ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

犯則と処遇(連載第24回)

2019-01-17 | 犯則と処遇

19 薬物事犯

 薬物犯罪は物質依存症と密接に関わり、精神保健行政・精神医療とも交錯するため、これを刑罰に“依存”してコントロールしようとすることに限界があることは明白である。その点で、伝統的な「犯罪→刑罰」体系が、薬物事犯において最もその限界をさらしていることは必然である。

 一般に、薬物の規制の要否やその方法は、薬学・医学の最新水準に照らして行なう必要がある。従って、薬学的・医学的に見て明白な有害性―とりわけ不法所持を犯則行為として取り締まるうえでは、薬理作用による他者加害の高度な危険性―が立証されない薬物に関して、単純所持や自己使用を犯則行為として取り締まることは無意味である。

 このことは、当該薬物を嗜好品として全面的に自由化することを意味しない。例えば、流通方法や使用条件を規制するなど薬事行政上の規制や取締りがなお必要な場合はあるからである。
 一方、薬学的・医学的に明白な有害性が認められる薬物にあっても、その自己使用自体は薬物依存症という一つの精神疾患の症候であるから、犯則行為としての取締りよりも、精神保健福祉上の保護的・治療的な対応が不可欠である。

 もっとも、自発的に医療機関を受診する依存症者は少なく、規制薬物の所持容疑で摘発されて依存症も判明することが多い。そうした点では、規制薬物の単純所持は一つの取っ掛かりとして犯則行為とするが、その処遇は対物的処分としての没収で十分である。
 そのうえで、所持者の薬物常用が判明した場合は、捜査機関から所管行政機関に通報し、行政機関が対象者に指定医療機関等での治療命令を発するようにする。この命令に反して治療を受けようとしない者に対しては、後述する人身保護監の発する令状に基づき指定医療機関等へ強制収容することも可能とする。

 他方、有害な規制薬物の密輸・密売のような営利的な犯則行為は、しばしば組織的に実行されるところでもあり、薬物事犯取締りの中核的な対象を成す。
 組織的薬物事犯に対する処遇は、組織犯対策そのものと重なる部分もあるが、組織のメンバーのように反社会性向が類型的に高く、第二種矯正処遇相当の犯行者が少なくない一方で、報酬欲しさからの一過性の売人や運び屋などに対しては、保護観察が相当であろう。
 とはいえ、貨幣経済が廃される共産主義社会では、規制薬物の取引に伴う金銭的利益という最大の旨味もほぼ消失するため、そもそも規制薬物の取引自体が停止することにより、結果として、密輸・密売組織は解散し、薬物依存問題も解消される可能性は高い。

 如上の規制薬物の所持をはじめとする犯則行為類型については、法定主義を徹底するため、特別法ではなく、一般法上に基本的な規定を置くべきである。
 そのうえで、一般法上では取り締まり対象となる規制薬物の種類を個別に列挙する必要はなく、規制薬物のリストは特別法の定めに委ねてよいが、事前告知機能を十分に果たさせるため、個別の規制薬物ごとに法律を定めるのでなく、例えば「規制薬物取締法」といった統合的な法律に一本化して規制薬物のリストを一覧的に明示すべきである。

 繰り返しになるが、そのリストは薬学・医学の最新水準に照らして常に検証に付されなければならない。さしあたり大麻がリストから外れる可能性はあるが、反対論も強い。ここで大麻をめぐる高度に科学的な論争に決着をつけることはできないが、重要なことはそうした議論そのものをタブーとして凍結してしまわないことである。

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犯則と処遇(連載第23回)

2019-01-16 | 犯則と処遇

18 財産犯について

 財産犯は、所有権を神聖不可侵の権利とみなす資本主義社会においては、他人の所有物を盗む窃盗行為を典型例として最も主要な犯罪類型であるが、貨幣経済が廃される共産主義社会においても、他人から財物を不法に取得する行為は犯則行為となる。
 
 とはいえ、貨幣経済下における財産犯の大半が金銭の不法領得行為であるから、貨幣経済が廃されれば、財産犯の発生件数は激減すると予測される。美術品のような物品の窃盗のようなものですら、その動機の多くはその貨幣価値・交換価値を見込んでのことであるから、貨幣経済の廃止は、そうした高価値物品に対する不法領得行為をも激減させるであろう。

 さらに、現代的な情報社会において激増しているコンピュータの不正使用のような情報犯に関しても、重大な情報犯の多くが口座からの金銭の窃取や恐喝など金銭目的であることを考えれば―その意味では、情報犯≒財産犯である―、貨幣経済の廃止はこの種の情報犯の主要な動機を消失させることになるから、情報犯の顕著な減少を導き、情報セキュリティーの面でも大きく寄与するであろう。

 こうして金銭を目的とする財産犯が激減するとはいえ、美術品のような物品の不法取得行為は単にそれを所持していたいという動機からも行われるから、貨幣経済の廃止が財産犯の完全な撲滅を導くわけではない。そのため、窃盗・詐欺・横領といった典型的な財産犯の類型は、「犯則→処遇」体系の下でも維持される。
 ただし、共産主義社会にあっては、所有権はもはや神聖不可侵ではなく、所有という観念よりも、ある物品を所持しているという事実を尊重する占有権に重点が移る。ここでいう占有とは合法的な占有であり、他人所有の物品を所持する窃盗犯の占有のような不法な占有は論外である。

 その点、「犯則→処遇」体系の下では、財産犯に対する第一選択の処遇は、被害物品の没収である。これは、犯則行為によって得た不法な収益を犯人―犯人から事情を知りつつ転得した者も含む―から剥奪した上、本来の正当な権利者に返還するという最も単純明快な処理方法である。
 ことに、いわゆる万引きのように被害がごく些少の場合は、没収のみで十分である(後に見るように、被害者―加害者間の「修復」という一種の調停プロセスも踏まれる)。ただし、被害は些少でも、再犯者の場合は、保護観察に付する必要性がある。
 一方、没収を執行しようにも、犯人が収益を消費し尽くし、手元に残っていない場合もある。そのような場合に、代替的な懲罰目的で矯正処遇を課することはできない。しかし、不法に取得した他人の財産を消費し尽くすという被害回復を困難にする不法収益利用行為を別途の犯則行為とし、矯正処遇を課することはできる。

 財産犯をめぐるより困難な問題として、執拗に同種の財産犯を反復する累犯者への対応であるが、これについては、「累犯問題」という項目の下、章を改めて取り上げることにする。

 ところで、財産犯の中でも暴行・脅迫を手段とする強盗は、犯行渦中で傷害や殺人に転化する恐れもある人身犯的な財産犯であり、単純な窃盗や詐欺等とは本質を異にする。このような人身犯的財産犯については、没収や保護観察では足りず、第一種ないしは第二種矯正処遇を要することになるだろう。
 
 なお、財産犯全般について言えることだが、財産犯は一過性のものも多く、財産犯の中で反社会性向が強いのは累犯者にほぼ限られるから、第三種矯正処遇を課する必要性は、多くの場合、認められないものと考えられる。

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犯則と処遇(連載第22回)

2019-01-11 | 犯則と処遇

17 性的事犯について(下)

 前回取り上げた「性暴力犯」に対して、「性風俗犯」及び「性表現犯」は性質を異にする犯則行為である。これらは個人の性的自己決定ではなく、公序良俗という社会的秩序を侵害する犯則行為だからである。

 このうち「性風俗犯」は、「犯罪→刑罰」体系の下でも、多くの諸国で非犯罪化や非刑罰化が進んでいる。例えば、かつては単なる“不倫”では済まない重罪とされた「姦通罪」は多くの国で非犯罪化され、単に離婚事由や民事不法行為責任の問題とされるようになった。このような進歩的方向性は、「犯則→処遇」体系においても引き継がれる。

 一方、「性風俗犯」の代名詞とも言える売買春の合法性については変遷があり、かつては公娼制度のように合法的であったものが、近代には違法化に向かうが、その後再転換し、再び合法化する潮流も一部で生じている。
 売買春行為が不道徳と評価されなくなったわけではないが、不道徳な行為をそのまま法律上に平行移動して違法な行為とみなす発想は次第に過去のものとなりつつあると言えるであろう。
 むしろ、売買春はしばしば人身売買として組織され、性的サービス労働者が拘束的な環境下で性奴隷化される危険が高い点で、売買春そのものよりも、前回見た性的支配行為を犯則行為として取り締まるほうがが現代的要請に合致する。

 「性表現犯」に関しては、民主的な表現の自由との関係で、機微な考慮を必要とする。道徳的な見地から猥褻と評価されるような表現物全般に網をかけて取り締まるやり方は「犯則→処遇」体系には合致せず、規制対象とすべき特定の表現物を例示的に限定したうえで、特定性的表現物頒布等の行為のみを犯則行為として規定することが目指される。
 その対象となる表現物として最も優先順位が高いのは、児童を被写体とするポルノグラフィー(児童ポルノ)である。ただ、その取締りに当たっては、表現物自体の取締りだけでなく、そもそも児童を性的な被写体として使役することの取締りも同時になされなければ効果は上がらない。

 その点では、ポルノを製作する目的で、未成年者に性的な姿態をとらせることや、保護者と業者が児童ポルノを製作する契約を結んだり、業者が被写体となる児童をあっせんしたりする未成年者性的使役行為を犯則行為として定める必要がある。ただし、これは性表現犯というより、むしろ前回見た性暴力犯に近い準性暴力犯と言える。
 それ以外にも、性暴力を助長するような映像系表現物も取締りの対象に含まれ得るが、対象外の表現物でも青少年の情操を保護する観点から一定の規制を免れないものもあり得る。それらについては司法的な差し止めなどの民事的な手段で対応できるであろう。

 「性風俗犯」と「性表現犯」の微妙な境界線を成すのは、公然と裸体をさらすような行為である。何らの必然性もないこのような露出行為は単に性道徳に反するというのではなく、他人に著しい不快感・嫌悪感を抱かせる行為である。その意味では、これも、性的強要行為に近い準性暴力犯とみなすことができるであろう。
 そうであれば、「公然」でなくとも、およそ他人の面前で相手の意思に反して全裸露出するような行為は犯則行為としての性的露出行為に当たることになろう。
 一方で、劇場でのヌードダンスや確信的に全裸で保養することを主義とするヌーディストが集合する特定の場所(海岸や保養施設等)で露出する行為は、むしろ露出を芸能や主義として享受する人々の間でだけ限定的に公然化される一種の表現行為にすぎないから、犯則行為としての性的露出行為には当たらないと理解される。

 さて、以上の性表現犯や性的露出行為を犯す者の多くは一過性の犯行者であるから、原則として保護観察で足りる。しかし、同一または同種の行為を反復する一部の累犯者に対しては第一種矯正処遇を与える。また特定性的表現物頒布等の犯則行為に対しては没収を活用する。
 これに対し、未成年者性的使役行為は実害も大きく、反社会性向が高い犯行者も少なくないから、最大で第二種以下の矯正処遇とすることが適切であろう。

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犯則と処遇(連載第21回)

2019-01-10 | 犯則と処遇

17 性的事犯について(上)

 性的事犯は、伝統の「犯罪→刑罰」体系の中では、「性犯罪」と呼ばれてきたものに相当する。ただし、性的事犯はより広く「性暴力犯」・「性風俗犯」・「性表現犯」という三つの系統を包括する概念である。

 この三系統の中で最も実害が大きく、深刻なのが「性暴力犯」である。「性暴力犯」の典型は性行為を強要することであるが、現代では性的自己決定の意識が高まり、「性暴力」の概念枠は広がる傾向にある。
 そのような方向性は、「犯則→処遇」体系の下でも変わらない。むしろ、伝統的な「犯罪→刑罰」体系においては、男性優位的な価値観を下敷きに、性犯罪の成立範囲を限定する傾向も見られたところ、性的自己決定の今日的水準からすれば、相手方の意思に反して性的行為全般を強要することを包括して「性的強要犯」ととらえるべきである。
 この性的強要犯は異性間のみならず、同性間でも成立する。性的自己決定の観点からは、同性間といえども、およそ性的行為は合意に基づくものでなければならないからである。
 また、性的行為の意味と結果について十分理解していない16歳以下の未成年者や知的障碍等のために性的行為の意味と結果を理解できない相手と一般的な成年者との性的行為は、双方の形式的な合意に基づいていても、成年者側による性的強要行為とみなされる。

 性的強要行為は相手方の明確な意思に反して性的行為を強要する型の犯則行為であるから、当事者間に性的行為に関する合意がなかったことがその成否を分けるポイントとなる。そのため、合意の有無が司法の場でしばしば激しく争われ、被害者が新たな屈辱感を味わうこと(第二次被害)も少なくない。
 だからといって、当事者間の合意に関する立証基準を緩和すれば、冤罪に直結しかねない。そこで、性的強要犯とは別に、他人を支配下に置き、自己または第三者に対して性的に奉仕させる「性的支配犯」という規定を設けることが有益である。

 性的支配犯の場合、被害者は消極的・受動的ではあれ、性的行為に対して同意を与えてはいるのであるが、全体としては加害者の支配下に置かれているのである。
 その際、性的奉仕が有償か無償かは問わない。たとえ被害者が性的奉仕に明確な対価が与えられる営業に雇われていたとしても、雇用主の支配下で逃れることのできない状態に置かれていたような場合は、雇用主は性的支配犯となる。
 こうした規定が存在すれば、当事者間に合意がなかったことの立証が困難で、性的強要犯が成立しない場合であっても、性的行為の状況からして性的支配犯が成立する可能性は残され、被害者の負担を軽減することもできるだろう。

 ところで、性暴力犯の被害者は羞恥心や恐怖心から被害の通報を行なわないこともままあり、結果として性暴力犯には立件されないケースも少なくないと見られる。通報されなくとも、捜査機関が犯則行為を認知した場合は捜査を開始すべきであるが、被害者側の明示的な意志に反してまで捜査を強行することは被害者にとって苦痛となる。
 そこで性暴力犯の捜査は、被害者側の明示的な意志に反して開始されてはならないという条件をつけることが被害者のためになるであろう。

 それでは、「犯則→処遇」体系の下で、以上のような性暴力犯に対する処遇はどうあるべきか。まず、最も重大な性的強要犯の場合には性欲を自律的にコントロールできない病理性の強い犯行者もしばしば見られるため、最大で第三種矯正処遇が相当である。

 ここで機微な問題となるのは、性暴力犯の加害者として圧倒的多数を占める男性の中でも、通常の矯正プログラムをもってしては矯正困難な者に対して、去勢措置を施すことの是非である。
 その点、外科手術による去勢措置は非人道的であり、現代的な人権観念からは容認できない。しかし、薬物による去勢措置に関しては、厳格な医学的判断に基づく限り、そうした究極の処分をためらうべき科学的理由は乏しい。
 そこで、第三種矯正処遇のうち、医療的処遇を内容とするB処遇の対象者で、去勢措置を施さない限り終身監置とせざるを得ない者に対しては、例外的に薬物去勢に付する可能性を持たせてよいと考える。
 その際、去勢の必要性に関する3人の医師による一致した判断に加え、さらにその判断の是非を確認する司法審査を経て実施されるべきである。

 ところで、性的強要犯の中には、いわゆる痴漢のように一過性の犯行者も含まれてくるので、保護観察相当の場合もあり得る。そこで性的強要犯の処遇の幅は、第三種以下の矯正処遇から保護観察まで広く取られることになるだろう。

 他方、性的支配犯は多くは計画的に、しばしば組織的にも実行されるため、一過性ということは考え難く、保護観察相当の場合はないが、犯行者の病理性は一般に性的強要犯の場合ほど高くないと考えられるから、第二種以下の矯正処遇が相当な場合が多いと考えられる。

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犯則と処遇(連載第20回)

2018-12-29 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(下)

 臓器移植は死のプロセスに入ってから生じ得る問題であるが、死のプロセスに入る以前にいわゆる延命処置を拒否して自然に来たるべき死を迎えることは「尊厳死」と呼ばれ、その可否が議論されてきた。
 伝統的な見解によれば、人工的な延命処置が可能な限りはそれを続けることが医師の務めであり、医師が延命を中止して患者に死をもたらすのは殺人行為(嘱託殺人)にほかならないということになるだろう。

 しかし、自らの死に方を選択する自由を尊重する考えからすると、患者が人工的延命処置を受忍して医の倫理のために奉仕させられることは本末転倒である。そこで、意思表示がまだ可能な間に延命処置を拒否して尊厳死を望む旨の意思表明(リヴィング・ウィル)を残しておく慣習が啓発され、普及してきた。
 こうしたリヴィング・ウィルが示された患者に対して医師が延命処置を中止して死をもたらすことは嘱託殺人に当たらないという考え方が諸国で受容されるようになってきたことは、一つの進歩であろう。

 とはいえ、延命処置とは、回復の見込みがなく、いずれ確実に死を迎える患者を人工的に生かし続けることであるから、医師が延命処置を中止することが殺人行為に当たるという論理は、そもそも形式論にすぎるだろう。
 もちろん、医師は独断で延命処置を中止すべきではないが、それは医の倫理上の問題であって、法的な犯則行為の成否という次元の問題ではない。元来、無益な延命処置は死を間近にし、衰弱した患者の心身の負担を倍加するだけで医学的にもプラスにならないのであるから、無益な延命処置そのものをしないことを医療的慣習として確立すれば、「尊厳死」という問題自体が解消されていくであろう。

 より深刻な問題は、死苦を逃れるため、あるいは回復の見込みのない難病の苦しみから解放されるために死を望む患者に対して、医師が致死性薬物の注射などの方法によって積極的に死をもたらす「安楽死」の可否である。
 これは「尊厳死」と異なり、患者にまだ自力での生存可能性が残されている段階で人為的に死をもたらすことであるから、医師がまさに嘱託殺人(独断なら殺人そのもの)に問われかねないわけである。
 「尊厳死」が認められるならば「安楽死」も認められて然るべきと短絡するわけにはいかない。なぜなら「尊厳死」は死に方の自由の問題であったが、「安楽死」は死ぬこと自体の自由を認めるべきかどうかという問題だからである。
 死の自己決定という場合、それは死に方、言い換えれば死の迎え方の選択であって、死ぬこと自体の選択ではない。死ぬこと自体の選択の最たるものは自殺であるが、自殺は他殺と異なり、今日では多くの国で犯罪とみなされないとはいえ、倫理上は反価値的と認識されている。

 それでも、「安楽死」を望む人が一定存在するのは、一部の病気の末期では肉体的にも精神的にも耐え難い死苦が生じ得るからである。
  しかし今日、こうした死苦を鎮痛剤の投与や放射線照射によって緩和したり、精神療法によって精神的な苦痛を軽減したりするターミナル・ケアが進歩し普及してきた。
 とはいえ、こうしたターミナル・ケアも他の医学的処置と同様、万能ではない。ターミナル・ケアも効果なく、患者の死苦はなお激しいというやむにやまれぬ状況で、患者の依頼を断り切れず、医師が安楽死を決断したというような場合に、医師を嘱託殺人に問うべきかという究極の問いは残される。
 かの「生命の神秘化」の立場からすれば、こうした場合にあっても、当事者たる医師は訴追され処罰されねばならないのであろう。しかし、「犯則→処遇」体系の下では、件の医師は倫理的なジレンマに立たされてあえて違法な決断をしたのであって、矯正すべき反社会性向は認められない。
 ただし、医師が患者から何らかの報酬を約束されるなどして安易に安楽死を実行したような場合は、医の倫理を軽視する反社会性向が認められるので、処遇対象となり得る。

 しかし、このように個別の事情を考慮して合法性を認定するよりは、ターミナル・ケアも効果がない患者に対する最後の手段として、一定の厳格な手続きを踏んだ上で人為的に死をもたらすことを認めるほうが法的には安定であり、むしろ人道的ですらあり得る。
 このような言わば合法化された安楽死は、「安楽」といういささか安易な形容にはふさわしくなく、むしろ「平安死」と呼ぶことが望ましいであろう。
 
 「平安死」を合法化する場合、その要件と手続きは厳格に設定しなければならず、とりわけ患者本人の意思表示と公証人によるその法的な確認は絶対要件となる。また手続きの面では、捜査機関や司法機関から独立して死因の検証を行なう中立的な検視を義務づける必要がある。
 もちろん、医療現場の倫理的な混乱を避けるために、こうした「平安死」の要件と手続きについては、特別な法律に明確な文言をもって規定しておくことも絶対条件であり、不文の医療慣習に委ねてはならない。

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犯則と処遇(連載第19回)

2018-12-28 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(中)

 前回見たように、出生前の胎児を中絶することを合法化するとしても、出生後の人を殺せば違法な殺人であることは言うまでもない。伝統的に、殺人は最も自明の犯罪行為と認識されてきたが、近年は「殺人」の概念にも変容が生じてきている。
 「殺人」と言えば、かつては殺意をもって他人を心臓死させることと決まっていたが、近年は「脳死」の概念が登場してきたため、「殺人」の定義も見直しを迫られている。
 「脳死」の概念はほとんど専ら脳死者からの臓器摘出・移植という高度医療を可能とする文脈で引き合いに出されるため、「脳死」は果たして人の死と認められるか否かをめぐって論争が提起される。

 脳死者からの臓器移植を合法化する限り、それを犯則行為として立件することはあり得ない一方、「脳死」をいずれは心臓停止に至る不可逆的な状態とみなすなら、死を心臓死か脳死かというある一時点の事象としてとらえるのでなく、脳死から心臓死までの時間的なプロセスとしてとらえる「プロセスとしての死」という発想に切り替える必要があるだろう。
 これはより明確な心臓死をもって死ととらえる伝統的な理解に比べて不安定さを残し、反対論もあり得るところである。心臓死説は脳死状態でも心臓は動いていてぬくもりもある“人”を死体とみなすことは容認できないという感情に基づいているが、これは多分にして、かの生命の神秘化と関わっている。
 しかし、脳科学の発達に伴い、人間の生命活動を実質的に統括しているのは心臓以上に脳であることが判明するにつれ、生体の司令センターたる脳の機能停止をもって人の死の重要な要素とみなそうとする考えが医学的に定着してきた。

 もちろん、病態によっては脳死を経由せず短時間または瞬時に心臓死へ至ることもあり、俗に「即死」と呼ばれる。しかし、場合によっては、脳死から心臓死まで時間的なプロセスをたどる病態もあり、そうした時間差を利用して行われるのが移植医療である。
 「プロセスとしての死」という概念によれば、脳死者からの臓器摘出は生体でなく死体からの摘出となるから、殺人に当たらないことは当然である。形としては死体損壊であるが、法の定める正当な手続きに従い、移植医療の一環として実施された限り、完全に合法的な医療行為である。
 一方、殺意をもって他人に暴行を加え、脳死状態にさせれば殺人は既遂に達するのであり、未遂ではない。しかし、脳死状態にある被害者を山林などに捨てることは死体遺棄であって、生きている人を棄てる遺棄ではない。

 こうして「プロセスとしての死」という死の規定によると、死の概念に時間的な幅が生じるので、各人がどのような死に方をするか、つまり自分らしい死に方―臓器を提供するかどうかを含めて―を選択する余地が生まれてくる。
 しかし、臓器移植を高度に推進するために、原則として近親者の同意だけで臓器移植を可能とする法制が導入されると、このことによって個人的な信条から臓器提供を望まない人の自己決定が妨げられる恐れも出てくる。

 その点、近親者の同意だけで臓器提供ができるということは、本人の生前における臓器提供拒否の意思表示を認めないという趣旨ではない以上、本人が生前に臓器提供を拒否する意思を口頭または書面で明示していた場合には臓器摘出は違法とされるべきである。
 この基本ルールは臓器移植法上明文で定められるにとどまらず、書面上の意思表示を簡便に行えるよう、「臓器提供拒否カード」を正式に発行したうえ、臓器提供拒否者登録制度を整備し、医療現場でも登録情報を迅速に検索できるように制度化することが求められる。

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犯則と処遇(連載第18回)

2018-12-27 | 犯則と処遇

16 生命犯―生と死の自己決定について(上)

 刑罰制度は人の生と死の法的な定義をも司っているため、犯罪各論の領域における生命に対する罪は最も重要な位置を占めている。言うなれば、刑罰制度とは生命を司る神の代理人でもある。
 刑罰制度の生命への対し方は、実際、生命の神秘化である。明言するかどうかは別として、刑罰制度は生命を神からの授かり物とみなす。そのため、生命に対する罪は「涜神罪」―今日では多くの国で廃れている―に準じた地位にある。
 一方で、近年は生命の始まりと終わり、すなわち生と死とに対する各人の自己決定を重視する考え方も有力化してきている。この考え方は、当然にも「生命の神秘化」とは対立関係に立つ。そこから生命に対する罪のあり方をめぐっては、伝統的な刑罰制度では解決し難い種々の難問が生じてくるのである。

 まず生命の始まりをめぐっては、胎児を中絶してそもそも出生させないことを犯罪行為とする堕胎罪にまつわる難問がある。胎児はまだ人ではないが、一個の生命体であることは間違いない。そこで、その胎児を「殺す」堕胎は今日でも日本を含む少なからぬ諸国で犯罪として規定されている。
 堕胎罪とは、裏を返せば、妊娠した女性に出産を強制することである。しかし、出産は女性に肉体的な負担―時に死にも至る―を強いるばかりでなく、人生設計をも大きく左右する一大事である。堕胎罪を厳格に適用すれば、極端には、性的暴行の結果妊娠しても、女性は犯人の子を出産して母とならなければならないという冷酷な運命を課することになってしまう。

 女性の権利の尊重に対する意識が向上するにつれ、こうした出産を強制する刑罰への批判は高まらざるを得ず、むしろ妊娠中絶を女性の自己決定権として認める考えが優勢となる。
 もっとも、ここで言う自己決定とは、自分自身が生まれることの自己決定ではなく―それは不可能な自己決定である―、他人を産み出すことの自己決定であるから、通常の意味での自己決定とは事情を異にする。胎児は妊婦の体内で母体とほぼ一体的であり、胎児自身の自己決定は不可能であるとはいえ、妊婦に出産するかどうかの全権を与えることに反発する向きがあるのも理解できる。

 しかし、妊婦に出産を強制することの非道性ということから、結果として中絶は合法化されるべきことになる。その点で、妊娠が性的暴行による場合や出産が母体に危険を及ぼす場合のように、正当な理由がある限り中絶を認めるという折衷的な考え方も現実的な妥協点かもしれない。
 とはいえ、そもそも理由もなく思いつきで中絶しようとする妊婦などいないはずであり、「犯則→処遇」体系からすれば、通常の中絶者を生命犯として処遇すべき根拠は見出し難いから、中絶を犯則行為とみなすこと自体が不合理ということになる。
 ただし、妊婦の同意なく強制的に堕胎する不同意堕胎は、なお犯則行為として維持する必要がある。不同意堕胎は通常の中絶とは全く状況を異にし、妊婦以外の第三者がまさしく胎児を殺害することにほかならないからである。

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犯則と処遇(連載第17回)

2018-12-23 | 犯則と処遇

15 過失犯について

 「犯則→処遇」体系における犯則行為とは基本的に、意図して犯則行為を実行する故意行為であって、不注意による過失行為は例外的な犯則行為である。
 そのうえ、「犯則→処遇」体系からすると、処遇の対象とすべき過失犯は、結果を容易に予見し得たのに不注意で予見せず、漫然と危険行為をし、または必要な結果回避行為を怠る重過失犯の場合であり、軽過失犯は処遇の対象外である。

 もっとも、職業上高度の注意義務が課せられている者の過失、すなわち業務上過失の場合は、軽過失犯も含め処遇対象となる。業務者は一般市民が容易に予見し得ない結果に対しても、職業上の知識経験に基づき予見し、結果発生防止のために適切な対応を取ることが可能であり、またそうすべきでもあるからである。
 なお、「業務」とは、職業的に反復継続している仕事のことであり、職業的運転手が休日にマイカーを運転する行為は「業務」とみなされない。このような場合は、私的な運転者と同様だからである。ただし、職業運転手としての技能があることを考慮すると、一般の日曜ドライバーの場合よりも重過失が認定されやすいであろう。

 いずれにせよ、過失犯は通常、反社会性向が低く、一過性のものであるから、一般的な重過失犯については「保護観察」で足りると考えられる。
 ただし、病的なほどに著しく注意を欠いた場合や、同種過失行為を繰り返す過失累犯は「第一種矯正処遇」に付する必要があろう。また業務上過失犯の場合は高度の注意義務に違反した反社会性に照らし、やはり最大で「第一種矯正処遇」が相当である。

 ところで、過失犯の中で最も多いのが、いわゆる交通事故、すなわち自動車運転過失犯である。公共交通事故を含めた交通事犯をめぐる諸問題に関しては後の章で改めて取り上げるが、「犯則→処遇」体系の下では、自動車運転過失とその他の過失とをことさらに区別することはしない。
 すなわち、非業務上の自動車運転過失については、重過失の場合に限り一般的な過失致死傷犯として、業務上の自動車運転過失については、軽過失の場合を含めて業務上過失致死傷犯として処遇される。

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犯則と処遇(連載第16回)

2018-12-21 | 犯則と処遇

14 共犯について

 前回見た未遂犯に関わる問題とともに、「犯則→処遇」体系の下で、「犯罪→刑罰」におけるのとは異なる理論的変容が生じるのは、共犯に関わる問題である。共犯は他人と共に犯則行為を確実に実行しようとする点で、失敗リスクも高い単独犯に比べて、反社会性向は初めから相当程度高いとみなさざるを得ない。

 とはいえ、共犯にも様々な類型があるが、最も反社会性向が高いのは主犯格(複数共同主犯もあり)であることも疑いない。その際、重要なことは共犯関係を主導したかどうかという点であり、共犯の態様が直接的か間接的かは関係ない。従って、例えば、Aが中心となって犯行を計画し、Bに指示して実行させた場合、Aが主共犯として処遇されることになる。
 この場合、仮にBがAの指示に反して犯則行為を実行しなかったとしても、Aは放免とならない。Bが犯行をとりやめたのはAのあずかり知らないBの独断によるもので、Aとしては自分の指示どおりに犯行がなされたものと信じていた限り、Aの反社会性向は変わらないからである。
 ただし、何も起きなかったので、未遂犯ではあるが、Aのあずかり知らない事情による不発であるから、偶発未遂にとどまる。なお、A自身がBに指示して犯行をやめさせた場合は中止犯となる。

 一方、主犯に従って犯則行為を実行する従共犯に関しては、やや細かく見る必要がある。従共犯は、主共犯の教唆や指示によって犯則行為を実行するという点で、主共犯に比べれば、反社会性向は相対的に低いと言え、多くの場合、「第一種矯正処遇」で済むであろう。ただし、犯行組織/グループ等のメンバーとして役割化している場合はこの限りでない。
 従共犯は主共犯の指示に従って犯則行為を自ら実行する場合(実行従共犯)の他に、犯行の謀議に加わる共謀犯と犯則の実行を容易にする幇助犯とが区別される。

 共謀犯は、犯行の謀議に参加し、計画に加わることである。共謀者が主犯格である場合は、まさに主共犯とみなされるから、共謀犯であるためには、従属的な立場にあることが条件となる。
 ちなみに、犯行の計画を単に知らされていただけでは共謀犯とは言えないが、公務員のように、自ら覚知した犯行を報告・告発等すべき立場にありながらあえて黙認したような場合は、不作為による共謀犯として処遇されることもある。

 これに対し、幇助犯はまさに助手のような形で犯則行為の実行を手伝うものであり、犯行への加担は最も従属的であり、殺人行為への加担のような場合を除き、「保護観察」相当の場合も少なくないであろう。
 幇助犯の典型は、例えば、AがC宅への侵入窃盗を企てていたBから頼まれて所有する道具を貸し、Bがその道具でC宅に侵入したような場合である。
 しかし、結局、Bが思いとどまり何もしなかったという場合、Aの道具貸与はBにとって何ら役に立たなかったのであるから、Aが窃盗幇助犯として処遇されることはない。

 また、Bは計画どおりC宅に侵入したが、Aから借りた道具は使用せず、自分の道具を使用したという場合も、Aの道具貸与はBがC宅に侵入するに当たり役に立っていない以上、Aが窃盗幇助犯として処遇されることはない。
 もっとも、この場合、Aの道具貸与がBを勇気づけたというように、精神的な面で役立った限りAは窃盗幇助犯に当たると解釈する余地もあるが、そうした精神的な幇助関係はひとえに主犯側の主観的な事情にかかるものであるから、独立した犯則行為とみなすべきではない。従って、幇助犯とは厳密には「主犯を物理的に幇助する者」と定義されるであろう。

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犯則と処遇(連載第15回)

2018-12-20 | 犯則と処遇

13 未遂犯について

 「犯則→処遇」体系の下では、犯則行為の成立に関わる理論上の問題でも、いくつかの重要な変容が生ずる。
 その一つは未遂犯に関する問題である。犯則行為に着手するも所期の結果が発生しなかった場合としての未遂犯は、「犯罪→刑罰」図式の下では、既遂犯よりも罪状が軽いとみなされやすい。このような発想は、殺人という結果の有無を偏重する応報刑論的発想の一つの帰結にほかならない。
 しかし、例えばAが強固な殺意をもってBの胸をナイフで刺し致命的な傷を負わせたが、Bは奇跡的に一命を取りとめたというように偶然の事情によって所期の結果が生じなかったにすぎない場合(偶発未遂)、「犯則→処遇」定式からすれば、偶発未遂犯は自己のあずかり知らない偶然の事情によって既遂犯となることを免れたにすぎない以上、反社会性向としては既遂犯と同等であり、処遇の上で既遂犯と区別する必要はないのである。

 処遇上既遂犯と区別すべき未遂犯とは、例えばAが殺意をもってBの胸をナイフで刺したが、ためらいがあり、強く刺さなかったため、Bは軽傷で済んだというように、故意が弱いために所期の結果が生じなかった場合(減弱未遂)である。
  減弱未遂犯も故意をもって殺人という犯則行為に着手した以上、一般的に反社会性向が低いとは言えないが、ためらいがあって故意が弱かったため目的を完遂できなかったという限りでは、病理性は低く、最大でも「第二種矯正処遇」が相当であろう。

 一方、犯則行為に着手しながらも自己の意思によって行為を中止して自ら結果発生を防止した場合(中止未遂)、「犯則→処遇」定式からすると、中止未遂犯といえども犯則行為そのものを見合わせたのでなく、いったんは犯則行為に着手した以上、軽微な反社会性向は認められ、最低でも「保護観察」に付する必要はあると言わざるを得ない。
 反面、中止行為者は単にためらうにとどまらず、故意を撤回して結果発生防止の努力をした限り、反社会罪性向の低さを示していると言える。
 そうだとすると、結果発生の有無を問わず、犯則行為に着手した後、自ら結果発生防止のための中止行為をした者は、最大でも「第一種矯正処遇」にとどめる特則が置かれるべきである。この意味で、「中止未遂犯」という概念は「中止犯」という包括的概念に吸収されることになる。

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犯則と処遇(連載第14回)

2018-12-15 | 犯則と処遇

12 教育観察について

 「教育観察」は、少年に対する保護観察の性格を持つ独立の処遇である。従って、その対象者は「矯導学校編入」に相当しない犯則行為をした少年が中心となるが、その他にも、重大な非行をした13歳未満の少年で「特修矯導学校編入」相当でない10歳以上の者、10歳未満でそもそも「矯導学校編入」に付し得ない者も対象者に含まれる。

 いずれにせよ、「教育観察」にあっては成人に対する保護観察とは異なり、教育に重点が置かれることから、その実務機関は一般の保護観察所とは別に設けられる「少年観察所」である。
 「少年観察所」は一般の保護観察所に併設してもよいが、組織・運営は分離されていなければならず、「少年観察所」に配属されて「教育観察」の実務に当たるスタッフは、少年問題に精通した者が充てられる。

 「教育観察」の対象者は非行傾向の弱い少年であるから、「教育観察」における処遇は、矯正のプロセスを省略して更生のためのサポートをすることが中心となる。
 具体的には、本人へのカウンセリングのほか保護者への助言も行う。ただ、家庭環境の調整などをするには、該当少年を「未成年者福祉センター」へ委託保護しつつ「教育観察」を行う必要もあるだろう。
 一方、重大な非行をしたが「矯導学校編入」には付し得ない13歳未満の年少少年を対象とする場合は、「教育観察」の枠内で一定の矯正的なプログラムを課することも必要となる。こうした場合、対象者を少年鑑別所に短期間宿泊させて集中的に処遇する「宿泊処遇」も考えられる。

 以上の「教育観察」は少年の成長に応じた教育的な更生サポートを内容とするものであるから、予め期間を定めるには適しない。従って、その終了時期は「教育観察」に当たる「少年観察所」が対象者の更生の度合いを見て判断する。
 ただし、2年を超えて「教育観察」を継続するときは、改めて司法機関の許可を得なければならない。この場合、司法機関は継続観察の要否を審査したうえ、上限となる年限を明示して許可する。これによって「教育観察」が不当に長期にわたることを防ぐことができるのである。

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犯則と処遇(連載第13回)

2018-12-14 | 犯則と処遇

11 矯導学校について

 「矯導学校」とは、重大な非行をした少年に対して矯正プログラムと一般の学業とを両立的に課す寄宿制の特殊な学校である。従って、「矯導学校編入」は「犯則→処遇」体系の下における少年に対する処分としては、重いものとなる。
 「矯導学校」で矯正に従事するのは、矯正員ではなく、教員養成校を通じて養成された教員である。ただ、この職は矯正に関する専門的な知見を必要とするため、一般の教員とは別枠で「矯導学校教員」の免許制度を創設する必要がある。

 「矯導学校」は対象者の特性に応じて、非行傾向は強いが病理性は弱い者を対象とする「一般矯導学校」と病理性が強い者を対象とする「特修矯導学校」の二種に分かれる。
 いずれであっても、「矯導学校」における教育は、各生徒の状況に応じて徹底した個別教育メソッドで行われる。とりわけ後者の「特修矯導学校」は成人の場合における「第三種矯正処遇」に相当するもので、そこでは臨床心理士や医師も加わった治療的な対応もなされる。

 こうした「矯導学校」は「学校」ではあるが、個別教育の趣旨を徹底させるため、学年制は採らず、おおまかに「初等」「中等」「高等」の3コースに分ける。「高等コース」の後には「続高等コース」を設け、場合によっては20歳を超えて継続教育ができるようにする。
 そこで、司法機関が対象者を「矯導学校編入」に付するときは、対象者の学習能力や知的水準も考慮したうえで、学校種別とコースとを決定する必要がある。

 「矯導学校編入」の期間に関しては、成人矯正の場合以上に少年の発達に応じた短期集中処遇が必要であるから、「一般矯導学校」では6か月以上3年以下、矯正に時間を要する「特修矯導学校」でも2年以上5年以下とする。
 こうした処遇期間は司法機関による処遇決定の段階では定めず、矯導学校側が上述の年限内で、対象者の改善の度合いや帰住先の家庭環境などを勘案して修了の時期を判断する。
 さらに「矯導学校」を修了した後、原則として2年間、「特修教導学校」の場合は4年間を「修了後観察期間」とし、担任教員が修了者に対する家庭訪問や面接を通じたアフターサポートを行う。また、帰住先の家庭環境が良好でない場合は、「未成年者福祉センター」への委託保護も行う。

 「矯導学校編入」が可能な下限年齢については例外的な非行の早発化という現象も考慮に入れ、10代の最少齢である10歳からとしておいてよいであろう。
 ただし、13歳未満の年少少年の「矯導学校編入」は病理性が強く、「特修矯導学校編入」が相当な場合に限る。従って、「矯導学校」の初等コースは「特修矯導学校」のみに設置されることになる。
 なお、「矯導学校」に在籍可能な上限年齢は特に設けないが、満24歳頃までを一応の目安とする。

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犯則と処遇(連載第12回)

2018-12-13 | 犯則と処遇

10 少年の処遇について

 少年は身体的にも精神的にも成長途上にあり、人格的な可塑性に富んでいるため、犯則行為をした少年に対しては、成人と異なる処遇を必要とする。
 ただ、「犯則→処遇」体系の下では、犯則行為者への処分全体が、成人を含めて「処遇」概念の下に統一されるため、少年処遇の適用年齢に関しては、社会の実情に合わせながら、より柔軟化することが可能となる。

 その際の視点として、現代社会では義務教育制度の施行によって、おおむね18歳未満の者は学校課程に在籍していることが圧倒的な状況においては、18歳未満の者は成人と明確に区別し、学業とも両立し得るような少年処遇の絶対的適用年齢とするのが社会の現実に合っている。

 その点、18歳は過渡的年齢であって、18歳を未成年とする法制下でも、18歳の多くは学生であるが、一部は有職者が含まれている。そこで、18歳についてはケース・バイ・ケースで考慮すべきであろう。
 一方、18歳を成人とする法制下では、原則として成人としての処遇が与えられることになるが、知的障碍や発達障碍が認められ、少年処遇の適用が相当な者はこの限りでない。
 このように、障碍のために成長が遅れており、少年に準じて扱うほうが適切な成人には「少年」としての処遇を適用する余地を認める必要がある。そのためにも、少年処遇の適用年齢の上限は、23歳程度にまで拡大される。

 こうして柔軟化された少年処遇の種別は、基本的に「矯導学校編入」と「教育観察」の二種類である。これに成人と同様に、対物的処分としての「没収」を加えて三種類とみなすこともできる。

 はじめの「矯導学校編入」は成人の「矯正処遇」に対応する処遇であるが、成人の「矯正処遇」との違いは、矯正と学業とを両立させたプログラムが適用されることである。一方、「教育観察」は少年版保護観察と言うべきものであるが、ここでも成人の「保護観察」に比べてより「教育」に重点を置く点に違いが認められる。

 なお、寡少価値物品の万引きのような軽微な犯則行為や、犯則行為には該当しない非行により補導された少年に対しては、司法のルートに乗せない福祉的な保護対応がなされる。そうした保護対応を担う専門福祉機関として、「未成年者福祉センター」が用意される。

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犯則と処遇(連載第11回)

2018-12-06 | 犯則と処遇

9 保護観察について

 「犯則→処遇」体系の下では、執行猶予のような制度が存在しない代わりに、単独で付せられる独立的処遇としての保護観察が活用される。このような保護観察は矯正のプロセスを省略して直ちに更生のプロセスに入るというものであるから、その対象となるのは反社会性向が弱く、一過性の犯則行為者である。
 従って、保護観察の期間も最長で2年に限定されるうえ、その期間満了前に更生が進み、保護観察の必要性が消滅したと判断された場合は、保護観察所の決定により中途で保護観察を終了させることもできる。

 また、保護観察の内容としても、行動制限は緩やかなものとなる反面、再犯防止のためのカウンセリングなどの個別的な処遇は充実する。さらに、社会貢献意識を高めるため、保護観察下で清掃などの一定の奉仕労働を課す社会奉仕も実施される。
 一方、犯行の背景に精神疾患が認められる対象者に対しては、保護観察下で治療を受けることを義務づけ、その経過を観察する医療的観察という付加処遇も課せられる。

 以上に対して、「終身監置」の「仮解除」を受けた者に対する「特別保護観察」は、独立的処遇としての保護観察とはその性質・内容を全く異にする。
 これは病理性の強い矯正困難な犯則行為者を対象とする保護観察であるので、期間は限定されず、「終身監置」の「本解除」まで継続されるとともに、居住・移転の自由など行動制限も強いものとならざるを得ない。
 ただし、この場合も、単なる「監視」に終始するのではなく、「終身監置」の「本解除」を目指す対象者の努力を援護し、その更生を促進するものでなければならない。  

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犯則と処遇(連載第10回)

2018-12-05 | 犯則と処遇

8 更生援護について

 「矯正処遇」を完了した後、対象者はさらに社会内で更生を果たしていく責任を負う。そのような更生過程を支える社会復帰のサポートを「更生援護」と呼ぶ。
 このような更生援護は社会サービス体系の一環を成すものであるから、犯則と処遇の対応関係を法定する犯則法とは別立ての「更生援護法」に根拠を置き、同法に基づいて設立される公益法人である「更生援護協会」が実施機関となる。

 その対象者は、矯正処遇期間が比較的長期に及ぶ「第二種矯正処遇」または「第三種矯正処遇」を受けて矯正センターを退所した者であるが、「第一種矯正処遇」で更新を受けて退所した者も含む。また「第三種矯正処遇」に引き続く「終身監置」の「本解除」を受けた者で、緊急的な保護を必要とする者も含む。

 更生援護は任意のサービスであるから、基本的に本人の申請によって開始されるが、申請することが強く推奨されるので、矯正センターでは更生援護協会への申請を常時サポートする。申請を受けた協会では、その傘下にあって更生援護の実務を担う各地の「更生援護会」を指定し、サービスを提供する。

 更生援護サービスの中心は住居の提供と就労支援であるが、家族関係などの環境調整やカウンセリングが必要なケースもある。従って、「更生援護会」には常勤職のソーシャルワーカー(以下、SWと略す)のほか、非常勤を含むカウンセラーも配置される必要がある。
 「更生援護会」に配置されるSW、すなわち「更生援護SW」という専門職は通常のSWとは異なり、犯則と処遇に関する深い知見を要するため、独立した専門認定資格として養成することを検討しなければならないであろう。

 更生援護サービスの中で最も困難なのは、就労支援である。この点で問題となるのは、現在「前科者」に対して法律上課せられる多種多様な職業上の資格制限である。こうした制限は一般就職の困難な「前科者」の就労可能性をいっそう狭め、ひいては生活難や自暴自棄からの再犯を誘発する。

 「犯則→処遇」体系の下における「処遇」は「処罰」ではないから、そもそも「前科」という概念自体が消滅する。従って、特定の犯則を犯したこと自体が特定の専門的な職業上の適格性を喪失させるような場合(例えば、医師法違反行為をした医師など)を除き、原則的に職業上の資格制限は存在しない。

 とはいえ、「前科」の概念は消えても過去に犯則行為をした「犯歴」そのものを消すことはできない以上、社会一般に伏在する「犯罪者」への差別的偏見にさらされる更生援護対象者の就労は容易でないと想定される。
 そこで、更生援護サービスにおいても、単に就労を斡旋する消極的援護にとどまらず、更生援護対象者自らが共同で自助事業を起こすことを助成したり、適性が認められた者は「更生援護会」の職員として雇用したりする形で、積極的援護を目指す必要があるだろう。

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