がいつも内装の工事を頼むところの社長は、40歳以上のK1の全国チャンピョンでした、一回破れて、50歳を越えてなおかつ再度、チャンピョンを狙っています。
なんとなく、昔からK1に縁が有り、館長等とも良く呑みに行きました。
最近はK1もかなり下火になりさみしい限りですね。
私自身走る格闘技、ラグビーをやっていましたし、なんとなく周りに肉体的に闘う男達も多いのです。
闘うと言うのはそれだけではありませんね。
私の大好きな、将棋も囲碁もある意味、というか完全に闘いです。
自分自身の全知全能を振り絞って、囲碁であるならば、盤面には無いはずの半目を争うのですから。(実際には半目などというのは無いのです、互いに1目づつ打つのですから)
囲碁の言葉というのは、かなり殺伐としています。
生きるの、死ぬの、殺すの殺されたの、取ったの取られたのと(これホントに囲碁の中で使う言葉です)
捨て石、等という言葉も有りますし、将棋で言えば捨て駒ということになりますね。
自分の想像外の手で取られた時には、単に取られた、又は殺されたですが、自分で敢えて取られに行く時には、捨て駒、或いは捨て石ということになります。(かっこいいと思うのですよ)
二胡に何でそんなことが関係あるのかというと、私みたいな作り方をしているとあるのです。
普通、もう出来上がった形の二胡を作る人には関係ない事です。
いわゆる伝統をきっちり守っていさえすれば、そんな捨て石等ということはありえません。
全部が決まった通り作るのですから、全て生きた製品になります。
ところが、私のように、その決まった形というのに満足できず、もっと良い物をと考えると、やはり捨て石という実験に使う部分というのは沢山出てきます。
この部分削り込んだら、もっと高音出るのではないかと、限界まで削って、皮を張って、再度削って、結局、駄目にし(この駄目というのも囲碁では使います、1目にもならないところです)ほぉさんの言うシカバネを作りだすことになります。
これ敢えてやっているのです。
ですから、捨て石です、たぶん。
ここまでやっては、楽器にならないというところまでやって初めて、その限界を知りますし、その効果も見えてきます。
もう、既にちゃんとした二胡が伝統的に有るのだからそう作ればよいではないか、と、思う方が殆どかもしれません。
でも闘う二胡作り(私)は、それでは許せないのです。自分自身を許せないのです。
もっと良くなる筈と何処かで手が止まらず、ついやり過ぎてしまいます。
お前は無駄を出すためにやっているのかと言われるほど、シシルイルイ、なのが私の木工場なのです。
今、小葉紫檀の二胡の胴は、鉛筆立てになっています。