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近代科学の政治経済史(連載第36回)

2022-12-21 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

極限的優生学と大量「安楽死」作戦
 人種学と並ぶナチス科学のもう一つの柱は、優生学であった。以前の稿でも見たように、優生学は20世紀前半に多くの国で風靡し、障碍者の強制不妊政策として体現されていたから、優生学自体はナチス科学の専売特許ではない。
 ナチスにおける優生学の特質は、通常優生学における強制不妊の対象とされる障碍者を超えて、遺伝病患者、アルコール依存症者や性犯罪者にまで広く対象範囲を拡大したこと、さらには将来誕生する子どもを絶つ断種にとどまらず、「生きるに値しない」と烙印を押された現に生存している障碍者等の強制安楽死(=殺戮)にまで及んだ手段の非人道性にあった。
 その点、「生きるに値しない」という価値規準に立っての優生学はナチスの専売特許ではなく、ナチス政権成立以前からドイツ医学界に登場しており、1920年には精神医学者アルフレート・ホッヘが刑法学者カール・ビンディングとの共著『生きるに値しない生命を終わらせる行為の解禁』で、重度精神障碍者などの安楽死政策を提起していた。
 この著作はナチスの強制安楽死政策に直接的な影響を与えたと見られているが、このような過激な優生学説は学界では少数説であり、多くの優生学者は断種措置で必要充分、強制安楽死は無用な非人道的手段とみなしていた。
 しかし、「生きるに値しない者」の安楽死という構想は、ナチス人種学に由来する「民族の純血性」の保証というイデオロギーにも合致したため、ナチスは障碍者等に対する強制安楽死政策に向かうこととなった。
 それに先立ち、ナチス政権は初期の1933年に強制断種の対象範囲を大幅に拡大する遺伝病子孫防止法を制定していたが、政権中期の1939年からは公式に強制安楽死作戦を開始する。
 このいわゆるT4作戦は1939年から41年にかけて大々的に実施されたが、作戦が公式に終了した後も、精神病院や強制収容所を中心に、現場の医師レベルの判断により、非公式の「安楽死」が継続された(いわゆる野生化した安楽死)。
 その対象範囲は圧倒的に精神障碍者に集中しているが、児童も一部含まれたほか、「野生化した安楽死」の時期には、労働に適しない反社会分子にまで拡大されていった。こうして拡大化された極限的優生学は、ナチスによる優生学の政治利用の極限を示している。

死の医学と人体実験
 ナチス極限的優生学は、医学の観点から見れば、人を生かすのではなく、反対に死なせる「死の医学」ととらえることができるが、ナチスの「死の医学」は極限的優生学に限らず、非人道的な数々の人体実験の実施という形でも発現した。
 そうした「死の医学」を象徴する医学者・医師は、戦後、ニュルンベルク継続裁判の一環として実施された「医師裁判」で裁かれた23人(ただし、一部は実務担当の親衛隊将校)が代表している。
 ナチスの人体実験は強制収容所の収容者を対象に事前の同意なくして行われたもので、内容も多岐に及ぶが、中でも中心人物でありながら逃亡したため起訴を免れたヨーゼフ・メンゲレ(南米に逃亡・長期潜伏中に病死)による双生児への人体実験が悪名高い。
 メンゲレは、アウシュヴィッツ絶滅収容所の双生児1500人を対象に、双生児を人工的に抱合して結合双生児を作製するなどの奇矯で非人道的な人体実験を行ったほか、収容所の絶滅対象者の選別にも関わったことから、「死の天使」の異名を取った。
 ちなみに、メンゲレの恩師であるオトマー・フォン・フェアシューアは代表的な優生学者として、遺伝生物学・人種衛生学研究所所長やカイザー・ヴィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所所長を歴任し、特に断種政策における対象者選別の実務にも積極的に協力した。
 また、血液検査によるユダヤ人の判定という奇矯な研究にも着手し、弟子のメンゲレを通じて収容所のユダヤ人の血液標本を取り寄せるなど、人体実験にも間接的に関わっていたが、フェアシューアはそうした関与を隠して戦後の起訴を免れ、遺伝学者として生き延びた。
 こうしたナチス「死の医学」は医学の政治的悪用事例の一つであり、ナチス科学における科学と政治の混淆を体現するものでもあった。メンゲレを含め、関与した多くの者がナチス親衛隊員であったことも首肯できるところである。

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近代科学の政治経済史(連載第35回)

2022-12-19 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

疑似科学としてのナチス人種学
 ナチスのイデオロギーの中核はいわゆるアーリア人種優越思想であるが、それは総帥ヒトラーの自伝にしてナチスの宣伝書もある『我が闘争』でも展開されている。しかし、ヒトラー自身は科学者ではないから、科学学説としての展開ではない。
 ナチス人種学におけるアカデミックな主導者は、ナチ党員で「人種学教皇」の異名を取ったハンス・ギュンターであった。ギュンター本来の専攻は比較言語学であり、科学者としては独学に近い人物であったが、専攻を転じて生物学・人種学の教授となった。
 ギュンター本来の専攻であった比較言語学においては、19世紀に共通祖語が再構されたインド‐ヨーロッパ語族(印欧語族)として包括される民族集団をアーリア人と同定することが通説化してきたことに触発され、専攻を転じた可能性はある。
 ただし、ナチス人種学におけるアーリア人は、インド人やイラン人等まで広く包摂される比較言語学上のアーリア人とは範囲を異にしており、ヨーロッパ人(白色人種)の中でも特に金髪・長頭・碧眼を形質的特徴とするとされる北方人種に限局されていた。
 ナチス人種学はそうした人種分類のみにととまらず、アーリア人種を最上位の優越人種とみなしつつ、それ以外の人種を劣等的とみなす徹底した人種階層化を行ったことに特徴がある。その点で、これは科学的な人類学ではなく、政治色を帯びた特異な人種学であった。その意味で、科学の衣をまとった疑似科学である。
 このような疑似科学としての人種分類学の源流としての人種理論は近代科学が創始された17世紀頃から西欧・北米社会に普及しており、少なからぬ科学者が主唱することもあったため、DNA解析に基づく人類遺伝学が確立されるまでは、科学と疑似科学の境界線上にある領域であった。
 とはいえ、明確な人種優劣評価を伴う疑似科学的な人種学=アーリアン学説はナチスが台頭した1920年代から30年代にかけての西欧、特にドイツで隆盛化しており、そうした時流を巧みに政治利用したのがナチスであったとも言える。
 実際、アーリアン学説を展開した論者の大半は、如上ギュンターをはじめ、真の意味での科学者ではなく、むしろ人文系の学者・知識人たちであった。その19世紀における先駆者と見られるのが、フランスの文学者・外交官アルテュール・ド・ゴビノーである。
 ゴビノーは主著『諸人種の不平等』で、アーリア優越主義を最初に説いた人物と目されているが、この著書は科学書というよりは文明書であり、ユダヤ人に関しては、むしろ優越人種の一種とみなし、文明推進者として称賛していた点で、ナチス人種学の直接的源流とはみなし難い。
 ユダヤ人を文明破壊者と指弾する強硬な反ユダヤ主義と対になる形でアーリア人種優越思想を核心とするナチス人種学は、当時のドイツに渦巻いていた反ユダヤ主義の風潮をも併せ利用する形で、ナチスが独自に形成したものと言えるだろう。
 ナチスは、こうしたアーリア優越主義‐反ユダヤ主義のイデオロギーに基づき、ユダヤ人の計画的殺戮(ホロコースト)を断行したのであるが、一方では「純血」アーリア人種を殖やす目的から、未婚アーリア人女性の出産施設レーベンスボルン(生命の泉)も創設したことは、今日あまり知られていない。
 レーベンスボルンではしばしばドイツ占領地域からアーリア人種の条件に合致する子どもを拉致し、アーリア人家庭の養子とする強制養子縁組の仲介も実施されており、まさにナチス人種学の実践施設としての意義を持っていた。
 こうしたアーリア人増殖とユダヤ人絶滅とはナチス人種学実践の車の両輪と言え、レーベンスボロンもアウシュヴィッツに象徴される絶滅収容所もともに、ナチス権力の最大基盤である親衛隊が管理運営したことも必然的であった。

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近代科学の政治経済史(連載第34回)

2022-12-14 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学(続き)

科学者の受難と海外流出
 ナチス科学は学術という以上にそれ自体が政治そのものであったから、ナチスのイデオロギーや政策に反する科学者は排斥されることになった。そのため、ナチス・ドイツ支配下では、多くの科学者がパージされ、あるいは自主的な海外亡命に追い込まれている。
 結果として、ドイツ科学界は相当規模での頭脳流出をも経験することにもなったわけだが、このことは、ナチス科学の政治的な偏向性と相まって、その質にも影響したであろうことは間違いない。
 こうした科学界パージは、ナチス政権によるユダヤ人の公職追放政策の一環として、前回登場したルスト科学・教育・国民教化大臣が主導した。科学界パージの対象となったカテゴリーは、その他の公職追放の場合に準じて、第一にユダヤ人科学者、次いで、反ナチスのドイツ人科学者であった。
 パージか自主亡命かを問わず、ナチス政権下でドイツを離れた科学者の中には、12人のノーベル賞受賞者が含まれていたが、中でも最も著名な科学者はアルベルト・アインシュタインである。
 彼はドイツ生まれのユダヤ人であるが、ナチス政権成立時はドイツに在住しつつもスイス国籍であったので、ドイツとの関わりはプロイセン科学アカデミー会員としての間接的なものであった。
 アインシュタインはナチス政権成立当時は海外滞在中であったが、迫害を恐れてドイツの自宅には帰還せず、第三国経由でアメリカに亡命・帰化し、プロイセン科学アカデミー会員も辞任した。その後、ナチスからは反逆者と認定され、強制家宅捜索を受ける嫌がらせもされている。
 一方、アインシュタインの友人で、第一次大戦中は毒ガス開発に尽力したフリッツ・ハーバーもユダヤ系ドイツ人で、1918年度ノーベル化学賞受賞者であるが、第一次大戦の功績から直接のパージは免れたものの、所長を務めていたカイザーヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所のユダヤ人研究者の削減要求を拒否して、自主亡命を余儀なくされた。
 ハーバーは、第一次大戦時にイギリスでコルダイト火薬原料の生成法を確立したハイム・ヴァイツマンが当時の英領パレスチナに設立した研究所の所長に招聘され、パレスチナに渡航する途上で急死した。
 また、1925年度ノーベル物理学賞受賞者であるジェームス・フランクはユダヤ人の公職追放に抗議し、当時務めていたゲッティンゲン大学教授職からの解雇を自ら要求し、事実上辞職、アメリカへ亡命した。
 原子のエネルギ―が連続的でなく離散的であることを示した「フランク‐ヘルツの実験」でノーベル賞をフランクと共同受賞したグスタフ・ヘルツは当時務めていたシャルロッテンブルク工科大学(現ベルリン工科大学)教授職を解雇された後、フランクとは対照的に、ジーメンス研究員を経て、ソヴィエト軍の進駐後、ソヴィエトに「招聘」(半連行)された。
 こうしたパージとは別に、抗菌剤の開発で1939年度ノーベル医学・生理学賞を受賞したドイツ人の病理学者・細菌学者ゲルハルト・ドーマクは、当時ナチス政権が反ナチスのジャーナリスト・平和活動家カール・フォン・オシエツキーに1936年度ノーベル平和賞が授与されたことへの対抗措置としてドイツ人のノーベル賞受賞を禁じていたため、ドーマクも受賞辞退に追い込まれた(戦後に受賞)。
 ちなみに、アインシュタインやフランクといった亡命物理学者はアメリカに渡って原子爆弾の開発に従事し、アメリカがドイツに先立って核開発に成功するきっかけを作っており、ドイツからの頭脳流出は戦後の核兵器科学の素地にもつながっている。

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近代科学の政治経済史(連載第33回)

2022-12-12 | 〆近代科学の政治経済史

七 科学の政治的悪用:ナチス科学

科学は政治的に中立たるべきであるが、20世紀には科学が政治に吞み込まれる事態がそれ以前の世紀よりも多発する。19世紀末から20世紀前半にかけての科学的な躍進は科学の政治的な利用価値をも高め、野心的な政治家・政治勢力の関心を呼ぶこととなったからである。その結果、20世紀前半期に成立した二つの政治体制下では科学と政治の結びつきが著しく強まったが、その一つはナチス・ドイツが大々的に行った科学の政治的悪用である。ナチスは科学を統制下に置きつつ、そのイデオロギーや政策遂行の手段としても大いに活用し、いくつかの分野では注目すべき成果も上げたため、ここに「ナチス科学」と呼ぶべき政治化された独自の科学世界が出現したと言ってよい。


ナチス科学の成立と概要
 ナチス科学とは特別な科学体系のようなものではなく、ナチスが政治的に利用(悪用)した科学的学説(謬論を含む)や科学的成果(人道犯罪を含む)の集積を包括して言うに過ぎない。
 しかし、ナチスは政権成立の初期から科学を政治的な統制下に置くことに関心を示し、1934年には帝国科学・教育・国民教化省を設置して、科学行政を開始している。この新設官庁は元来プロイセン州の科学・芸術・国民教化省にヒントを得たものであるが、中央省庁として設置するのはナチス・ドイツが初である。
 同省初代大臣となったのは、まさにプロイセン州科学・芸術・国民教化大臣から抜擢されたベルンハルト・ルストであった。ルストは哲学専攻のギムナジウム教師からナチス活動家となった政治家であるが、ナチス体制崩壊に伴い自害した1945年まで一貫して大臣職を務め、まさにナチスの科学及び教育行政の中心にあった人物である。
 教育も所管する立場から、ルストはナチのイデオロギーの基軸であるアーリア人種優越論を内容とする人種学を必修科目とするなど、教育のナチ化も推進した。
 帝国科学・教育・国民教化省には内部部局として科学局が置かれ、科学行政の中心部局を成した。初代局長にはナチ党員の数学者テオドール・ヴァーレンが就いたが、1937年以降は化学者のルドルフ・メンツェルが就き、彼がナチス科学における実質的な司令塔役を担い、後に原子爆弾開発計画にも関わった。
 また1937年には、航空学を除く科学的な基礎/応用研究に関する中央計画を立案する帝国研究評議会が設置され、その実務はメンツェルが担った。
 ただ、評議会の初代会長には軍人で軍事科学者でもあるカール・ベッカーが就いたように、この評議会はナチスが科学研究を軍事利用することを主たる狙いとする機関であり、実際、第二次大戦開戦後の1942年には帝国軍備弾薬省に移管されている。
 こうして、ナチスが科学を政治化していく過程で、ナチ化され、ナチスの政治目的に協力・奉仕する御用科学者の集団が形成され、彼らがナチス科学の中枢を構成した。
 そうしたナチス科学を分野別に分ければ、[Ⅰ]人種学(人類学)[Ⅱ]生物・医薬学(特に優生学)[Ⅲ]物理・工学[Ⅳ]軍事科学の四分野を数えることができる。

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近代科学の政治経済史(連載第32回)

2022-12-09 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

第一次世界大戦:軍事技術の見本市
 19世紀末の近代的科学技術の発達を背景とした軍事技術の刷新は20世紀に引き継がれ、同世紀最初の世界戦争となる第一次世界大戦として発現される。この大戦は、科学技術史の視点から見れば、参戦各国が自国のテクノロジーを披露し合う見本市のような様相を呈した。
 第一次大戦における軍事技術の革新を記述すれば、それだけで数冊分の書籍となるほどの内容があるが、ここでは、大戦の惨禍を特に倍加させた化学的な“成果”を選択略記する。
 とりわけ非人道的な兵器として登場したのが、有毒な化学物質を使用する化学兵器である。化学兵器は大戦前の1907年ハーグ陸戦法規でも実質的に禁止されていたが、塹壕戦の膠着を打開する手段として有効だったため、第一次大戦で本格的に使用された。
 実用的な化学兵器の開発では、化学兵器の父の異名を持つドイツのフリッツ・ハーバーやハーバーに先行するヴァルター・エルンストらの寄与が大きく、結果としてドイツが化学兵器の先進国となる。
 ハーバーはカール・ボッシュとともに窒素化合物の基本的生成法(ハーバー‐ボッシュ法)を確立して名を残した科学者であり、エルンストも熱力学第三法則の発見者として名を残しているが、第一次大戦に際しては、塩素を中心とした毒ガス兵器の開発に協力した。
 当時のドイツは化学工業が発展期にあり、化学兵器は戦時下で軍需資本に転化する化学工業資本により量産されたため、塩素・ホスゲン・マスタードなどを使用した主要な化学兵器の大半を調達できたのであった。
 ちなみに、皮膚をただれされる効果を持つマスタードガスは、ガスマスクの普及によって塩素ガスのような吸引性の化学兵器の効果が減殺されることに対抗し、防護困難なびらん性の化学兵器として開発されたもので、これまた19世紀末にドイツの化学者ヴィクトル・マイヤーが生成法を確立した。
 このように化学兵器開発で先行するドイツへの対抗上、対戦国である英米仏も化学兵器の開発・使用に走ったため、元来不充分なハーグ陸戦法規の禁止条項は有名無実となり、大戦を通じた化学兵器による死傷者は約130万人に上ったとされる。
 一方、無煙のコルダイト火薬を大量生産するうえでは、原料となるアセトンをデンプンか合成する技術を当時イギリスに居住していたユダヤ人化学者ハイム・ヴァイツマン(後に初代イスラエル大統領)が確立したことが寄与しているが、先のハーバー‐ボッシュ法による窒素固定技術も火薬の常時補給を円滑にした。
 このように、ドイツは化学兵器で優位にあったにもかかわらず、旧式の戦闘法である塹壕戦の膠着状況を完全に打開できるほどの効果を発揮せず、最終的には敗戦した。戦後の1925年にはジュネーブ議定書で化学兵器の使用(保有は可)が明確に禁止されたことにより、化学兵器への関心は後退していく。
 しかし、第一次大戦で先駆的に登場した戦車や戦闘機などの新たな移動機械兵器は戦後も引き続き開発・改良が進展し、また第一次大戦では想定されなかった放射性物質を利用した核兵器の理論構想など、戦後の軍用学術の中心は化学分野から物理・工学分野へと遷移していく。

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近代科学の政治経済史(連載第31回)

2022-12-08 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

交通機械工学と軍事技術の刷新①
 19世紀に機械的な交通手段の発明が相次ぎ、交通機械工学が発達すると、その成果はすぐに軍事技術の刷新に反映された。その端緒は、海軍の分野における戦艦の登場であった。戦艦は艦砲と装甲を備えた軍艦であり、それは弾道学や鉄鋼技術の粋を集めた軍事的結実であった。
 その嚆矢を成すのは、フランス海軍が1858年に起工した装甲艦グロワールであった。これはまだ帆船ではあったが、頑丈な装甲防御が施され、戦列艦より小柄ながら、炸裂砲やライフル砲を備え、木造艦を圧倒する力があった。
 この新型装甲艦の情報はすぐにライバルのイギリスにもたらされ、イギリス海軍も対抗的に装甲艦ウォリアーを建造した。これはグロワールよりも大型かつ高速、重武装で、当時としては最新型装甲艦であった。
 こうして、装甲艦の発明は近代的な軍拡競争の嚆矢をも成したが、初期装甲艦はまだ本格的な戦艦の域に達しておらず、言わば戦艦の卵であった。最初の戦艦とされるのは、ウォリアー以降、軍艦開発で世界をリードするようになったイギリスが1892年に竣工したマジェスティック級戦艦である。
 これが近代戦艦のオリジナル・モデルとなったが、鋼鉄艦による最初の本格的な海戦は日露戦争であった。同戦争では日露両国ともに戦艦を投入したが、日本がイギリスに発注したマジェスティック級戦艦の改良型である敷島型戦艦がロシア海軍に打撃を与えるうえで威力を発揮した。
 日露戦争は戦艦の有効性を大国に認識させ、以後、20世紀初頭にかけて、新興の科学技術大国ドイツも加わり、大国間での建艦競争が激しく展開され、日進月歩での戦艦の技術革新が急速に進んでいく。

 興味深いことに、近代陸戦に登場する新戦力である戦車も戦艦の開発に由来しており、その派生的発明であった。これもまたイギリスが発祥地であるが、戦車開発は当初「陸上軍艦」というアイデアのもと、海軍の技術者が主導して行われた。
 「陸上軍艦」はまさに軍艦を陸で走行させるというイメージであったから、軍艦のアナロジーで装甲車として設計された。ただ、陸走させるためには軍艦そのものでは当然に不可能であるから、当時アメリカの民間企業(キャタピラー社の前身)が開発した無限軌道技術(いわゆるキャタピラー)が応用された。
 こうして完成したのが史上初の戦車リトル・ウィリーであるが、これはまだ試作車であり、本格的に実戦投入された最初の戦車はマークI戦車である。同製品は第一次世界大戦で実用化され、従来の塹壕戦と機関銃合戦という陸戦のあり方を変革する契機となった。

交通機械工学と軍事技術の刷新②
 交通機械工学の発達という点では、飛行機の発明に伴う戦闘機の開発は戦艦や戦車の開発以上に革命的でさえあった。それまで戦場と言えば陸か海であったところ、長く夢想家の空想に過ぎなかった空が戦場となる時代を拓いたからである。
 広い意味での航空機の軍事利用は18世紀フランスの発明家モンゴルフィエ兄弟による熱気球による史上初の有人飛行を契機にフランス軍が気球の軍事利用を試みたのが嚆矢であったが、この試みは成功しなかった。
 その後、19世紀前半の航空学の祖イギリスのジョージ・ケイリーによる航空研究、それを継承した同世紀後半のドイツのオットー・リリエンタールの飛行実験を経て、1903年にアメリカのライト兄弟が初めて動力飛行可能ないわゆる飛行機を発明したことで、航空学は新たな時代を迎えた。
 これらは民間主導の科学技術研究成果であったが、民間の営業飛行の確立にはほど遠く、むしろ飛行機の軍事利用価値に着目した軍による航空戦力の開発が航空工学のさらなる発達を促進した。
 もっとも、当初は上空からの偵察目的に供する偵察機が限度であったが、間もなく空中で戦闘を行う戦闘機が開発される。そのアイデア自体はフランスで発祥したが、本格的な専用戦闘機はドイツが第一次世界大戦に投入したフォッカー・アインデッカーであった。
 こうした戦闘に特化した戦闘機の誕生は空中戦という新しい戦術を戦争に加えることになり、交通機械工学の一部門である航空工学も、民間航空が発達するまでは、戦闘機をはじめとする軍用機の開発・改良という軍事目的に奉仕する軍用学術となる。

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近代科学の政治経済史(連載第30回)

2022-11-30 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

数学・物理学と兵器
 理論学術の代名詞である数学・物理学も、軍用学術としての顔を持つ。中でも、弾丸や爆弾、近年ではロケット弾や弾道ミサイルなど、およそ飛翔型兵器すべてに通じる弾道計算を行う弾道学の分野である。
 本格的な弾道学は大砲の発明に始まると言われるが、近代弾道学の基礎を築いたのは、16世紀イタリアの数学者ニコロ・フォンタナ・タルタリアである。独学の数学者であった彼は、それまで経験的な知見に依存していた弾道計測を初めて数学的に基礎づけ、45度射角で発射された砲弾が最も長距離を飛翔することを発見した。
 弟子を介してガリレオを孫弟子に持つタルタリアは近代科学が形成される以前の科学者というより数学者であり、より精確な運動力学に基づく弾道学の成立は、ニュートン力学以後を待つ必要があった。
 その点、ニュートン流古典力学を踏まえた弾道振り子を発明したイギリスの数学者・物理学者ベンジャミン・ロビンスの著書『新砲術原理』は弾道学を革新した科学的著作であった。同書はドイツの数学者レオンハルト・オイラーによって翻訳され、ドイツにも紹介された。
 弾道振り子は兵器そのものではないが、弾丸の速度や運動量を物理学的に正確に計測する用具として革新的であったところ、より直接的かつ精確に発射速度を計測できる弾道クロノグラフが19世紀初頭にフランス軍によって開発されて以来、弾道振り子は時代遅れとなる。
 このように、弾道学はとりわけ実践性が強い軍事科学であるため、19世紀以降は軍人科学者による自前での研究開発が進められていく。その過程で、弾丸が発射されるまでの運動を扱う砲内弾道学と発射された後の運動を扱う砲外弾道学が分岐していった。
 このうち砲内弾道学に関しては、アメリカ陸軍砲兵士官トマス・ジャクソン・ロドマンによる一連の実験や発明が先駆的であった。中でも革新的な中空鋳造の鋳鉄製銃である名もロドマン銃を開発し、南北戦争での北軍の勝利に貢献した。
 他方、砲外弾道学に関しては、ロシア軍の砲術家ニコライ・マイエフスキーはドイツの軍需企業クルップ社の工場に派遣されて実験を行い、それをもとに勘に依存しない精緻な砲外弾道計算式を確立し、近代弾道学の発展に寄与した。
 その点、ロシアは18世紀初頭に時のピョートル大帝が設置したモスクワ数学・航海学校を前身とする砲術学校を擁して砲術研究を国策として展開した。19世紀半ば以降はミハイロフスカヤ軍事砲術学校としてロシア軍事科学の教育研究の中核となり、如上マイエフスキーも同校卒業生にして教官ともなった。
 ちなみに、マイエフスキーが派遣されたクルップの大砲工場は19世紀末、様々な弾道実験の場としても活用され、弾道学の発展に貢献しており、軍産連携による兵器の共同開発の先駆例ともなった。

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近代科学の政治経済史(連載第29回)

2022-11-28 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

近代化学と兵器
 軍用学術としての科学という点では、化学ほど軍用学術との結びつきが強いものはない。それは火薬やまさしく化学兵器の開発・改良において、化学的知見が不可欠であるからに他ならない。
 そもそも近代化学の父とみなされるフランスのアントワーヌ・ラヴォアジェは火薬委員会委員となり、先述したように兵器廠に研究室を構え、ここで大砲用火薬の火力や生産量を向上させる成果を上げたことが初期の業績であった。
 ちなみに、ラヴォアジェはフランス革命に際して、旧体制下で憎まれ、革命では集中的に断罪された徴税請負人をしていた過去の経歴から、断頭台に消えることとなった。これは科学とは無縁の理由での処刑であったが、彼が旧体制の軍事科学者としてスタートし、ブルボン王朝の協力者であったことは革命に巻き込まれることを必然のものとしたであろう。
 火薬に関する研究はその後も一貫して軍事科学の重要なテーマであったが、長く主流的であった黒色火薬や褐色火薬は使用時の白煙が障害となっていたため、19世紀以降、無煙火薬が開発される。
 無煙火薬はニトログリセリン、ニトロセルロース、ニトログアニジンという三種のニトロ系基剤から製造されるが、中でも基軸的なニトログリセリンはイタリアの化学者アスカニオ・ソブレロが初めて開発した。
 ソブレロはやはり爆薬研究で知られたフランスの化学者テオフィル‐ジュール・ペルーズの門下生であるが、もう一人の著名な門下生として、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルがいる。
 ノーベル賞創設者としてその名を残しているノーベルの主要な研究テーマは爆薬の改良であった。中でも、ソブレロの合成法では爆発力が激甚に過ぎて実用に耐えなかったニトログリセリンを安定化させ、実用的な爆薬に仕上げたことが画期的な成果であった。
 こうして実用化されたダイナマイトは早速日露戦争で日本軍によって大量に実戦使用され、ロシア軍に対して優位に立つことに成功する要因となるなど、その高い実用性が証明された。
 ノーベルはまた単なる科学者にとどまらず、17世紀設立の古い鉄工所ボフォース社の経営者として、同社を兵器メーカーに転換し、スウェーデンを代表する軍需企業に育てており、軍需資本家としての一面も見せた。
 軍事科学者として富を得たノーベルが遺言で、学術部門に加え、その軍事科学業績とは相容れない平和賞の創設をも指示したのは、ダイナマイトの開発に象徴される軍事科学者としての顔が批判されるようになり、没後のイメージダウンを懸念したためと言われるが、そうしたイメージ戦略は成功したとも言える。
ちなみに、ノーベルとは別に、イギリスの二人の化学者フレデリック・エイベルとジェイムズ・デュワーは無煙火薬コルダイトを開発したが、本製品がダイナマイトと類似していたため、ノーベルとの間で特許紛争に発展した。
 最終的に、コルダイトが無煙火薬の主流に落ち着き、第一次大戦以降実戦使用されるようになり、第二次大戦では広島に投下された原子爆弾リトルボーイにもコルダイト爆薬が使用されている。

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近代科学の政治経済史(連載第28回)

2022-11-22 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

近代的軍需資本の誕生
 兵器の製造は戦争の歴史と同じだけの長さを持つが、近代以前、兵器の製造は各国が自給自足の形で行い、兵器の製造を業とする商人は存在していなかった。その点、15世紀にオスマン帝国に大砲を売り込んで成功したウルバンのような先駆者は例外的である。
 フルネームが知られていないウルバンはハンガリー人とされるが(異説あり)、元来はビザンツ帝国に仕える技術者であった。しかし、ビザンツは彼に充分な俸給を与えなかったため、巨大な射石砲の開発製造計画を敵国のオスマン帝国に売り込み、オスマン帝国は早速これを採用してビザンツ帝都コンスタンティノープル攻略に成功、ビザンツを滅ぼした。
 ウルバンは商人ではなかったが、好条件を提示した敵国に自作の兵器を売り込む無節操な商魂は、まさに後の軍需資本の先駆けとも言えるものであった。彼はオスマン帝国から提供された工房で大砲を製造したので、これは工場を備えた軍需産業の遠い先駆けでもあったと言える。
 とはいえ、近代的な軍需産業の成立は、軍事工学の発達が見られた19世紀後半の欧州においてである。そうした意味で、近代的な兵器の開発製造を業とする軍需資本は、軍用学術としての軍事工学を応用した技術資本と言える。
 中でも先駆的なのは、イギリス人の発明家ウィリアム・アームストロングが立ち上げた軍需企業である。アームストロングは事務弁護士から発明家に転じるという稀有の経歴を持つ人物でもあった。
 彼が創業した会社は当初、民需用の水力クレーンの開発で成功を収めた後、イギリス陸軍から機雷の設計を受注したことを契機に軍需に進出したが、中でも最も成功した商品は、革新的な後装式ライフル砲、その名もアームストロング砲であった。
 彼が1859年に分社して設立した軍需企業エルズウィック兵器会社はイギリスを超えて世界中で事業を展開し、アームストロング砲の顧客には南北戦争中の南北両軍や幕末日本の佐賀藩もあった。
 エルズウィックは後に戦艦建造にも事業拡大し、当時は世界唯一の自己完結的な戦艦造船工場を備えた。顧客には大日本帝国海軍もあり、日露戦争ではエルズウィック社製艦が投入されている。
 一方、ドイツでも、発明家フリードリヒ・クルップが創立した小さな鉄鋼会社を継承した子息のアルフレート・クルップが軍需に進出し、当時ドイツ統一の野心に燃えていたプロイセン御用達の大砲製造業者として成功を収めた。
 実際、クルップ社製大砲は普仏戦争でのプロイセンの勝利に貢献し、ドイツ統一後、クルップは鉄血宰相ビスマルクと組んで軍産連携を強めた。クルップの顧客には幕末の江戸幕府も含まれ、軍艦開陽丸に搭載する大砲を受注している。
 クルップの軍需産業は1903年にフリードリヒ・クルップ社として正式に立ち上げられ、実質的な国策会社の立場で、二つの大戦を通じてドイツの軍事大国化に寄与した。
 他方、エルズウィック兵器会社は航空機産業として台頭していたヴィッカース社と1927年に合併し、改めて総合軍需資本ヴィッカース‐アームストロングス社となり、主要事業が1960年代から70年代に国有化された後、残部も1977年まで存続した。

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近代科学の政治経済史(連載第27回)

2022-11-21 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学

兵器はそれ自体が科学的な産物であり、兵器の開発は物理学・化学及びそれらを応用した工学、さらには生物学・医学にも及ぶ総合的な軍事科学の成果である。そのため、近代科学の形成以前から、兵器の開発は経験的な自然学的知見と不可分であったが、近代科学の形成と発展は軍事科学の発達とも相即不離であり、従来見られなかったような殺傷力の高い兵器の開発を促し、20世紀以降の戦争のあり方をより陰惨なものにした。同時に、兵器その他の軍事技術産品の生産は軍需産業の発達を促進しつつ、軍・産・学の複合的な巨大ネットワークを生み出し、科学の軍用学術化を高度に進行させていった。より効率的・大量的な殺傷力を追求する、言わば「死の科学」の誕生である。


近代軍事工学の確立
 およそ軍にまつわる学術を包括した最広義の軍事学の中でも科学的分野は軍事科学と呼ばれるが、その中でもとりわけ兵器その他の軍事技術産品、さらには通信設備などにも及ぶ軍需品の開発に関わる下位分野が軍事工学である。
 こうした軍事工学を最初に体系化したのは古代ローマであるとされるが、古代の軍事工学は近代的な科学的知見に基づいておらず、専ら経験的な実践知識の蓄積に基づく知的体系であった。それがより科学的な形を取るには、やはり17世紀以降の近代科学の形成を待たねばならなかった。
 その点、主に18世紀に火薬の研究で名を成したフランスの科学者(化学者)アントワーヌ・ラヴォアジエとアメリカ植民地生まれのイギリスの科学者ベンジャミン・トンプソンは興味深い事例である。
 トンプソンはラヴォアジエの未亡人と短期間結婚したこともあり、両人には縁があったが、生前のラヴォアジェがフランス軍の兵器廠に研究室を構えて火薬の改良に貢献すれば、トンプソンは王党派としてアメリカ独立戦争に際してはイギリス軍のために火薬実験に従事した。
 共通項の多い両人であったが、摩擦熱をめぐる科学論争では対立関係に立った。すなわち、トンプソンは、摩擦熱の発生要因に関する長年の通説だったフロギストン燃素説に代えてラヴォアジェが提唱したカロリック熱素説を反証して熱素説に終止符を打ち、熱力学の発展にも寄与したのであった。
 両人は18世紀の軍事工学者としての一面を持つが、軍事工学の飛躍は19世紀から20世紀初頭にかけての科学的な進展によってもたらされた。この時期の重要な成果として、爆発時の発煙量が少ない無煙火薬、爆速が音速を超える爆轟、弾薬を自動的に装填しながら連射できる機関銃の開発は画期的と言える。
 また、19世紀後半から20世紀初頭にかけての電気工学の誕生は、電信・電話技術を早速軍用通信に応用することを可能にし、それまで伝令兵や伝書鳩に頼っていた軍事通信システムを刷新し、通信速度を高めた。
 蒸気船の発明は同時に蒸気戦艦の開発を促進し、19世紀末から20世紀初頭にかけて大国間の建艦競争を促進した。これは軍事工学の発達が軍拡競争の動因となった初例でもあり、今日まで日夜継続されている事象でもある。
 さらに20世紀初頭の航空機の発明、さらに航空工学の誕生は、それまで想定されたこともなかった空戦という新たな戦術を生み出し、空戦に専従する航空隊、さらには独立した新たな軍種としての空軍の誕生につながっていく。

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近代科学の政治経済史(連載第26回)

2022-11-09 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

ロシア革命と電化事業
 資本主義体制下での電化は19世紀末頃から台頭してきた民間電気資本の主導で経済的に推進されていったが、ロシア革命後のロシア→ソヴィエトでは社会主義政権の手で政策的に電化事業が上から展開されていった点で特筆すべきものがある。
 そもそもソヴィエト体制を象徴した計画経済の出発点となったのも、内戦終結後の1920年に設置されたロシア電化国家委員会(略称ゴエルロ)が策定、遂行した全土電化計画(ゴエルロ計画)であった。これは、当時のレーニン政権が構想していた全土電化を通じた経済復興及び経済開発という野心的な政策の一環である。
 そのことは、ゴエルロがソヴィエト計画経済の司令部となる国家計画委員会(略称ゴスプラン)に吸収・編入され、自身も技師でゴエルロ初代委員長グレブ・クルジザノフスキーがゴスプラン初代委員長に横滑りした人事にも見て取れる。
 もっとも、ロシアにおける電化事業は、すでに革命前の帝政ロシア時代末期に始まっていた。帝政ロシアでは1899年に第一回全ロシア電気技術会議が開催されて以来、電化社会の構築に向けた全国会議がたびたび開催され、発電所の建設その他の電化事業が急ピッチで推進されていたのである。
 また、1891年には、郵便電信学校を前身とする電気工学研究所が創立され、99年以降はアレクサンドル3世電気技術研究所と改称されて、ロシアにおける電気工学の研究・教育の中核機関となった。
 実のところ、革命後のゴエルロ計画も、そうした帝政ロシア時代に始まる電化事業の初動を継承しつつ、20世紀に入り、大戦と革命、内戦の動乱の中で崩壊した経済の再建と新国家ソヴィエトの計画経済の基盤として導入されたものであった。
 人的にも、帝政ロシア末期に育成された多くの電気工学者や技術者がゴエルロに参加していたが、中でもカール・クルーグは、西側での知名度は低いながらも、ソヴィエト時代初期の代表的な電気工学者・教育者として、ソヴィエトにおける電気工学の最高学府となるモスクワ電力工学研究所の創設と運営にも関わった。
 ソヴィエトにおける電気工学は支配政党(共産党)の国策と分かち難く結びついていたため、後に改めて見るように、科学が政治と一体化されるソヴィエト科学の特質を最も初期に示した事例でもあった。ゴエルロに参加した科学者・技術者の多くも、革命家・党員であった。
 反面、ゴエルロ参加者の中にも、とりわけ1930年代のスターリンによる大粛清に巻き込まれて処刑されたボリス・スタンケルのような例もあり、科学者への政治的迫害はソヴィエト時代の科学と政治の関わりを特徴づけるものとなる。

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近代科学の政治経済史(連載第25回)

2022-11-07 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

「電流戦争」と電化社会
 直流/交流の送電方式をめぐり、直流派の発明王エジソンが交流派を相手に繰り広げた紛争は俗に「電流戦争」とも呼ばれ、現代の映画の題材にすらなったが、これはエジソンが前身社を創業したゼネラル・エレトリックと、エジソンと対立した交流式の発明者テスラから特許を取得したウェスティング・ハウスという二大電気資本間の競争でもあった。
 紛争の発端は、電流が常に同方向にのみ向かう直流送電と電流が時間の経過とともに電圧や方向を変える交流送電という送電技術の優劣をめぐる技術的な紛争であったが、資本が絡むことで経済効率をめぐる競争ともなった。
 エジソンの直流送電システムは白熱灯が電気需要の中心だった電力事業の黎明期には主流的であったが、電圧を自在に変えられないため、電圧ごとに別の架線を要するなど、送電網を拡大するうえでは非効率であった。
 それに対し、テスラの交流送電は変圧器で電圧を自在に変化させられる点が最大のメリットであり、電気抵抗による送電損失を減らし、送電範囲の拡大や安定性を確保する点で分があり、「電流戦争」は交流式に軍配が上がる。ゼネラル・エレクトリックさえも、最終的には交流式を採用するに至った。
 ただ、この争いは交流式が直流式を排除したという単純な結末で終わらない。後に電力用半導体素子の開発によって、交流から直流へ、反対に直流から交流へ変換するパワーテクノロジーが登場すると、両方式は互換性を持つようになり、両者の対立は技術的に止揚された。
 現代の電化社会では、発電、送配電などの主軸的な電力供給システには交流式を用い、電子機器内の直流を必要とする段階で半導体回路により直流式に変換するという形で併用することが一般的であり、現代電化社会は両方式を止揚的に統合している。こうして、「電流戦争」は20世紀以降の電化社会の基盤を整備する役割を果たしたと言えるだろう。

電気椅子処刑の「発明」
 「電流戦争」はエジソンによって、交流式を貶めるネガティブ・キャンペーンが大々的に打たれた点でも熾烈な紛争であったが、彼が交流式の感電危険性を訴えるために電気椅子の実験を企画したことで、電気椅子による死刑執行という副産物を産んだ。
 死刑執行に電流を持ちいるという奇抜なアイデア自体はニューヨーク州の発明家で歯科医でもあったアルフレッド・サウスウィックの発案であり、当時の処刑法であった絞首の反人道性を訴えるキャンペーンに応じて、ニューヨーク州が電気処刑を採用した。
 その際、電気処刑用の交流式電気椅子を開発したのが、エジソンの協力者となった技術者・発明家のハロルド・ブラウンであった。彼はエジソンの反交流式キャンペーンのために雇われて交流式電気椅子を開発したが、それが彼らの意図を超えて、より〝人道的な〟死刑執行方法として州政府によって採用される結果となったのである。
 ニューヨーク州による最初の電気椅子処刑は1890年、殺人犯のウィリアム・ケムラーなる死刑囚に対して行われた。立会人らによれば、その光景は悲惨なもので、とうてい〝人道的〟とは言い難いものだったことが記録されている。
 結果として、エジソンの反交流式キャンペーンが功を奏したかに見えたが、意外にも、電気椅子処刑法は廃止されなかったどころか、他州にも広がり、絞首に代わる一般的な処刑法にさえなったのであった。
 これは「電流戦争」の思わぬ派生事象であるとともに、電気工学と政治・司法との最も奇妙な関わりを示しているが、電気椅子処刑はアメリカ以外の国には普及せず、アメリカでもその反人道性が懸念され、1980年代以降は薬物処刑に代替されていく。

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近代科学の政治経済史(連載第24回)

2022-11-04 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

独占電気資本の誕生
 19世紀後半期の電気工学の誕生と機を同じくして、電気関連の独占資本が誕生する。その代表的なものは当時新興の資本主義国として台頭していたアメリカに集中しており、20世紀以降のアメリカ資本主義の急成長の原動力ともなった。
 中でも代表的なものとして、発明王エジソンの起業に始まるゼネラル・エレクトリック社の設立がある。前回も見たとおり、これはエジソンが起業した電気照明会社をベースに、1889年にエジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーに拡大された後、1892年に別の発明家によって共同起業されたトムソン・ヒューストン・エレクトリックと合併する形で発足した。
 ゼネラル・エレクトリック株は、1896年に始まったダウ・ジョーンズ工業平均の最初の12の指標株の一つとなるほど、創立当初から当時アメリカ資本主義の主流だった鉄道資本と並ぶ大資本として注目される存在となった。
 ゼネラル・エレクトリックは独占企業体としての発展にも熱心で、1905年には持株会社エバスコ(EBASCO)を設立して、電力会社を系列化するとともに、電気工学的なコンサルティング業務など、電気関連の総合的な独占企業体となった。
 また海外発展にも熱心で、日本初の白熱電球製造会社として設立された東京電機の過半数株式を取得して大株主となったほか、後に東京電機と合併して東芝となる芝浦製作所の大株主にも納まるなど、アジアへの進出にも積極的で、世界に展開する多国籍資本としての本性を早くから発揮した。
 一方、エジソンのライバルの一人であった発明家ジョージ・ウェスティングハウスが1886年に設立したウェスティングハウス・エレクトリック社は、エジソンと争ったテスラから特許を取得しつつ、エジソンが敵視していた交流式送電システムで成功し、1891年には世界初の商用交流送電システムを開発した。
 このように送電システムで強みを発揮したウェスティングハウス・エレクトリックは1890年代から発電機の開発にも注力し、後には原子力発電炉の開発・製造で独占的な地位を築くなど、発電システム分野の独占企業体に成長していく。
 一方、ベルの電話会社を前身とするAT&Tはゼネラル・エレトリックより一足先の1885年に世界初の長距離電話会社として設立され、北米における電話関連の研究開発から関連機器製造、電話通信システムの管理運営まで一貫して同社が独占するシステム(ベルシステム)を構築した。
 ちなみにAT&Tの社業発展期の1901年から07年まで社長を務めたフレデリック・フィッシュはベルやエジソンも顧客とした特許専門弁護士の草分けで、彼が設立した法律事務所は知的財産権専門の多国籍法律事務所フィッシュ・アンド・リチャードソンとして現在も残る。

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近代科学の政治経済史(連載第23回)

2022-11-02 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

電気工学の創始と電化社会の誕生①
 19世紀前半が電気に関する基礎物理学的研究の飛躍期だったとすれば、同世紀後半は応用分野としての電気工学の創始期であった。この時期における電気工学とその関連分野の成果は現在まで永続性を保つ画期的なものが多い。そうした19世紀前半と後半を取り結ぶ新技術は電信であった。以下、準備中。

電気工学の創始と電化社会の誕生②
 19世紀後半、電話機その他多くの電気関連発明を行ったアメリカのトーマス・エジソンは、この時代のチャンピオンである。エジソンもまた独学者であったが、彼は研究と発明のみならず、起業家としての才覚も持ち合わせた点で際立っている。
 エジソンは自身が設立した小さな実験室を基礎に電気照明会社を設立、それを拡大して今日の技術系多国籍資本の象徴ゼネラル・エレクトリックの前身となるエジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーを1889年に立ち上げている。
 もちろん、これはジョン・ピアポント(JP)・モーガンという銀行家による投資の支援があってのことであるが、会社設立の主要な元手は株価情報を電信で速達するストックティッカーの実用的改良品で得た収益にあったから、エジソンは研究とビジネスを結びつける技術系起業家の先駆けとも言える。
 しかし、電化社会の基盤となる電力供給網の発達にかけては、直流方式の送電システムを開発したエジソンとの確執・紛争で知られるニコラ・テスラが考案した交流方式の永続的な効果が大きい。テスラはオーストリアからのセルビア系移民の出自で、彼の成功は世界から優れた科学者を集めるアメリカ科学界の成功の先駆けでもあった。
 一方、電気通信の分野では、実用的な電話を発明したスコットランド生まれのアレクサンダー・グラハム・ベルの業績が際立っている。ベルもアメリカ(及びカナダ)へ移住した移民科学者であるとともに、自身のベル電話会社を前身とする情報通信系多国籍資本AT&Tの共同創業者となった。
 また、無線通信の分野では、ドイツが輩出したハインリヒ・ヘルツとフェルディナント・ブラウンの二人の物理学者・発明家が際立っている。国際周波数単位ヘルツに名を残すヘルツは極超短波の実用化に道を開き、和製英語ブラウン管に名を残すブラウンはまさに最初のブラウン管(陰極線管)を発明した。
 ヘルツとブラウンの発明はその没後、長年月を経て、テレビやコンピュータ、携帯電話などの現代電化技術に応用されたという点で、遅効性の画期的発明であったと言える。
 ここで名を挙げた人々は電気工学者ではなかったが、彼らが成果を上げた19世紀後半、時に末期には、1882年のダルムシュタット工科大学(ドイツ)を皮切りに、欧米の大学で電気工学科の設置が相次ぎ、電気工学が大学での研究・教育の科目として位置づけられるようになる。

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近代科学の政治経済史(連載第22回)

2022-10-31 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革

近代科学の歴史において、19世紀以降における電気現象の科学的な解明とそれを前提とする電気工学の創始は科学自身の発展においても画期的であったが、さらに政治経済を超えた社会のありよう全般を変革した。ある意味では、電気工学の創始以前と以後(現在を含む)とでは、人類は全く異なる社会に住んでいると言って過言でない。その意味で、電気工学は社会変革の促進媒体となり、レーニンに「共産主義とは、ソヴィエト権力プラス全土の電化である」と言わしめたほどである。もちろん電化社会は共産主義の専売特許ではなく、「資本主義とは、資本企業プラス全土の電化である」と定義することもできるであろう。


電気現象の科学的解明

 電荷の移動や相互作用によって生起する種々の物理現象と定義される電気現象については、電気を意味する英単語electricityがギリシャ語で琥珀を意味する単語をもとに、英国のウィリアム・ギルバートが造語したラテン語electricusに由来するように、古代ギリシャ時代から経験的に知られていた。
 ただし、それは主に静電気現象であり、本職は医師であったギルバートも、琥珀を帯電させて静電気を発生させる研究を行った。彼は実用面でも、世界初の検電器を発明したことから、電気工学の祖と目されている。
 ギルバートはまだ思弁的な自然哲学が主流の16世紀後半期に実験を重視したため、実験科学の先駆者ともみなされているが、電気現象のより科学的な解明は17世紀以降の近代科学の創始を待たねばならない。特に18世紀から19世紀にかけて、今日まで有効性を保つ数々の電気的な物理法則の発見が相次ぎ、飛躍的な進歩が見られた。
 特に19世紀はその全期間を通じて電気研究の時代と言え、前半期には主として電気現象の基礎物理学的な研究が進むが、貧困家庭出自の製本職人出身でほぼ独学の物理学者マイケル・ファラデーが発見した電磁誘導現象は後に電動機の基礎原理となる画期的な成果であった。
 ちなみに、電磁誘導現象の発見はアメリカの物理学者ジョセフ・ヘンリーがわずかに先行していたが、発表順が遅れたため、ファラデーに先人の座を譲ることになった。奇しくも、ヘンリーもまた貧困家庭出自の独学者であったが、彼は電信技術の基礎となる継電器をはじめとする数々の電気的発明を行いながら、特許を申請せず、他者の自由な利用を許す先進的な知的所有権の解放も行った。

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