ザ・コミュニスト

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戦後ファシズム史(連載第10回)

2015-12-11 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

2:パラグアイの反共ファシズム
 戦後、連合国内部のイデオロギー的分裂から米ソ東西対立が生じると、反共陣営の盟主となったアメリカの「裏庭」的な勢力圏として、中南米にアメリカを後ろ盾とする反共独裁政権が続々と成立する。
 ただ、反共の一方で、表向きは反ファシズムも掲げるアメリカの手前、それらの反共体制の多くは、真正ファシズムではなく、擬似ファシズムの性格を持つ軍事独裁や非ファシスト政党を通じた不真正ファシズムの形態をまとった。
 その点、アルゼンチンのペロン体制は戦前型ファシズムの特徴が濃厚だったために、アメリカの支持を得られず、そのことが持続しなかった要因の一つともなったが、アルゼンチンの隣国パラグアイで1954年から89年まで35年にわたって続いたストロエスネル独裁体制は、親米的な反共ファシズムの先駆的かつ象徴的な存在となった。
 ドイツ系のアルフレド・ストロエスネルは職業軍人の出身で、戦前戦後にかけて対ボリビア戦争や内戦で功績を上げ、若くして昇進を重ねたエリート将校であった。51年には30代で陸軍司令官となり、54年に軍事クーデターで政権を奪取して大統領に就いた。
 これだけなら、戦後の中南米ではよく見られた反共軍事政権と違わないが、ストロエスネル体制が35年も持続したのは、軍部のみならず、19世紀以来の歴史あるコロラド党をもう一つの権力基盤として利用する不真正ファシズムの体制をとったからだった。
 コロラド党は1887年に結党され、20世紀初頭にかけては連続的に政権を担ったこともある愛国的な右派政党で、それ自体は綱領上のファシスト政党ではなかった。
 しかし、1904年以降、中小地主や商人階級に基盤を置くリベラル保守系の自由党に政権を握られ、永年野党に甘んじた後、40年に親ナチス派軍人イヒニオ・モリニゴの独裁政権下で実質的な政権党として復帰すると、47年には自由党や共産党との内戦に勝利し、一党支配体制を樹立していた。
 元来、パラグアイはドイツ移民が多く、南米で最初のナチ党支部が結成されるなど、ナチズムが早くから流入し、親ナチスのモリニゴ政権下では、特にドイツ移民を通じたナチズムの浸透が顕著であった。
 1940年から内戦をはさんで戦後の48年まで続いたモリニゴ政権は標榜上無党派ながら実質上はコロラド党を支持基盤とする政権であり、戦時中は親枢軸国の立場を採ったため、ストロエスネル体制を先取りする不真正ファシズムの特徴を一定備えた体制であった。
 そうした伏線の延長上に、実質的な党内クーデターの形でストロエスネルが登場してくる。政権を握ったストロエスネルは反共以外に強烈なイデオロギーを持たない比較的プラグマティックな独裁者ではあったが、反共思想は強烈であり、共産主義者やそのシンパとみなされた者は殺戮された。その犠牲者は当時人口500万人にも満たなかった同国で推計数千人規模に上った。
 その他、彼は政策的な強制移住に抵抗する先住民族に対する民族浄化作戦を展開し、74年には国連からジェノサイドとして非難されるなど、南米では最もナチス張りの政策を追求した。
 さらに、自らもドイツ系移民のストロエスネルが思想的に共鳴するナチスの戦犯を庇護し、その中にはアウシュヴィッツで医師として人体実験に従事し、「死の天使」の異名も取ったヨーゼフ・メンゲレも含まれていた。また政権を追われたペロンにも一時的な庇護を与えた。
 ストロエスネルは国家予算の多くを軍や治安機関に割り振る極端な警察国家体制を志向する一方で、経済開発にも注力するアジア的な開発ファシズムの傾向も見せ、西側先進国からの借款事業を推進した。特に日本とは59年に移住協定を締結した縁から、その経済援助は際立って多く、苛烈なファッショ体制の長期化に手を貸した日本の責任は免れない。
 しかし、80年代に入ると、ようやくストロエスネル体制の組織的人権侵害に目を向け始めた後ろ盾のアメリカからも見放される中、89年2月、側近のアンドレス・ロドリゲス将軍が主導するクーデターにより政権は崩壊、ストロエスネルはブラジルへ亡命した。
 こうして冷戦初期に成立し、冷戦終結直前に終焉したストロエスネル体制は、まさしく冷戦の産物なのであった。以後のパラグアイは大統領に就任したロドリゲスの下で民主化プロセスを経て、政情不安を経験しながらも、正常化されていく。
 ただ、ストロエスネルの政治マシンを脱したコロラド党自体は存続し、政権交代した2008年から13年までを除き、一貫して大統領を輩出し続けており、最大優位政党としての地位を維持している。

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戦後ファシズム史(連載第9回)

2015-12-10 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

1:アルゼンチンのペロニスモ
 強力な独裁的指導者を戴くファシスト政党を通じた真正ファシズムは基本的には戦前型のファシズムであり、スペインやポルトガルのようにファシズム体制が戦後の冷戦時代まで延命された場合にあっても、それは戦前ファシズムの持ち越しにすぎなかった。
 そうした中で、1946年に成立したアルゼンチンのペロン政権は、戦後に戦前型ファシズムが改めて誕生した例外事象であった。後にペロニスモとして知られるようになるこの体制の指導者フアン・ペロンは職業軍人の出身であり、戦時中に軍人政治家として台頭し、労働福祉長官から副大統領を歴任した。
 軍事史を専攻する理論派将校であった彼は戦前、イタリア駐在武官を務めた際に、ムッソリーニのファシズムに強い影響と感化を受けて帰国、特に労働福祉長官在任中には、労使協同型の全体主義的な労働政策の遂行で手腕を発揮した。
 戦時中のアルゼンチンは標榜上の中立国であったが、ペロン自身は思想的に共鳴するファシズム枢軸同盟側の支持者であり、大戦末期の44年に副大統領として事実上の最高実力者となると、枢軸国寄り姿勢が鮮明となった。
 こうしたことから、当然にも戦後はアメリカから敵視され、アメリカが後援する軍事クーデターで一時身柄を拘束されるも、すでに人気政治家となっていた彼を支持する大衆の声に後押しされ、釈放、政界復帰を果たしたのだった。
 そして、46年の大統領選(間接選挙)で当選し、一気に頂点に立った。政権に就いたペロンは、与党として正義党を結党し、権力基盤とした。ただし、他政党を禁止することはなく、表向き多党制は維持されたが、野党は抑圧を免れなかった。
 大統領としての彼の政策は、反共を基軸に、大衆煽動的手法を駆使しながら、労使協同型の労働者保護、外資国有化や貿易の国家統制などの経済管理を強化する戦前型ファシズムの路線に即したある意味では守旧的なものであり、まさに戦前型ファシズムの戦後復刻であった。
 その証しとして、ペロン政権は戦犯追及を逃れてきた旧ナチス幹部を組織的に多数庇護し、アルゼンチンをナチス戦犯の一大避難拠点としたが、これはその後、南米各国に成立する反共独裁政権がナチス戦犯を同様にかくまう悪しき先例となった。
 ペロンは51年の大統領選で野党への露骨な選挙干渉により、再選を果たしたが、ペロン政権が長続きすることはなく、55年の軍事クーデターであっけなく崩壊したのである。このことは、ペロンが軍部を掌握し切れていなかったことを示す。その点では、後にもう一度返り咲いたことも含め、ブラジル・ファシズムの指導者ヴァルガスと類似していた。
 55年クーデター後、正義党は禁止されるが、ペロン支持勢力は極右の分派を出しながらも、総体としては左派色を強めていく。このような展開は、ペロンなきペロニスモがファシズムとしては事実上終焉したことを意味していたであろう。
 ペロン派と反ペロン派の党争はその後もアルゼンチン政治の不安定要因となり、73年にはフランコ体制下のスペインに亡命していた高齢のペロンが呼び戻され、大統領選で再び返り咲きを果たしたペロンのカリスマ性に政情安定化が期待されたのだったが、老ペロンは翌年急死し、ペロン体制の再現はならなかった。
 この後のアルゼンチンは大統領職を継いだ副大統領イサベル未亡人の短命政権を経て、76年の軍事クーデターにより擬似ファシズムの性格を持つ反共軍事政権が成立し、左翼の大量殺戮に象徴される「汚い戦争」の暗黒時代に突入するが、これについては改めて後述する。

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戦後ファシズム史(連載第8回)

2015-11-27 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

7:ブラジルの場合
 戦前ファシズムは圧倒的に欧州を本場としており、非欧州地域には―その多くが欧州列強の植民地だったこともあり―、広がっていなかったが、独立国としての歴史があり、欧州系移民も多い中南米諸国には、ファシズムの潮流が及んでいた。中でも、かなり明瞭な形でファシズムが現われたのが、南米ブラジルである。
 ブラジルのファシズムは、地主階級中心の寡頭政治―第一共和政―が限界をさらけ出していた時期に、ジェトゥリオ・ヴァルガスによってもたらされた。法律家出身のヴァルガスは専門知識人に出自した点では、旧宗主国ポルトガルのファシズム指導者サラザールとも共通の要素があり、彼が樹立したファッショ体制もサラザールのそれと同様に「新国家体制」と呼ばれた。
 ただ、両者には相違点もある。ヴァルガスは1930年の大統領選挙に出馬して敗れた直後、支持者や一部軍人の支援を受けてクーデターに成功し、臨時軍事政権から権力を委譲される形で大統領に就任した。この暫定政権の時期にはまだファシズムの傾向は希薄だったが、32年の立憲派による反政府蜂起を武力鎮圧すると、ヴァルガスは34年にイタリア・ファシズムの影響を受けた新憲法を制定したうえ、37年には予定されていた大統領選挙を強権発動により中止させ、独裁体制を強化した。
 ヴァルガスのファシズムは、国粋主義と反共主義の一方で、労働者の権利保護も重視する一部左派色を帯びたもので、「貧者の父」という異名すら取る両義的な側面があった。この点では、次の第二部で取り上げるアルゼンチンのペロン政権との類似性が認められる。
 ただし、ヴァルガスは政党を結成することはなく、思想的には近かったファシスト政党を禁圧すらしているため、彼の体制は擬似ファシズムとみる余地もあるが、ヴァルガス自身は党派政治家の出身であり、ポピュリストとして大衆動員的な政治手法を追求した点からすると、ファシスト党を介さない不真正ファシズムの特徴を持つと言える。
 第二次大戦中のヴァルガス政権は、当初ナチスドイツとの協調姿勢を示したが、大戦後半期になると、ブラジルに善隣政策で接近してきたアメリカと協調するようになり、事実上連合国側に寝返った。
 こうしてポルトガルのサラザール政権同様、連合国側に受け入れられたヴァルガス体制は戦後も延命されるはずであったが、そうはならなかった。大戦終結直後の45年10月、軍事クーデターによりヴァルガスは辞任を強いられ、ブラジル・ファシズムは終焉した。
 このようなあっけない幕切れとなった直接の理由として、ヴァルガスが軍部を掌握し切れていなかったことがあろう。その点、ポルトガルのサラザールの場合、自身は首相にとどまりつつ、軍の有力者を名目的な大統領にすえて軍部を懐柔していたが、ブラジルには首相制度がなく、ヴァルガス自身が任期を越えて大統領に居座っていたのだった。
 またヴァルガスの国家主導による経済成長政策の果実を得た中産階級の間から、民主化を求める声が高まり、ヴァルガス自身も政権末期には一定の民主化を進めていたことも、自らの体制の命脈を縮める結果となった。
 こうして46年以降、ブラジルは第二共和制下で民主化のプロセスを開始するが、その過程で、ヴァルガスは中道左派の労働党候補として出馬した51年の大統領選挙に勝利し、今度は民主的な手段で返り咲きを果たした。戦前ファシズムの指導者が戦後に民選大統領として復帰するのは極めて例外的である。
 ブラジル有権者はヴァルガス自身にヴァルガス体制の清算を委ねたとも言える結果だったが、そのような芸当はやはり困難だったと見え、54年に起きたヴァルガスの政敵に対する暗殺未遂事件を契機に軍部から辞任要求を突きつけられ、再びクーデターの危機が迫る中、ヴァルガスは拳銃自殺を遂げる。
 こうして、またしてもヴァルガス政権は不正常な形で突如幕切れしたのだが、ヴァルガスの影響は死後も続いた。以後は、ヴァルガスの「新国家体制」の両義性を反映して、中道保守の社会民主党と中道左派の労働党が第二共和制下のヴァルガス派有力政党として立ち現われるのである。

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戦後ファシズム史(連載第7回)

2015-11-26 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

6:ポルトガルの場合
 ポルトガルの戦前ファシズムは、経済学者出身という異色の経歴を持つアントニオ・サラザールによって打ち立てられたカトリックを精神的基盤とする「新国家体制」として、1933年以降、制度化されたが、第二次世界大戦ではスペインとともに、しかしスペイン以上に明確な中立を保ったことで、戦後も生き延びることに成功した。
 サラザールは他の戦前ファシズムの指導者のように「総統」のような超越的指導者とはならず、1968年に転落による頭部外傷が原因で退任するまで、一貫して首相にとどまるという形で議会制の体裁のまま独裁支配を続けたことが特徴である。
 とはいえ、全議席が与党的政治団体「国民同盟」によって独占される体制であったので、議会制は完全に形骸化していたのではあるが、議会制の形を残してのファシズムという点に着目すれば、ポルトガルのファシズムは現代的な「議会制ファシズム」の不完全な先駆けという見方もできなくない。
 そうした外見の穏健さに加え、サラザール政権は大戦末期に戦況を見越して価値観を異にする連合国側に基地提供するなど、連合国寄りの立場を示したことが好感され、戦後はマーシャルプランの受益やNATO加盟も認められるなど、孤立していた隣国スペインのファシズム体制とは異なる厚遇を受けた。
 こうして、ポルトガルの戦前ファシズムは戦後に国際的体制保証を得たため、敗戦国となったドイツ、イタリア、あるいは日本の戦時擬似ファシズムのように強制的に解体されることはもちろん、スペインのファシズムような「暫定性」の内在的論理によって自主的に解消される可能性もなかった。
 そうした磐石の体制下で、サラザール政権は、国内的には共産党をはじめとする左派勢力を秘密警察により抑圧するとともに、対外的にはアフリカ大陸を中心とする植民地の維持に固執し、戦後の民族自決の波に抗して独立運動を軍事的に鎮圧する植民地戦争を展開した。
 68年のサラザール退任、70年の死去後も後継者によって延命されたポルトガルの戦前ファシズムの清算は、内部からの決起を待つしかなかった。それは軍部青年将校によって行なわれた。軍部内では植民地戦争に動員される将校の間で体制に対する疑問が広がり、左傾化した青年将校のグループが形成されていた。
 このグループ「国軍運動」が中心となって決起した1974年の革命―カーネーション革命―で、ようやくポルトガルの戦前ファシズムは、その植民地もろとも解体されることとなった。
 革命直後には急進的な軍事政権が成立したが、75年にその行き過ぎを是正する穏健派のクーデターが成功し、76年の大統領選挙で前年クーデターを主導したアントニオ・エアネスが当選、以後、80年の再選を経て86年まで大統領の座にあったエアネスの下で民主化プロセスが進められた。
 こうして、ポルトガルでもスペイン同様、76年以降、しかしスペインとは異なるプロセスでファシズムの解体が行われた。現在、ポルトガルには西欧諸国の標準モデルの多党制に基づく議会制民主主義が定着している。
 旧ファシズムの流れを汲む政党は現時点で確認されないが、2000年に結党された新党として、ナショナリズムを標榜する国民維新党が存在する。同党は現時点で中央・地方とも議席を持たないが、02年以降、国政選挙に参加し、回を追うごとにじわじわと得票数を増やしており、今後が注視される。
 2010年代初頭のポルトガルは財政破綻に直面したが、サラザールも1920年代末、当時の軍事政権から財政再建のため財務大臣に抜擢され、緊縮政策で成果を上げたことが自らの権力掌握へのステップとなった歴史が想起される。
 しかし、11年以降、緊縮政策を主導したのは、カーネーション革命によって誕生した中道保守系政党「社会民主党」―名称にもかかわらず、社民主義ではない―であった。緊縮政策の是非はともあれ、ポルトガルで財政危機を契機にファシズムが出現する可能性はもはや乏しいと見てよいだろう。

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戦後ファシズム史(連載第6回)

2015-11-13 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

5:タイの場合
 アジアで戦前、日本と同型の擬似ファシズムが成立した国として、タイがある。タイの擬似ファシズムの成立経緯はいささかねじれている。まず、タイでは1932年、立憲革命が発生し、それまでの絶対君主制に終止符が打たれる。
 この革命を主導したのは、少壮軍人や文民官僚から成る人民団という政治結社であった。革命当初は民主的な志向性を持つ集団であり、革命後最初の政権は文民政権であった。しかし、翌33年に軍人が首相に就くと、人民団の武官派が主導権を握った。この延長線上に、戦中戦後にかけてのタイにおける擬似ファシズムの指導者となるプレーク・ピブーンソンクラーム(以下、通称的略称に従い、ピブーンと表記)が登場する。
 イタリアのファシズムに親近感を持っていた職業軍人のピブーンは、38年に首相に就任すると、プロパガンダ宣伝、個人崇拝といったファッショ的政治手法を駆使しつつ、国粋主義・タイ人優越主義の見地から、華人への迫害・差別政策を強力に推し進めた。
 太平洋戦争が勃発すると、国民総動員体制を採るとともに、当初は中立を標榜するも、間もなく日本との同盟に転じ、枢軸国側に立って米英に宣戦布告した。しかし、その過程で日本軍のタイ領内通過を認めるという形で日本軍による準占領状態に陥ったことへの国民の反発が高まり、ピブーンは44年、いったん辞職に追い込まれた。
 戦後処理において、連合国はタイを日本並みに敵国扱いはせず、戦後直後のタイでは、戦時中の日本の準占領状態へのレジスタンス運動を組織した自由タイ運動が政権を掌握するが、短命に終わった。以後しばらくは人民団と人民団文官派が結成した中道リベラル系の民主党の間で政権抗争が続き、民主化のプロセスは進まなかった。
 そうした隙を突いて、48年、ピブーンが軍部内の支持勢力を動かしてクーデターに成功、首相に返り咲きを果たしたのだった。戦後の彼はかつて敵対したアメリカとは協調姿勢を取り、経済協定、軍事協定を締結して、アメリカを後ろ盾とすることに成功した。
 そのため、戦後のピブーンは民主主義の外形を取り繕う傾向が強くなり、55年には自身の与党となる新党を結成したが、君主制は維持されていたうえ、ピブーンの権力基盤はあくまでも軍部支持勢力にあり、結局のところ、彼の体制は擬似ファシズムのままにとどまった。
 しかし、純粋の軍事政権とも異なり、軍部内を掌握し切れず、最終的に57年の軍事クーデターで政権を追われるまで、たびたびクーデター未遂や反乱に見舞われ、独裁体制を固めることはできなかった。
 ただ、ピブーンは度重なる混乱を収拾する権力維持の術には長けており、一時は「永久宰相」とも呼ばれたが、首相留任を決めた57年の選挙で不正が疑われたことを契機に反政府デモが発生、騒乱が続く中、元は側近だったサリット将軍のクーデターによりピブーン政権は崩壊した。ピブーンは最終的に日本に亡命、客死する。
 こうして戦前、戦後に通算で15年にわたり首相を務めたピブーンの擬似ファシズム体制は終焉するが、それは民主的な変革によって清算されたものではなく、ピブーンの失墜はむしろこの後、軍部が前面に出ておおむね70年代末まで、同じく擬似ファシズムの性質を持つ反共体制を断続的に維持するきっかけとなるのである。

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戦後ファシズム史(連載第5回)

2015-11-12 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

4:日本の場合
 日本の戦前ファシズムはしばしば「天皇制ファシズム」と呼ばれることもあるが、この場合、昭和天皇がファシズム体制の統領に見立てられる。けれども、ファシズムは基本的に大衆運動を基盤として成立するもので、本質上政党政治の枠内にある。
 その点、日本におけるファシズムは北一輝らが主唱する政治思想・運動として、青年将校らの間に浸透した時期もあるが、彼が2・26クーデター未遂事件に連座する形で処刑された後は退潮し、イタリアやドイツのように、ファシズムが政党として組織化されるようなことはなかった。
 もっとも、戦争期に三度にわたって首相を務めた近衛文麿が主導した新体制運動はナチ党のような独裁政党の樹立構想を含むものであったが、不磨の大典とされた明治憲法の枠内では大政翼賛会のような中途半端な官製選挙マシンの設立に終わり、本格的なファシスト政党樹立には至らなかった。
 結局のところ、「天皇制ファシズム」と呼ばれるものは、当時の天皇・日本軍部とその追随勢力が主導した戦時動員体制であり、天皇中心の国家絶対主義的な側面を外見的にとらえれば、ファシズム様の特徴も認められた限りでは「擬似ファシズム」と呼ぶべき政策的な暫定性の強い体制であった。
 そうした「暫定性」という点では、スペインのフランコ体制との類似性がなくはなかったが、日本の軍国体制にフランコに相当するような統領的軍人指導者は存在せず、集団指導型の体制であった。また天皇も、明治憲法では神聖不可侵な超越的存在者とされ、独裁的指導者ではなかった。 
 そのため、戦後の占領下でも、連合国はドイツにおける「非ナチ化」のような体制そのものの解体措置ではなく、軍国主義勢力の排除、特にその中心にあった軍部の解体に最大の力点を置いたため、新憲法にも非武装平和条項が現われることになった。
 戦争に主体的に協力した文民・民間人に対する公職追放もなされたが、微温的であり、間もなく開始された冷戦の中で、今度は共産党員の公職追放が当面する課題となったことから、追放解除が相次ぎ、軍国主義の排除は不徹底に終わる。憲法上の非武装中立も解釈によって緩和され、事実上の再武装化である自衛隊が出現する。
 占領終了後も、ドイツのようにファシズムの再興を阻止する反ファッショ政策が採用されることはなく、かといってファシスト政党が新たに出現することもなく、ただ憲法の平和条項が反軍国主義の旗印として辛うじて維持されるにとどまった。
 このように、日本では清算の対象となるべき戦前ファシズムが擬似的なものでしかなかったことが、戦後日本における「歴史認識」にも特有の困難さをもたらしている。日本国民はドイツ国民のように選挙を通じてファシズムを選択したのではなく、選択の自由がないまま、軍部主導での戦争に強制動員されていったため、時間の経過とともに、歴史に対する「反省」の念が希薄となりがちなことは否めない。
 言い換えれば、日本国民にはファシズムの免疫が存在しない。このことは、今後新たに本格的なファシズムが出現してきた時、その免疫がないため、今度は選挙でファシズムを選択してしまう危険もあることを意味しているであろう。

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戦後ファシズム史(連載第4回)

2015-11-11 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

3:スペインの場合
 スペインでは共和派政権との内戦に勝利したフランコが、イタリアやドイツにはやや遅れ、1936年以降、ファシスト体制を樹立していたが、第二次大戦中のフランコ政権は内戦で支援を受けたナチスドイツをはじめとする枢軸国側に共鳴しつつ、表向きは「中立」を保つという両義的な策を採ったおかげで、戦後も生き延びることに成功した。
 そのため、スペインのファシズムはフランコが高齢で死去した75年まで遷延していくことになる。従って、スペイン・ファシズムは戦後にその絶頂期を迎える。もっとも、戦後のフランコ体制はファシズムではなく、フランコが出自した軍部を基盤とする権威主義独裁体制だとする見方も有力である。
 たしかに、フランコ体制における実質的な与党であったファランヘ党は支配政党と言えるほどの力を持たず、同党自体もフランコがファシストと伝統的な反動派を糾合して結成し直した経緯があり、フランコ体制はイデオロギー的に雑多な反共右派の寄り合い所帯の性格が強かった。
 とはいえ、フランコは総統を名乗り、終身間国家指導者として君臨し続けたし、ファランヘ党も政治動員上のマシンとしては機能していたのであり、フランコ体制を戦後のスペイン語圏中南米に多く出現する純粋の軍事独裁政権と同視することはできず、ファシズムの特徴を備えていたとみるべきである。
 その特徴は、スペイン社会における伝統的な権威の源泉であるカトリック教会や政治的な権威を持つ軍部を中核とした「権威ファシズム」であり、その点ではイタリアやドイツの真正ファシズムと比べ、曖昧な性格を免れなかったが、元来ファシズムには明確で体系的なイデオロギーがあるわけではなく、信条的な反共主義と心情的な国粋主義を共通項に成立する国家の絶対化という点では、スペイン・ファシズムこそ、ファシズムらしい真正ファシズムだったとさえ言えるのである。
 だたし、フランコはファシズム体制を恒久的なものとは考えておらず、自身の死後には王制復古すべきとの考えであった。そのため、彼の体制はあくまでも暫定的なものであり、フランコは国王空位の間の「終身摂政」といういささか中途半端な位置づけを自らに与えていた。
 ある意味では、そうした「暫定性」を口実に立憲政治を排除していたとも言える。「暫定性」の論理はまた、国際的には戦前ファシズムの生き残りとして国際的に異端視され、孤立する中で体制を延命させるための理屈でもあったであろう。
 フランコに「功績」があったとすれば、彼は死の間際になっても心変わりせず、「暫定性」の論理を守り通したことである。そのため、75年のフランコの死後は、大きな動乱もなく、王政復古=立憲君主制への移行がなされ、これに伴い、西欧的な議会制の導入も図られた。これは、ファシスト政権の指導者自身の遺志に基づき戦前ファシズムが清算された稀有の事例である。
 ファランヘ党は間もなく国民同盟として再編され、選挙参加するが、中小野党の域を出ることはないまま、89年に至り、他の保守系政党を吸収しつつ、国民党として再編された。従って、部分的には同党が旧ファシズムの継承者ではあるが、現在の同党は中道左派の社会主義労働者党とともにスペインの二大政党政を担う代表的な保守政党であり、もはやファシスト政党とは言えない。
 現時点で明確にファシズムの特徴を持つ政党は、2002年に結党された真正ファランヘ党であるが、同党は一部の自治体にわずかな議席を持つにとどまり、国政レベルでの支持の広がりは見られない。スペインでは、戦前ファシズムの清算はフランコ没後の40年間でほぼ完了したと言えるであろう。
 ただし、それはスペイン内戦中とその戦後処理過程でフランコ政権が断行した共産党員を中心とする反フランコ派大量殺戮の罪を法律上免責し、真相究明も封印するという社会的合意のうえでの「清算」である。その意味では、スペインにおける戦前ファシズムの清算は政治的なものにとどまり、歴史的には未了であるとも言えるのである。

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戦後ファシズム史(連載補遺)

2015-10-31 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

2ノ2:東欧/バルカン諸国の場合
 ギリシャを含む東欧/バルカン諸国は、第二次大戦中、ナチスドイツ(一部はファシストイタリア)の侵略を受け、併合されるか、もしくは傀儡政権を建てられるかしたため、完全に独立的なファシズム体制が出現した国は見られない。
 そうした中でも、1940年から44年までルーマニアに親ナチス独裁体制を築いたイオン・アントネスク総統体制、44年から45年にかけて短期間ながらハンガリーに親ナチス体制を築いたサーラシ・フェレンツ率いる矢十字党政権は、ナチスと呼応しつつ、短期間で多数のユダヤ人を虐殺し、「本家」に勝るとも劣らない反人道性を発揮した。
 一方、バルカン半島ではクロアチアに成立したアンテ・パヴェリッチ率いる民族主義政党ウスタシャの独裁政権がナチスドイツとファシストイタリア双方の支援を受けつつ、独自の民族ファシズム体制を築いた。この政権は「クロアチア独立国」を名乗り、独伊日三国同盟に参加し、日本を含む枢軸諸国からも国家承認を受けたため、完全な傀儡国家の性格を超え、ある程度「独立国」としての体裁を備えたバルカンにおける真正ファシズム体制とみなすことができる。
 クロアチア独立国でもナチスに倣った絶滅収容所でユダヤ人虐殺が実行されたが、それ以上に、この体制下では対立するセルビア人の大虐殺が組織的に実行された点で、バルカン半島特有の歴史的な民族問題を反映していた。
 一方、セルビア人側でも反枢軸抵抗勢力としてチェトニクが組織されていたが、この組織はそれ自身ウスタシャの相似形的なファッショ団体となり、クロアチア人やイスラーム系ボシュニャク人の虐殺に関与する一方で、枢軸国やクロアチア独立国とは妥協的協調関係に立つというねじれた立場を採った。
 これら東欧/バルカンのファシズム体制は第二次大戦での枢軸国敗北の結果、次々と崩壊していき、戦後におけるファシズム清算は、東欧/バルカン半島に続々とソ連の傀儡政権が樹立されていく中で、指導者が戦犯として処罰された。
 その後の親ソ社会主義体制下ではイデオロギー上「反ファシズム」が標榜される中で、ファシズムの復活可能性は政治的に抑圧されていたと言える。しかし、その処理は形式的であり、代替的にソ連型の社会主義一党独裁体制が構築されることで、かえって民主化は阻害された。言わば、ファシズムからスターリニズムへの代替が起きたにすぎなかったのである。
 これらの社会主義体制が80年代末移行、民衆革命により次々と崩壊していくと、多党制が復活する中で一部の国では再びファシズム系小政党が出現するようになり、あるいは民主化勢力の変節としてファッショ化要警戒現象が発現している国も存在する。
 その点、ソ連とは対立的な独自の社会主義体制に向かったユーゴスラビアはいささか事情を異にしたが、それとて建国者ヨシップ・チトーの権威主義により民族主義が抑圧される形で連邦の統合を保つという危うい構造であった。
 ユーゴにおける民族ファシズムは、1980年のチトーの没後、民族主義を強制的に封じ込めていたユーゴ連邦が解体に向かう凄惨な内戦の過程で、今度はセルビア人を主体として発現することになる。
 なお、ギリシャでは戦後、共産党と反共勢力間の内戦を経てさしあたり親西側の民主主義体制が成立したが、内戦後も尾を引いた左右両翼の対立から、60年代後半に擬似ファシズムの性質を帯びた軍事政権が成立した。
 その軍事政権もキプロス軍事介入の失敗から崩壊した後、再び民主化に向かうが、93年に結党され、ネオ・ナチズムの性格を帯びた「黄金の夜明け」を称する政党が深刻な財政破綻危機の中、2012年総選挙で初の議席を獲得するなど、伸張の動きを見せている。

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戦後ファシズム史(連載第3回)

2015-10-30 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

2:イタリアの場合
 ファシズム本家のイタリアでは1943年、ムッソリーニを排除したファシスト政権がドイツより先に連合国側に降伏したことを受け、共産党を含む保革の反ファシスト政党が参加する挙国一致の臨時政府として国民解放委員会が設立された。
 しかし、ドイツ軍がムッソリーニを奪還し、イタリア北部にナチスの傀儡国家であるイタリア社会共和国を樹立したため、同共和国が45年4月に降伏するまでは、反ファシスト政権とファシスト政権が南北に対峙する状況であった。そのため、イタリアでは、終戦後の46年6月に実施された共和制移行の是非を問う国民投票が戦前/戦後の転機となる。
 イタリアのファシスト政権は、1861年のイタリア統一以来のサヴォイア王家による王制の枠内で成立・維持されていたため、王制もファシスト政権と同罪とみなされ、存続の是非が問われたのである。投票結果は、共和制移行支持が過半数となり、ここにイタリア王国は廃止、新生イタリア共和国が成立することとなった。
 しかし、旧ファシスト政権がナチスほどの組織的な反人道犯罪に手を染めていなかった新生イタリアでは、ファシズムの清算は徹底せず、旧ファシスト勢力は戦後直ちに「イタリア社会運動」(MSI)の名で再結集し、戦後初となる48年の総選挙では上下両院合わせて7議席を獲得するなど、早速小政党として議会参加している。
 MSIの初代指導者ジョルジョ・アルミランテはジャーナリストを経験した点ではムッソリーニと似た経歴の持ち主であったが、戦前の国家ファシスト党内では目立たない人物にすぎなかった。しかし、そのような地味な人物像は戦後再結成されたファシスト政党を率いるにはかえって好都合であった。
 しかし、MSIは間もなく、ムッソリーニ崇拝とファシスト政権の復活を掲げるアルミランテらの純化派と右派保守主義者への浸透も図る修正派の党内抗争に見舞われ、アルミランテ派は一時敗退する。しかし修正派が主導権を握った50年代から60年代にかけ、党勢は伸び悩み、69年にはアルミランテがトップに返り咲いた。
 第二次アルミランテ指導部は、従来の純化路線を軌道修正し、党の穏健化をアピールする姿勢を取った。このことが功を奏し、72年の総選挙では上下両院合わせて82議席という結党以来最大規模の躍進を見せたのである。
 だが、このような修正主義一般の帰結として、党の原点からは遠ざかることとなり、非ファッショ的な右派政党との区別はつかなくなる。72年を頂点として、70年代後半以降のMSIは長期低落傾向を見せていくのである。
 87年、高齢のアルミランテの後を継いだジャンフランコ・フィーニは、MSIの幕引き役となった。94年、戦後最大規模の疑獄事件を契機に大規模な政界再編が起きると、フィーニ指導部は当時保守系の新星として実業界から転進してきたシルヴィオ・ベルルスコーニの連立政権に参加した。
 その結果として、95年の党大会で公式にファシズムを放棄、「国民同盟」への党名変更を決定した。これにより、戦前のファシズム体制を継承する政党としてのMSIは終焉したことになる。MSIは最終的に、ベルルスコーニが創設した新保守系政党「頑張れイタリア」へ合流・吸収された。
 一方、これに反発する残党グループは、2012年に至って、新たに「イタリアの兄弟」を結党した。同党は旧MSI・国民同盟のイデオロギーを継承した後継政党の性格を持ち、13年の総選挙では下院で9議席を獲得した。
 同党はイタリア国粋主義と欧州連合懐疑論を掲げるとともに、経済面では伝統的なファシズムとは異なり新自由主義に傾斜し、ネオ・ファシズムの傾向も示している。現時点ではミニ政党にすぎないが、一般政党への幻滅感から支持を増やす可能性はあり、動向が注目される。

[追記]
2018年3月の総選挙で、「イタリアの兄弟」は下院議席を約三倍増し、上院にも議席を獲得した。同党は6月発足の反移民・反EU連立政権を承認・参加しなかったが、棄権であり、閣外協力の可能性は残る。

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戦後ファシズム史(連載第2回)

2015-10-29 | 〆戦後ファシズム史

第一部 戦前ファシズムの清算と延命

1:ドイツの場合
 戦後ファシズム史の出発点は、まず戦前ファシズム体制の清算に始まる。これは戦前ファシズム体制の二大巨頭であったドイツとイタリアが世界大戦に敗れたことを契機とする。清算が先行したのはドイツであった。
 ドイツにおける戦前ファシズム=ナチズムの清算は、連合国軍による占領統治という受動的な状況下で着手された。しかも、ドイツ占領はアメリカとソ連による分割占領という変則的なものであったので、ナチズムの清算の方法にも相違が生じるというちぐはぐさを伴った。
 このプロセスは「非ナチ化」と呼ばれ、特にアメリカ側占領地域ではナチ党員の公職追放が徹底された。このパージは1946年3月の「ナチズム及び軍国主義からの解放のための法律」をもって法的根拠を与えられ、占領下の各州ごとに非ナチ化審査機関でナチスとの関わりの程度に応じて処分が決定された。ただ、アンケート調査をもとにした審査であったため、技術的な限界を免れなかった。
 一方、ソ連占領地域ではナチス指導層と末端分子が峻別され、末端分子は一部領域を除き、パージを免除された。ただ、この地域では親ソ派のドイツ共産党が優遇されたため、ナチ党が共産党に置換されるような措置が取られ、後の東西ドイツ分裂の基礎となった。
 このような一種の粛清による非ナチ化とともに、ナチス最高指導層に対しては国際軍事裁判による司法的処理も行なわれた。これはドイツ・ファシズムとしてのナチズムが人種差別的な人種ファシズムの性格を濃厚に持ち、ユダヤ人虐殺に象徴される数々の人道犯罪を犯したためであった。
 もっとも、このような勝者による敗者の裁判には公正さの点で疑念はあったが、このニュルンベルク裁判を通じて、人道に対する罪など、今日の国際人道裁判に通ずる基軸的な法概念が確立されたのである。
 こうした連合国主導での受動的なナチス清算、中でもアメリカ主導でのパージに対しては、ドイツ側の不満が強く、49年の占領統治終了後、新生西ドイツ最初の宰相となったコンラート・アデナウアーは指導層を除く旧ナチ党員に対するパージの解除を主導し、非ナチ化に終止符を打った。
 これによって、旧ナチ党員の大量社会復帰が実現し、ナチズムの清算は腰折れとなる。ただ、西ドイツではナチ党の再結成は法律で禁じられたため、後継政党が議会参加する道はなかった。また、ナチス犯罪には時効を認めず、ナチス幹部の生き残りに対する刑事訴追を恒久的に継続するなど、ナチス復活阻止は党派を超えた国是となった。
 一方、社会主義政党(実質共産党)による一党支配体制となった東ドイツでは体制イデオロギー上反ファシズムが掲げられ、厳しい思想統制が実施されたため、ナチズムに限らず、ファシズムの復活はさしあたりあり得なかった。
 しかし、自由主義を標榜した西ドイツでは、ナチスのシンパは地下に潜る形で活動を続け、やがて半ギャング的なネオナチ運動として顕在化していく。とはいえ、90年の東西ドイツ統一後もナチズムは引き続き禁圧されていることから、ナチ党の再結成には至っていない。
 そうした中、民族共同体思想などナチス類似の綱領を掲げる「国家民主党」が合法政党として台頭してきている。同党は1964年に当時の西ドイツで結成された新興政党であるが、60年代以降いくつかの州議会で議席を獲得するようになった。連邦議会での議席獲得歴はまだないが、近年得票を増やしており、連邦政府で非合法化も検討されているが、結社の自由との兼ね合いから実現していない。
 同党は明白にナチズムを標榜せず、近年はむしろ移民規制を掲げる反移民政党として一定の注目・支持を集めていると見られ、今後の動向が注目される。ただし、ドイツの反ファッショ政策が変更されない限り、同党の躍進は想定しにくい。

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戦後ファシズム史(連載第1回)

2015-10-16 | 〆戦後ファシズム史

序説

 本連載が主題とする「戦後ファシズム」という用語は、正規には使われない。なぜなら、ファシズムは戦後は死滅したと考えられているからである。「戦後ファシズム」は歴史的には非常識である。しかし、ファシズムは戦後も死滅していない。国家を絶対化し、国家にすべてを収斂させようとするファシズムは国家の観念と制度が存在する限り、死滅することはないのである。
 ただ、ファシズムは体系的な教説を伴った思想ではなく、陰陽様々な形態を纏って発現してくる微生物的な思想であるので、いくつかの観点からこれを分類して検証する必要がある。ここでは、そうした分類視座として、真正ファシズム/不真正ファシズム/擬似ファシズムを区別する。

 真正ファシズムとは、まさしく正真正銘のファシズムであり、これはイタリアに発祥した国家ファシズムとドイツ版ファシズムとも言うべきナチズムを二大系統とするファシズムである。戦後死滅したと思われているのは、この系統のファシズムに基づく政治体制である。たしかに、イタリアとドイツの両ファシズム体制は第二次世界大戦の敗者として滅びた。
 しかし、実のところ、このような綱領上も明確にファシズムを掲げる政党を通じた真正ファシズムはファシズムの一部でしかなかった。ファシズムにはより気づかれにくい形態がある。それは綱領上はファシスト政党ではない政党を通じたファシズム―言わば隠れファシズム―であり、このようなファシズムを不真正ファシズムと呼ぶ。
 このような不真正ファシズムは真正ファシズムが滅亡した戦後にかえって隆盛になったと言え、戦後ファシズムのほとんどがこの不真正ファシズムである。真正ファシズムは議会制を否定するが、不真正ファシズムは必ずしも議会制を否定せず、少なくとも形式上は議会制を保持する場合も多く―議会制ファシズム―、ますますファシズムとは気づかれにくい性質を持つ。

 ところで、三つ目の形態である擬似ファシズムとは本来のファシズムではないが、ファシズム様の思想に基づく体制である。ファシズムは大衆運動を基盤とする政党政治の一種であるので、政党政治の外に構築される体制―君主制や軍事政権―の場合は、ファッショ的な思想を標榜していても、それは真のファシズムではない。そのような例として、戦前日本の戦時体制がある。
 この旧体制はイタリア、ドイツの真正ファシズム体制と国際同盟を組んだことから、しばしば「天皇制ファシズム」とも呼ばれるが、実際のところ、この体制はイタリアやドイツのようなファシスト政党を基盤としたものではなく、帝政の一種である天皇制の下での総動員体制として軍部が主導した擬似ファシズムであった。
 日本の擬似ファシズムは周知のように、第二次世界大戦で同盟相手であるイタリアとドイツの真正ファシズム体制と運命を共にしたが、戦後の擬似ファシズムは中南米の反共軍事政権などに発現している。

 以上のような分類のほかに、政権獲得によって体制化した体制ファシズムと大衆運動や野党にとどまる反体制ファシズムとを区別することができる。真正ファシズムは死滅したと言っても、それは体制ファシズムとしてのそれであって、イタリアやドイツでも反体制ファシズムとしては戦後も残存してきた。反ナチスが国是である戦後ドイツですら、反体制化したネオ・ナチズムの形でなお活動中である。
 真正ファシズムも当初は議会選挙に参加して議会に進出し、やがて巧みな選挙戦術で有権者の心をとらえ、政権を獲得したように、選挙議会制の下では反体制ファシズムはいつでも体制ファシズムに転化することが可能であり、その意味では体制ファシズムと反体制ファシズムは別種のものではなく、連続体である。

 さて、本連載ではこのような視座に立ちながら、あえて「戦後ファシズム」の動向を戦後史として概観することを目的とする。そのうえで、現在進行形でもある現代型ファシズムの特徴をとらえ、ファシズムをすでに過去のものとして等閑視する政治的通念に対する警鐘としたい。
 もっとも、個人のレベルでファシズムを信奉することは思想の自由であるので、ファシズムをことさらに貶めることは意図していないが、完全に中立的ではなく、筆者自身はファシズムを人間の自由と平等に対する最大級の脅威の一つとして拒否する立場を前提としている。

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