第二部 冷戦と反共ファシズム
2:パラグアイの反共ファシズム
戦後、連合国内部のイデオロギー的分裂から米ソ東西対立が生じると、反共陣営の盟主となったアメリカの「裏庭」的な勢力圏として、中南米にアメリカを後ろ盾とする反共独裁政権が続々と成立する。
ただ、反共の一方で、表向きは反ファシズムも掲げるアメリカの手前、それらの反共体制の多くは、真正ファシズムではなく、擬似ファシズムの性格を持つ軍事独裁や非ファシスト政党を通じた不真正ファシズムの形態をまとった。
その点、アルゼンチンのペロン体制は戦前型ファシズムの特徴が濃厚だったために、アメリカの支持を得られず、そのことが持続しなかった要因の一つともなったが、アルゼンチンの隣国パラグアイで1954年から89年まで35年にわたって続いたストロエスネル独裁体制は、親米的な反共ファシズムの先駆的かつ象徴的な存在となった。
ドイツ系のアルフレド・ストロエスネルは職業軍人の出身で、戦前戦後にかけて対ボリビア戦争や内戦で功績を上げ、若くして昇進を重ねたエリート将校であった。51年には30代で陸軍司令官となり、54年に軍事クーデターで政権を奪取して大統領に就いた。
これだけなら、戦後の中南米ではよく見られた反共軍事政権と違わないが、ストロエスネル体制が35年も持続したのは、軍部のみならず、19世紀以来の歴史あるコロラド党をもう一つの権力基盤として利用する不真正ファシズムの体制をとったからだった。
コロラド党は1887年に結党され、20世紀初頭にかけては連続的に政権を担ったこともある愛国的な右派政党で、それ自体は綱領上のファシスト政党ではなかった。
しかし、1904年以降、中小地主や商人階級に基盤を置くリベラル保守系の自由党に政権を握られ、永年野党に甘んじた後、40年に親ナチス派軍人イヒニオ・モリニゴの独裁政権下で実質的な政権党として復帰すると、47年には自由党や共産党との内戦に勝利し、一党支配体制を樹立していた。
元来、パラグアイはドイツ移民が多く、南米で最初のナチ党支部が結成されるなど、ナチズムが早くから流入し、親ナチスのモリニゴ政権下では、特にドイツ移民を通じたナチズムの浸透が顕著であった。
1940年から内戦をはさんで戦後の48年まで続いたモリニゴ政権は標榜上無党派ながら実質上はコロラド党を支持基盤とする政権であり、戦時中は親枢軸国の立場を採ったため、ストロエスネル体制を先取りする不真正ファシズムの特徴を一定備えた体制であった。
そうした伏線の延長上に、実質的な党内クーデターの形でストロエスネルが登場してくる。政権を握ったストロエスネルは反共以外に強烈なイデオロギーを持たない比較的プラグマティックな独裁者ではあったが、反共思想は強烈であり、共産主義者やそのシンパとみなされた者は殺戮された。その犠牲者は当時人口500万人にも満たなかった同国で推計数千人規模に上った。
その他、彼は政策的な強制移住に抵抗する先住民族に対する民族浄化作戦を展開し、74年には国連からジェノサイドとして非難されるなど、南米では最もナチス張りの政策を追求した。
さらに、自らもドイツ系移民のストロエスネルが思想的に共鳴するナチスの戦犯を庇護し、その中にはアウシュヴィッツで医師として人体実験に従事し、「死の天使」の異名も取ったヨーゼフ・メンゲレも含まれていた。また政権を追われたペロンにも一時的な庇護を与えた。
ストロエスネルは国家予算の多くを軍や治安機関に割り振る極端な警察国家体制を志向する一方で、経済開発にも注力するアジア的な開発ファシズムの傾向も見せ、西側先進国からの借款事業を推進した。特に日本とは59年に移住協定を締結した縁から、その経済援助は際立って多く、苛烈なファッショ体制の長期化に手を貸した日本の責任は免れない。
しかし、80年代に入ると、ようやくストロエスネル体制の組織的人権侵害に目を向け始めた後ろ盾のアメリカからも見放される中、89年2月、側近のアンドレス・ロドリゲス将軍が主導するクーデターにより政権は崩壊、ストロエスネルはブラジルへ亡命した。
こうして冷戦初期に成立し、冷戦終結直前に終焉したストロエスネル体制は、まさしく冷戦の産物なのであった。以後のパラグアイは大統領に就任したロドリゲスの下で民主化プロセスを経て、政情不安を経験しながらも、正常化されていく。
ただ、ストロエスネルの政治マシンを脱したコロラド党自体は存続し、政権交代した2008年から13年までを除き、一貫して大統領を輩出し続けており、最大優位政党としての地位を維持している。