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貨幣経済史黒書(連載第27回)

2019-11-03 | 〆貨幣経済史黒書

File26:日本の昭和/平成バブル景気

 ニクソンショックとオイルショックという1970年代前半の二つの人為的な「ショック」は、戦後日本の高度成長を正式に終焉させたが、それで一気に日本経済が凋落したわけではなかった。70年代の打ち続くオイルショックを何とか乗り切ると、1980年代半ば過ぎから、急激な膨張的好景気を示したのである。  
 その契機となったのは、1985年9月のいわゆる「プラザ合意」にあったということで論者の見解は一致している。その合意内容は「基軸通貨ドルに対して、参加各国の通貨を一律10乃至12パーセント幅で切り上げ、そのために 参加各国は外国為替市場で協調介入を実施する」というものであった。  
 これも、ニクソンショックと同様、アメリカ主導の人為的な政策変更であり、その狙いはドル安へ誘導してアメリカの輸出競争力を高め、宿弊である貿易赤字を解消することにあった。ただし、ニクソンショックとは異なり、今回は一方的でなく、日本を含む主要5か国合意という形式をとったが、アメリカ以外の4か国に異論を挟む余地はなかった。  
 この急激な円安=ドル高政策により、ニクソンショック以来の円高=ドル安に歯止めがかかる一方、今度は円高による輸出減により日本の国内景気は一気に落ち込み、円高不況に入った。とりわけ輸出を生命線とする製造業での倒産が深刻化した。  
 これに対し、日本銀行はこうした場合のマニュアルである金融緩和措置を導入せず、1年ほどは公定歩合据え置き、無担保コールレートの引き上げという引き締め策を採ったうえで、緩和に転じるという奇策を選択した。  
 このような二段階的な措置は、インフレ率の低下局面での利下げ期待という市場の反応を招き、名目金利の先行的低下とそれによるいわゆる貨幣錯覚による投資ブームを誘発したと分析される。こうして実体経済から乖離して株式や不動産の資産価格が高騰するバブル景気の局面が導かれた。  
 ちなみに、人々が貨幣の実質的価値でなく名目的価値に基いて経済的な意志決定をする貨幣錯覚という現象は、「貨幣の中立性」なる非現実な仮定に基づいた古典派経済学的な概念である。貨幣そのものがそれ自体には使用価値を持たない名目的な交換価値の表象であることからすれば、「錯覚」こそが貨幣経済本来の姿なのである。  
 従って、錯覚的バブル景気は貨幣経済の歴史には付き物であるが、日本の昭和/平成バブル景気が特異なのは、その急激さと極端さにおいてである。過熱する市況の中、法人企業は証券・不動産投資、海外投資、リゾート開発に狂奔し、個人も名目上の賃金上昇を背景に株式投機や海外旅行などの贅沢な余暇活動に走った。  
 政府もまた、折からの貿易摩擦解消のための内需拡大という対米公約実施のため、オイルショック以来の緊縮財政を転換し、積極的な公共投資の拡大に踏み切ったことから内需が刺激され、官製バブルのような現象も起きた。  
 こうした狂奔ぶりには、錯覚された好景気を共有する多幸症的な集団心理が強く働いた可能性もあり、その全容は理論経済学的な分析だけでは解明できず、行動経済学のような新しい行動科学的な経済理論の助けも必要かもしれない。  
 一方、見かけ上の饗宴の影で、地上げのような暗黒の顔を見せたのが、昭和/平成バブル好景気である。地価の異常高騰を背景に都市再開発のブームが起き、不動産会社から委託を受けた仕事人的な闇業者が暗躍し、借地人を暴力的に追い出す地上げは、生存権という基本権を侵害する最悪のバブル事象であった。  
 地価高騰は結果的に住宅の取得を困難にするが、同時に住宅高騰をも誘発し、住宅の購入がいっそう困難になるという形で、居住権全般が危機にさらされたことは、昭和/平成バブル景気時代の暗黒面と言えるであろう。  
 昭和/平成バブル景気は、平成初年の1989年12月29日に、日経株価平均が現時点でもいまだ破られていない38957円の最高値を記録した頃が絶頂期と言えた。より大きな目で見ても、昭和/平成バブル景気時代の日本は、戦後日本の貨幣経済史上絶頂期を画したと言えよう。  
 しかし、その影では規律を欠いた際限のない投機・投資ブームと銀行の放漫融資を招き、不良資産・債権の山が築かれ、バブルが始まったとされる1986年からバブル晩期の90年にかけて、法人企業は年平均約140兆円、家計も25兆円という空前規模で金融負債を蓄積していた。バブル景気は、砂上に高くそびえる楼閣だったのだ。

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貨幣経済史黒書(連載第26回)

2019-10-27 | 〆貨幣経済史黒書

File25:オイルショック

 資源史の観点から見ると、第二次世界大戦後は「石油の時代」と言える。当初、石油利権を独占していたのは、七つの石油開発多国籍資本であった。この寡占企業体による国際カルテル体制下で原油価格は安定し、石油の取引と供給は円滑に行なわれていた。
 石油資本寡占体制の恩恵を最も受けたのは、第二次大戦の戦禍からの復興とそれに続く高度経済成長の資源的土台として石油をフル活用した欧州や日本であった。他方、産油諸国はほとんどが新興の途上国であったが、かれらの分け前は利権の半分程度という状況で、経済開発の土台としては不充分であった。
 ところが、1950年代以降、中東で新たな油田が続々と発見・開発されると、石油の供給過剰が生じ、国際石油資本は原油公示価格の引下げを一方的に決定した。このような非対称・不平等な石油市場に対し、産油諸国の反発は高まり、1960年、産油諸国による利権防衛機構として石油輸出国機構(OPEC)が結成された。  
 OPECはさしあたって、国際石油資本との協議を通じて原油価格を有利に決定する権利を獲得したが、産油国はそれだけでは満足せず、石油掘削権の獲得から、さらに社会主義的な指向のもとに油田そのものの国有化へと向かい始めた。  
 こうした流れの渦中、1973年にイスラエル‐アラブ諸国間で第四次中東戦争が勃発した。これを機に、OPECはまず原油価格の70パーセント引き上げ、続いて減産と禁輸、さらなる130パーセントにも及ぶ第二弾の原油価格引き上げという連続措置を打ち出した。  
 これは経済情勢を考慮した対応というよりも、多分にしてイスラエル支持の欧米諸国への制裁という政治的意図に基づく政治的措置であった。ついに、石油は政治の道具と化したのであった。  
 こうして惹起された石油価格の暴騰と逼迫は、オイルショックと呼ばれる国際的なインフレーション危機を惹起した。とりわけ、日本では「狂乱物価」と評されるような異常なインフレーションへ向かった。  
 すなわち、1974年には消費者物価指数で上昇率23.2パーセントを記録するとともに、物資不足の風評によるトイレットペーパー等の買占め騒動という経済心理パニックまで付随した。戦後日本では初となるある種の恐慌現象であった。  
 日本の突出したインフレの要因がオイルショックによるものかどうかは経済専門家の間で論争されたが、いずれにせよ、マクロ的にも、日本はオイルショックを機に戦後初のマイナス成長を記録し、ニクソンショックと合わせ、奇跡とも評された戦後の高度経済成長を終焉させる画期点となったのである。  
 世界的に見ても、1970年代は、ニクソンショックによる「ブレトンウッズ体制」の終焉に加え、オイルショックがもたらした石油資本寡占体制の終焉は、戦後の相対的に安定した国際貨幣経済にとっての大きな分岐点であった。
 一方、OPEC諸国にとって、オイルショックはオイルチャンスとなり、これ以降、預金通貨の形で獲得された潤沢なオイルマネーを戦略的に投資し、遅ればせながらの高度経済成長を達成する契機となったのである。  
 ちなみに、1979年には自身OPEC原加盟国でもあるイランでの革命を機に、第二次オイルショックを惹起している。このように、オイルショック現象とは、人為的(政治的)な要因で引き起こされる現代的経済危機の中でも最もマイナス影響の強いものと言える。

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貨幣経済史黒書(連載第25回)

2019-10-20 | 〆貨幣経済史黒書

File24:ニクソンショック

 1929年世界大恐慌は、世界の主要国をブロック経済化の自己防衛に走らせ、結果として第二次世界大戦を惹起したが、その反省に基づき、終戦前の1944年、勝利を目前にした連合国は通貨金融会議を開催して戦後の新たな国際通貨秩序の構築を目指した。  
 会議の開催地であるアメリカ・ニューハンプシャー州ブレトンウッズにちなみ、「ブレトンウッズ体制」と呼ばれる新秩序は、アメリカドルを基軸通貨としつつ、金1オンス=35ドルという固定為替制度を通じて自由貿易を保障するという体制であった。
 こうした緩やかな管理通貨制度は、その国際実務機関として設立された国際通貨基金(IMF)及び世界銀行を通じて、世界経済の安定と敗戦諸国や新独立諸国の経済開発の局面で非常にうまく働いた。欧州や日本の戦後復興とそれに続く高度経済成長も、この体制の産物であった。  
 その点、第二次世界大戦後のおよそ四半世紀は、近代貨幣経済の短い幸せな時間だったと言える。実際、この期間には恐慌につながるような重大な金融危機は記録されていない。この安定期に終止符を打ったのが、1971年のいわゆるニクソンショックであった。
 時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンは、71年8月15日、突然声明を発し、金とドルの交換停止を軸とする8項目の新経済政策を提起した。金‐ドル交換停止以外の項目とは10%の輸入課徴金導入、物価・賃金の90日間凍結、設備投資免税の実施、7%の乗用車消費税の撤廃、所得税減税の繰上げ実施、47億ドルの歳出削減といった減税・緊縮策であった。  
 この一方的・恣意的な政策変更により、アメリカドルは信用失墜し、暴落した。ヨーロッパの主要為替市場は一週間閉鎖し、再開後も各国の為替相場は混乱した。これを機に主要国は固定相場制を離脱していったため、実質上「ブレトンウッズ体制」は崩壊したと受け止められた。  
 アメリカがこのような電撃的政策変更に出た背景としては、世界大戦に続く東西冷戦やその最悪の副産物でもあったベトナム戦争対応での軍備増強・戦費膨張により大幅な財政赤字を抱えて国際収支が悪化、大量のドルが海外に流出して金の準備量を超過した多額のドル紙幣の発行を余儀なくされ、金との交換を保証できなくなったことがあった。  
 要するに、「ブレトンウッズ体制」とは、多分にしてアメリカの好意によるアメリカドルの固定相場という恩恵によってもたらされた束の間の安定であって、アメリカが自国の事情によりこれを支えきれなくなった時、突如ピリオドを打たれたというわけである。  
 特に衝撃が大きかったのは、1ドル=360円という破格の恩恵的な固定相場で経済成長を支えてもらっていた日本である。ニクソンショックの主要な標的は日本であったとすら言われるゆえんである。日本はショック後の円の急騰を防ぐべく、慌てて大量ドル買いに出るが、8月末には断念してしまった。  
 ただ、ニクソンショックが「パニック(恐慌)」とならず、「ショック」で終わったのは、アメリカが71年末にドルの切り下げと各国の通貨調整を軸とする新たな「スミソニアン協定」を主導したためでもあるが、この暫定的な代替政策はパニックを防止したものの、通貨危機を誘発したため、73年には日本をはじめ、主要国は変動相場制に順次移行した。  
 これを正式に確認したのが、76年、ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会における「キングストン協定」である。以後、現在まで、変動相場制が続いているが、これにより為替相場の投機性が高まり、ひいては通貨・金融危機の頻発という事象が日常となる。  
 また、ニクソンショックは、主要国の政策という「見える手」が世界の貨幣経済を混乱させる人為的な経済危機という現代的な現象の先駆けでもあった。こうした人為的経済危機は、ニクソンショックに続くオイルショックでもより甚大な形で現れる。

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貨幣経済史黒書(連載第24回)

2019-10-06 | 〆貨幣経済史黒書

File23:「暗黒の木曜日」と証券詐欺

 1929年に始まる大恐慌を告げる合図となったのが、同年10月に発生したニューヨーク証券取引所における株価大暴落であったが、その始まりの始まりが同月24日の木曜日であったため、この日を象徴的に「暗黒の木曜日」と称するようになった。  
 実際には、翌25日をはさみ、休日明けの同月28日と29日に決定的な暴落が起きているので、「暗黒日」は計4日に及ぶと見てよい。こうした致命的連続発作のような前例を見ない市場の崩落は、大恐慌の直接要因ではないとしても、未曾有の大恐慌を象徴する異常現象であった。  
 1920年代は二つの戦間期アメリカにおける繁栄の時代であり、空前の投機ブームに沸いた。従来は富裕層の資産運用手段と考えられていた株式投資が、当時台頭していた小資産を持つ中産階級にまで広がり、小額の手持ち資金と信用買いで株式投資を展開していた。  
 実際、額面価格の三分の二を借り入れて投資するようなことが常態化し、そうした信用貸付資金の総額が流通貨幣総額を上回るという過熱現象を招来していた。こうなると、正常な投資を超えた射倖的投機である。その結果は、平均株価が右肩上がりで上昇を続ける株式バブル現象であった。  
 しかし、1929年9月に最高値を付けた後、下落の気配が見られたところ、空前の取引高を記録した10月24日に最初の暴落が起きた。バブルの崩壊現象であった。これに対して、証券各社は、優良株の大量買い注文によって対処するというマニュアル的対応を発動したが、効果はなかった。  
 従来の対処法が効かない株式崩壊現象を究明するため、アメリカ上院銀行通貨委員会は、敏腕検事フェルディナンド・ペコラを顧問に起用し、証券市場の集中的な調査を実施した。その結果、一般投資家の利益を損ねるインサイダー取引や不公正なディスカウントなどの詐欺的慣行が大々的に行なわれていたことが暴露された。  
 しかし当時のアメリカには、そうした証券詐欺を取り締まる法令が欠けていたため、アメリカ議会は新たに証券法や証券取引法を制定したうえ、証券市場の監督・取締機関として、証券取引委員会(Securities and Exchange Commission :SEC)を新設した。  
 SECの初代委員長に抜擢されたのは、ローズベルトの支持者でもあったジョセフ・P・ケネディ、後のジョン・F・ケネディ大統領の父である。実は、彼自身ウォール街の辣腕相場師としてインサイダー取引や相場操縦など数々の不正行為に関与して財産を築いていたため、この政治任命人事には批判や疑問も向けられたが、ローズベルト大統領は「泥棒を捕らえるには泥棒が必要」という“論理”で押し通したのだった。  
 真実は、ケネディがローズベルトの選挙運動で資金提供したことへのアメリカ的な論功行賞人事であったのだが、結果として、ケネディは株式取引の裏技的知識を活かして草創期SECの基礎固めの実績を上げ、地に落ちていた証券市場の信頼回復と投資家保護に寄与したのである。SECは以後、今日まで存続し、アメリカ証券市場の番人としての役割を果たしている。  
 とはいえ、証券市場ではその後も新手の証券詐欺が相次ぎ、不正とそれを塞ぐ新法の制定といういたちごっこが続いている。また戦後、労働者階級にまで拡大した投資ブームは、投資資金を詐取するようなより粗野な投資詐欺事件による大規模被害も続発する。

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貨幣経済史黒書(連載第23回)

2019-09-22 | 〆貨幣経済史黒書

File22:世界大恐慌

 1929年に始まる世界大恐慌は、90周年を経た現時点でも、貨幣経済の暗黒史の中で最大級の事象である。この出来事は19世紀以降膨張を続けてきた資本主義のある意味「集大成」とも言え、その影響範囲もまさに世界的規模に及んだ。  
 大恐慌の原因や経緯に関しては現在に至るまで経済学におけるメインテーマとして膨大な論考がなされているので、ここでは立ち入らないことにする。それに代えて、大恐慌が主要国に引き起こした状況を概観してみる。  
 まず「震源地」アメリカが地獄絵図となったことは言うまでもない。大恐慌のピークとみなされている1933年の時点で、GDPは繁栄の1920年代に比べほぼ半減、工業生産高は三分の一減、株価は80パーセントの大暴落、全銀行の業務停止という状況の中、失業者1千2百万人超(当時の総人口約1億2千万人)、失業率25パーセントという惨状であった。  
 しかも、時のフーバー共和党政権は、根拠のない楽観視により、自由放任経済の伝統政策に固執し、積極的な経済介入を控えたことで、恐慌からの早期脱出に失敗した。このことは、ローズヴェルト民主党政権への交代と、より介入主義的な「ニューディール政策」への歴史的な政策転換を促すこととなった。  
 アメリカと並んで大打撃を受けたのは、ドイツである。ドイツは第一次世界大戦の敗北で巨額の賠償金債務の負担にあえぐ中、アメリカ資本の進出によって戦後不況を克服しつつあったところ、大恐慌を機にアメリカ資本の引き上げが相次いだことで不況脱出は頓挫、銀行や企業の倒産が相次ぎ、失業率は40パーセントにも達した。  
 これに対し、時のワイマール体制ブリューニング政権がデフレ政策で臨んだことは逆効果的に経済危機を深め、立憲的なワイマール体制の崩壊につながった。代わって登場するのが、ヒトラー率いるナチス党である。  
 ナチスは、債務問題の大元であるベルサイユ条約への反抗を軸に、自立経済による雇用拡大や再軍備、さらに侵略による領土拡張といった膨張政策で大恐慌からの脱出を図り、一定の成功を収めたが、その代償は非人道的な暴政であった。  
 ドイツと対照的な道を行ったのが、イギリスである。イギリスは、恐慌を機に七つの海に広がる超大な植民地経営が行き詰まり、植民地の自治領化と新たなイギリス連邦の結成を軸に、ブロック経済化と金本位制離脱で対応しようとした。  
 金本位制からのイギリスの離脱はフランスにも遅効的に大恐慌の影響を波及させ、物価上昇や失業の増大、株式市場の崩落をもたらし、ドイツの再軍備への警戒から、ソ連に接近して仏ソ相互援助条約の締結という奇策に走らせた。  
 一方、日本では大恐慌に先行した昭和金融恐慌の処理に目途がついたところへの大恐慌の直撃となった。加えて、大恐慌渦中の1930年に実施した金輸出解禁策はデフレーションを招来するとともに、生糸の対米輸出の急減に伴う生糸価格の暴落を機に、農産物市場の崩落が起きた。そこへ東北地方の冷害という自然現象が追い打ちをかけ、農業恐慌に陥った。  
 これに対して、昭和金融恐慌以来、引き続き高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大策に加え、中国大陸への侵出と植民地の拡大という膨張に活路を見出して恐慌脱出に成功するも、ために抑圧的な軍部主導体制の成立という代償を伴った点は、ドイツの場合と類似している。  
 特筆すべきは―スターリンの恐怖政治という代償を伴いつつではあるが―、社会主義体制を採り、世界市場から退出して独自の計画経済による経済開発を進めていたソ連は当時の主要国で唯一大恐慌の余波を免れ、着実に工業生産高を伸ばしたことである。
 ソ連は貨幣経済そのものを廃止したわけではなかったが、計画経済によって投資管理を行ない、貨幣経済をコントロールすることが、恐慌に対する一定の防波堤となることは、ソ連史において恐慌という事象を経験しなかったことが実証している。

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貨幣経済史黒書(連載第22回)

2019-09-15 | 〆貨幣経済史黒書

File21:昭和金融恐慌

 1929年に始まる世界恐慌に先駆けて、日本では1927年から昭和金融恐慌が勃発した。通常は、世界恐慌の日本への余波たる恐慌―農村への打撃が深刻であった点から「昭和農業恐慌」とも―を併せて「昭和恐慌」と呼ばれることが多いが、ここでは、先行の金融恐慌を分離してとらえる。  
 というのも、金融恐慌は世界恐慌突入直前に日本経済特有の要因から発生したもので、明治維新以後の近代日本において、おそらくは初めて身をもって貨幣経済の恐怖を体験した本格的な資本主義的恐慌だったからである。  
 この時期の日本は、第一次世界大戦を機に生じた商品輸出の伸張に伴う好景気が5年ほど続いた間に工業生産が増大し、新興資本主義工業国家として台頭していた。それを支えたのは、極めて緩い規制のもとに続々と設立されていた商業銀行であった。  
 第一次大戦後には、法則どおり、大戦景気の反動としての戦後恐慌を経験したが、この時はさほどのパニックにはならなかったものの、不況遷延期に入っていた。そこへ、1923年の関東大震災という予期せぬ激甚災害が長期的な問題を惹起する。震災の影響で企業の振出手形が支払い不能となることを見越して、政府・日本銀行がモラトリアムや手形再割引といった予防策を採ったことが裏目に出たのである。  
 こうした資金の裏づけを欠く空手形に近い震災手形に加え、震災とは無関係の決済不能手形も混在して、大量の不良債権が発生した。政府はその処理のための緊急法案を策定して対処しようとしたが、これが折から定着しつつあった政党政治で政党間抗争の道具にされ、審議は円滑に進まなかった。  
 そうした中、当時の憲政会政権の片岡直温蔵相が国会答弁で公に発した「東京渡辺銀行破綻」という事実無根の失言が決定的な打撃を与える。東京渡辺銀行は明治初期の国立銀行条例に基づき、明治10年(1877年)に設立されたいわゆる国立銀行の一つであった第二十七銀行を前身とする民間銀行であり、大戦景気渦中の1920年に東京渡辺銀行に改称して以来、預金・融資額を飛躍的に拡大させていた。  
 実際、同行は1927年の時点では放漫経営により破綻寸前となっていたところ、他行からの緊急融資で持ちこたえていたため、蔵相の「破綻した」という完了形の発言は誤りであったのだが、これは大蔵省内での連絡の行き違いによるものであった。
 しかし、この蔵相答弁により東京渡辺銀行で取り付け騒ぎが発生し、休業に追い込まれた。一行での取り付け騒ぎは金融不安を呼び、他行にも連鎖するのが法則であるから、渡辺銀行に続き、関東から関西へと銀行の休業が相次いだため、日銀は非常貸出を余儀なくされた。  
 実際のところ、この時最大の危険要因は台湾銀行の経営危機にあった。台銀は植民地時代の台湾で設立された外地の特殊銀行であり、その業務は本来台湾での金融事業にあったところ、大戦景気で急激に業績を拡大した商社・鈴木商店への融資が膨張し、不良債権化していたのであった。  
 台銀の破綻は何としても避けたい政府であったが、日銀特融に日銀が難色を示したことから、台銀は破綻・休業に追い込まれた。これを機に、多行の連鎖破綻が続き、東京の有力銀行だった十五銀行の破綻に至って、昭和金融恐慌は頂点に達した。日銀自体、非常貸出の多発により紙幣在庫が枯渇するという非常事態に陥った。  
 こうした危機的状況を打開するために起用されたのが、高橋是清蔵相であった。高橋はモラトリアムと紙幣増発を柱とする緊急対策を打ち出し、恐慌を沈静化させた。結局のところ、昭和金融恐慌はその名のとおり、金融面の恐慌にとどまり、産業全体に及ぶ全面恐慌には進展せずに終わった。  
 とはいえ、この恐慌は、小資産保有者が増加し、銀行預金という経済習慣が育ち始めていた当時の日本において、中小市中銀行の連鎖破綻の恐怖を全国的に体感させる画期的な出来事であった。以後、預金は経営体力の強い財閥系大銀行に集中するようになり、銀行を中核とする財閥の形成を促進したことであった。

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貨幣経済史黒書(連載第21回)

2018-12-09 | 〆貨幣経済史黒書

File20:世界恐慌序曲―20世紀初頭のアメリカ恐慌

 19世紀末大不況が1893年恐慌というクライマックスをはさんでおおむね1896年頃にいったん収束してから、1929年のアメリカ発世界大恐慌の勃発に至るまで、およそ30年のスパンがあるが、この間、アメリカでは1929年の破局を予示する序曲となるような二つの恐慌が継起している。
 まず20世紀初年の1901年、同世紀最初のニューヨーク発恐慌が発生した。これは19世紀後半以来、アメリカ資本主義の高度成長を支えてきた鉄道事業を舞台としていた。すなわち、ユニオン・パシフィック鉄道とノーザン・パシフィック鉄道によるシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道の敵対的買収をめぐる株価暴落である。
 アメリカでは19世紀末大不況渦中の1890年、今日まで効力を維持している著名なシャーマン反トラスト法が制定され、独占禁止法制が導入されていたが、当時の成長基盤産業である鉄道業界への適用は甘く、鉄道トラストは常態化していた。
 そうした中、モルガン財閥をパトロンとするユニオン・パシフィック鉄道とロックフェラー財閥をパトロンとするノーザン・パシフィック鉄道が競争的にシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道の株式買収を図る中で展開された投機的な空売りが要因となって、ユニオン株の大規模な暴落が生じたのであった。
 これはこの時代における資本主義経済を特徴付けた「独占資本主義」を背景とする寡占化をめぐる攻防戦の中で起きた現象であったが、それ自体としては一時的な現象に終わった。とはいえ、その時点でのニューヨーク証取史上最大規模の突発的な市場暴落という点では、1929年を予示するような20世紀初年の経済事変であった。
 次いで1907年の恐慌である。これも敵対的買収を契機としたという点では、1901年恐慌と共通項がある。しかし今度は、ユナイテッド銅社という新興の鉱山会社を舞台とするものであった。すなわち、同社経営者の親族による買収工作が失敗に終わったのであった。
 それを契機にユナイテッド社株は暴落、買収を仲介していた証券会社の経営破綻に続き、ユナイテッド銅社経営者が関連する銀行や信託会社の連鎖破綻を招いた。特にこの時代、急速に発達していた信託会社の連鎖倒産危機は深刻であった。
 これに対して連邦政府は十分対応できず、1901年恐慌当時の黒幕だったモルガン財閥家長のジョン・モルガンが個人的に介入し、信託会社や閉鎖危機に直面したニューヨーク証取への市中銀行からの資金提供を仲介、危機をひとまず回避するありさまであった。
 この1907年恐慌は、ニューヨーク証取を舞台に証券会社や信託会社、銀行といった複雑化する金融界全体が破綻危機に立たされた点で、1929年を予示させるものであったが、この時は政府の介入よりもモルガンの他、巨額預金で銀行を救援したロックフェラーらの財閥の個人的協力でおさめるというアメリカ的対応策で破局を回避できたのである。
 しかし、1907年には恐慌発生前から景気後退が生じていた状況での突発的な恐慌であったから、経済への打撃は大きく、工業生産は落ち込み、企業倒産、失業率の増大といったこれまた1929年を予示するようなマイナス現象が生じた。
 救いは、この時の成果として、アメリカでは歴史的にタブーとされてきた中央銀行制度の設立を促したことであった。すなわち、連邦準備制度である。中央銀行ないしそれを象徴する名称でなく、「準備制度」の名称を用いた点、集権的な中央銀行ではなく、あくまでも危機対応機関であるという趣意が滲み出ているが、ひとまず恐慌期に市中銀行を救済するシステムは用意されたことになる。
 しかし、1901年及び1907年の両恐慌を通じて、恐慌の引き金となった不透明な証券取引を監督・規制する連邦法令やその執行機関を設立する動きは起きなかった。このことは、1929年の大恐慌を防止できなかったことの直接要因とまで言えないとしても、重要な背景要因となっただろう。

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貨幣経済史黒書(連載第20回)

2018-11-04 | 〆貨幣経済史黒書

File19:19世紀末大不況

 1873年欧米恐慌は、それまでの周期的な恐慌と異なり、いったん収束したように見えながら、余波が尾を引く形で世紀末にかけて長期的に遷延する大不況を引き起こす契機となった点で画期的であった。この大不況は、その内部に各国での局所的な恐慌を伴いつつ、1896‐97年頃まで20年近くにわたって続いたからである。
 なお、見方によっては、1929年の史上最も著名な「世界大恐慌」まで大きくスパンを取る解釈もあるが、第一次世界大戦をもまたぐこの理解はいささか拡大しすぎなきらいがあるので、ここでは「19世紀末大不況」と限局した把握にとどめる。
 このような大不況の要因となったことの中心に、1870年代に欧米各国が続々と導入した金本位制があった。反面、長く基軸通貨だった銀は浚渫・精錬技術の進歩によって増産されたが、同時に価格は低下した。しかし、西部に同鉱山を抱えるアメリカは政府に毎年銀購入を義務づける銀購入法が制定し、銀価格の維持を狙った。
 ところで、アメリカでは1873年恐慌が収束した後、1880年代に入ると欧州向け輸出が急伸した結果、とりわけフランスからの金の流出が増大し、フランス銀行の金準備高が急減する危機に見舞われる。1882年にはパリ証券取引所での暴落を契機にフランスは史上最悪の恐慌に突入し、その余波は10年にもわたり続き、「失われた10年」となった。
 しかし、1880年代は欧米主要資本主義諸国にとっては、いわゆる第二次産業革命による重工業化の伸張期でもあり、鉄鋼生産が倍増するなど経済成長を迎えていた。反面で、穀物価格の崩壊現象があり、これにより各国を保護貿易主義へ向かわせることになった。
 保護貿易主義は当時の国際貿易の中核を担った国際海運業の閉塞を招き、不況の遷延を促進する効果を持つと同時に、政治的にも貿易戦争の摩擦を引き起こしたのである。他方で、外債を利用した国際カルテルが盛んとなり、今日の多国籍企業の前身となるような国際独占企業体の形成が進み、20世紀に向けて独占資本主義体制が現れた。
 この間、アメリカは1873年恐慌を脱して1880年代から景気回復基調に入っていたが、長続きはせず、同年代半ばには企業利益の低下や頼みの鉄道敷設事業の停滞、耐久財の生産減などに直面していたところへ、1893年、再び恐慌が襲う。
 直接の契機は過剰な路線拡大を強行していたフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道の経営破綻であった。多くの鉄道会社の破綻が続き、西部を中心に企業15000社、銀行500行の破綻をもたらし、州によっては40パーセントにも達する失業率を結果した1893年恐慌は、この時点ではアメリカ史上最悪とも言えるものとなった。
 時のクリーブランド政権は前出銀購入法の廃止と金本位制の維持を明確にし、西部鉱山も閉鎖された。この間、南北戦争以降に形成されてきていた近代的な中産階級の多くが失業とローン破綻に直面することになった。このように中産階級のつましい生活を直撃するのも、以後の恐慌の特徴となる。
 もう一つ、この大不況はいくつかの新興国に波及したことが特徴である。中でも1850年代に自由主義政権の下で最初の経済成長を遂げたチリは、すでに1857年米欧恐慌の影響を経験していたが、19世紀末大不況の渦中では主産品である銅や米の価格下落で輸出が落ち込み、大量の正貨流出を招いた。さらに、ユーラシア大陸をまたぐ新興国として台頭してきた帝政ロシアも影響をこうむり、大不況の約20年間に三回の大きな景気後退に直面した。
 そうした中、統一間もないドイツだけは不況の中で公共投資を増大させ、工業需要を刺激することで工業生産高を倍増させた。ちなみに資本主義発祥国のイギリスでも1897年頃まで深刻な不況が続くが、その間、巧みな供給調整を実施して、生産効率を上昇させ、工業生産高を相当増大させることに成功しているが、それは労働搾取率の増加という影を伴うものであった。
 19世紀末大不況の特徴は、1870年代以前のように、突発的な恐慌の形態を取らず、エンゲルス言うところの「相対的に長くはっきりしない不況」という形態を取ったことである。このような特徴は貨幣経済が金融システムが国内的にも国際的にも複雑に入り組んでいく20世紀以降の近代的な不況現象の先取りだったとも言える。

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貨幣経済史黒書(連載第19回)

2018-11-03 | 〆貨幣経済史黒書

File18:1873年欧米恐慌

 1857年の米欧恐慌が一段落した後、1873年に恐慌が再発する。これも前回からは16年後、やはり忘れた頃の再発である。その影響は前回恐慌同様、やはり先発資本主義諸国に限局されてはいたが、前回がアメリカ発であったのに対し、今回は欧州発であった点が異なる。その意味では、1873年恐慌は「欧米恐慌」と呼ぶにふさわしかった。
 直接の引き金を引いたのは1873年5月、当時オーストリア帝国の帝都であったウィーンの証券取引所の崩壊である。意外な場所であるが、ウィーン証券取引所はマリア・テレジア女帝の治下でオーストリアが新興国として台頭していた1771年に設立された歴史ある取引所であった。
 このウィーン証取崩壊は最も初期における近代的証券バブル崩壊現象であり、その余波は当時工業化の一途にあったオーストリア国内にとどまらず、誕生したばかりの隣国ドイツ帝国にも及んだ。
 普仏戦争に勝利したドイツは、フランスからの多額の賠償金も元手に、好況に沸いていた。起業が相次ぎ、新銀行の設立、さらにはビスマルク政権による帝国統一通貨・金マルクの導入と金本位制への移行などを通じて近代ドイツの経済的基盤が作られようとしていた矢先の金融危機であった。ドイツにおける新規投機バブルはたちまちにして弾けた。
 他方、海を越えたアメリカでは南北戦争を経て連邦の統一が固まり、改めて鉄道敷設ブームの中、鉄道投資を中心に好況に沸いていた。この頃のアメリカでは、後の投資銀行制度につながる大口事業投資専門の個人銀行が隆盛化し、鉄道会社への投資熱を煽っていた。
 そのような個人投資銀行の一つ、ジェイ・クック銀行が1873年9月に破綻したのをきっかけに、同種銀行の破綻、さらにニューヨーク証券取引所の一時閉鎖という異常事態が続いた。
 これを合図に、当時アメリカにおける主要な労働セクターであった多数の鉄道会社の破産が相次ぎ、失業率が増大した。1877年に、45日間続いた鉄道労働者の一斉ストという民衆蜂起を招いた時、恐慌は政治的な意味合いをも帯びた。
 金融政策の面では、上述のように、ドイツのビスマルク政権が金マルクの導入により金本位制に移行し、銀貨廃止を決めたことを受け、アメリカでも事実上の金本位制への移行を画した貨幣鋳造法が制定されたため、国内の通過流通量が減少し、債務者に打撃を与えていた。このことも、アメリカにおける恐慌を助長した。
 ちなみに、南北戦争後に解放奴隷の生活資金援助を目的に設立されたフリードマン貯蓄銀行も、戦後の投資ブームの中で放漫融資に走り、1874年に経営破綻、貧困層の解放奴隷の黒人層も打撃を受けた。
 1873年恐慌の影響期間は欧米各国で多少異なりながらも、おおむね1879年から1880年代初頭までにはいったん収束を見る。しかし、この恐慌は従来のものとは異なり、単発的でなく、さらに世紀末にかけて向こう20年以上にわたり構造的な不況が持続する大不況を呼ぶことになる。その意味で、1873年恐慌は新たなエポックと言えた。

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貨幣経済史黒書(連載第18回)

2018-10-28 | 〆貨幣経済史黒書

File17:明治初期の貨幣禍

 明治維新はいわゆる鎖国政策のゆえに中世的な旧制が維持されていた諸制度の急速な刷新を導いたが、通貨制度の近代化もそうした急務の一つであった。当時の欧米通貨制度の基本スキームは金本位制であったから、明治政府としてもさしあたり金本位制を導入することが合理的と思われた。
 ところが、幕末開国期の通貨交渉の失敗によって相当量の金が海外流出し、金準備が不足していたこともあり、明治四年の新貨条例は、名目上金貨を本位貨幣としながらも、実質上は銀貨を本位貨幣とする銀本位制でしのぐしかなかった。同時に今日に至る通貨単位・円が採用され、一円銀貨が貿易取引専用通貨となった。
 これは、事実上の金銀複本位制という苦肉策であったが、市場での銀貨流通量が増加するとともに、銀価格の下落により金の海外流出がさらに亢進すると、実質上も金銀複本位制へと移行せざるを得なくなった。その間、新貨条例は幾度も改正を繰り返し、通貨制度はなかなか安定しなかった。
 こうして、不安定・不完全な形ながら近代的通貨制度の導入に向かった日本であったが、近代的通貨の流通場となる近代資本主義は未だ育っていなかった。加えて、政府自身も幕末から明治初頭にかけての財政難を解決する安易な便法として太政官札なる不換紙幣を濫発し、通貨の信用性を支える政府貨幣の信用性自体が低下していた。
 そうしたところへ、西南戦争の勃発が追い打ちをかける。政府は従来の士族反乱を越えた内戦の戦費調達のため、すでに弊害を露呈していた太政官札の増札という便法にまたしても走った。これにより当然にも、戦後、大規模なインフレーションに見舞われた。
 時の大蔵卿・大隈重信は、積極財政による外債の発行を通じて銀貨の市場供給を増やし、だぶついた太政官札を回収するというある意味では後年日本の財政政策の常套となる国債依存策による解決法を主張した。これに対し、大蔵大輔(次官)の松方正義は、緊縮財政でデフレーションを誘導してインフレーションを沈静するという真逆の提案をして上司の大隈と対立した。
 この大隈vs松方論争は、インフレーションが実体経済に見合っているのかどうかという経済分析の対立にあったのだが、大隈がいわゆる明治十四年の政変により地位を追われ、代わって松方が大蔵卿に就任したことで、政治的に決着させられることになった。
 松方は就任早々、自論を実行に移した。しばしば「松方財政」の名で知られる彼の政策は、民営化に政府予算の縮小や増税など、典型的な緊縮財政のアジェンダであった。従って、その結果も教科書どおりであった。最も打撃を受けたのは、当時の庶民階級の大多数を占めていた農民である。
 米を中心とする農産物価格の急落は、明治維新で農奴的な隷属状態から解放されたばかりの貧農の生活を直撃した。結果として、かれらは新たに小作人となるか、都市労働者となるかの選択を強いられた。この時代、都市の労働需要はまだ高くなかったため、多くは小作人を選び、戦前日本の農村経済を特徴付ける地主‐小作人制度が形成された。
 一方では、大地主階級の形成に加え、近代日本初の民営化政策とも言えるいわゆる官営工場払い下げによって政治と結びついた政商資本家層が強固に形成されて財閥企業を創立、ここに近代資本主義経済への道が開かれたのである。新支配層は、明治初期の貨幣禍を福と成したと言えるだろう。

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貨幣経済史黒書(連載第17回)

2018-10-21 | 〆貨幣経済史黒書

File16:幕末日本の通貨危機

 いわゆる鎖国時代の日本では、18世紀頃までに金を基軸通貨とし、銀は重量に応じて価値を定める秤量貨幣とする独自の通貨制度が確立されていたところ、19世紀の天保年代に入ると、幕府の慢性的財政難への対策として、額面が記された計数貨幣としての銀貨が発行されるようになった。
 この銀貨は一分銀(天保一分銀)と呼ばれるように、含有銀量が極めて小さな悪貨であったが、安易な出目収入を狙い、年貢増による財政再建の困難さを埋め合わせるため、名目貨幣として政策的に大量発行されるようになり、開国直前期の金銀比率が従前の1:10程度の相場から一気に1:5程度にまで銀高に転じていた。
 このような時期に米国の黒船外交により開国を強いられたのは、不幸であった。開国を機に米側は、米ドルと日本通貨の交換比率を有利に設定しようと狙っていたのだ。米側は金銀の同種同量交換を主張するが、幕府側は一分銀は名目貨幣であることを理由に、1ドル=1分の交換比率を主張した。しかし米側に押し切られ、1ドル=3分の交換比率で合意させられた。
 とはいえ、不慣れな外貨と邦貨の交換に不安を抱く幕府側は、国内でのドルの流通を許す代わりに、邦貨とは交換しないという新提案で食い下がるが、これも米側に押し切られ、通貨交換を一年限りとする代わりに、邦貨の国外持ち出しを認めるという条件で合意させられたのだった。
 しかし、これは罠にかかったも同然であった。実際、この条件により、外国商人は1ドル=3分銀貨を両替商に持ち込んで金の小判に両替したうえ、これを海外で地金として売却することで大きな利益を得ることができる仕組みであった。結果として、鎖国時代にはなかった金の流出という恐れていた事態を招くこととなった。
 この時、実際どれほどの金が流出したかについては、正確な経済統計を残す習慣を知らなかった時代の限界から、推計値には諸説あるが、最少推計でも10万両程度と言われる。ごく短期間での突発的な流出量としては無視できない値であり、幕府も憂慮したことは疑いない。 
 緊急対策上、幕府は銀貨を改鋳して実質的に1ドル=1分となるような新銀貨(安政二朱銀)を発行し、これを外国貿易限定で通用させるという策に出たが、米英からの抗議を受けてあえなく停止に追い込まれた。その後も、幕府は万延元年の遣米使節を通じ、なおも粘り強く通貨交渉を試みるも、米側の説得には失敗した。
 最終的に採られた苦肉策は、金貨の改悪であった。これが万延小判である。この策により、金銀比率は実質的に1:15程度の国際標準に近づいたことになるが、旧金貨が額面上三倍にもなることから、旧貨幣所持者が両替商に殺到する両替騒ぎをきたした。
 そればかりか、このような急激な改鋳は、それまで日本経済が経験したことのない物価の不安定な変動を伴うハイパーインフレーションを招き、庶民や下級武士層の生活を直撃した。
 その様子は、後に明治経済人となる渋沢栄一が「物価とみに騰貴し、一定の俸禄に衣食する士人は最も困難を蒙れり。此処において外夷は無用の奢侈品を移入して、我が日常生活の必需品を奪い、我を疲弊せしめて、遂に呑噬の志を逞しくするものなり、此の禍源を開けるは幕府なりと、天下をこぞりて罪を開港に帰し、ひたすら幕府と外人を嫉視するに至れり。」と記し、攘夷・倒幕運動の一因ともなったほどであった。
 省みれば、元禄時代の勘定奉行として貨幣改鋳を担った荻原重秀が西洋経済学を参照することなく到達していた信用貨幣論を発展させていれば、幕末通貨危機を防止・軽減することも可能だったやもしれないが、いわゆる鎖国政策は知の停滞を結果し、時代遅れの実物貨幣制度と近代的通貨制度との唐突の出会いが、深刻な通貨危機を引き起こしたのであった。

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貨幣経済史黒書(連載第16回)

2018-10-07 | 〆貨幣経済史黒書

File15:1857年米欧恐慌

 アメリカでは、1837年恐慌後の長期デフレ不況が1844年まで続いた後、1850年代は西部開拓の進展とともに好況に転じていた。しかし、「恐慌は忘れた頃に再発する」の法則どおり、前回恐慌からちょうど20年後の1857年に恐慌が再発した。
 直接の発端となったのが、オハイオ生命保険信託会社(以下、オハイオ生命と略す)という一金融機関の経営破綻であった点、およそ150年後のリーマン・ブラザーズ―奇しくも、当時はまだ雑貨商であった同社の創業も1850年代―の破綻を契機としたリーマン・ショックを先取りするような現代的な金融恐慌の初期の例でもあった。
 オハイオ生命はその名のとおり、オハイオ州を拠点とする保険及び信託会社であったが、そのニューヨーク支店を舞台に経営幹部による詐欺行為が発覚して閉鎖に追い込まれたのである。その情報が当時新興の通信技術であった電報により短時間で拡散し、投資家らのパニックを呼び起こしたという点で、情報の拡散が恐慌を助長した初例でもあった。
 オハイオ・ショックとは別に、鉄道バブルの崩壊という現象も重なった。1850年代のアメリカは西部開拓に合わせた鉄道敷設ブームが起きており、多くの銀行が鉄道に貸付出資をこぞって行なっていた。しかし、このような一点集中的投資ブームは常にバブルの危険を内包している。
 折りしも、クリミア戦争の終結により、戦時中アメリカからの農産品の輸入に依存していた欧州の農業生産力が回復し、アメリカ農産品の輸出鈍化、価格下落をきたしたことが、開拓途上の西部に不況をもたらしていた。
 地価の下落も続いた西部の不況は、鉄道会社の経営難と鉄道株の下落を呼んだ。経営基盤の弱い地域的な鉄道会社が林立するアメリカの鉄道業界の構造から、鉄道会社の連鎖倒産が相次いだ。銀行の取り付け騒ぎなど、後はお定まりのパニックである。
 当時のブキャナン政権はインフレ抑制のため、紙幣流通量を削減する策に出て、20ドル以下紙幣の使用を禁止したが、損失を蒙った個人の救済に関しては「救済しない改革」という標語で、アメリカ的な放置政策を選択したため、多くの個人が失業・破産に追い込まれた。
 1857年恐慌はその発端となったニューヨークをはじめとする北部で影響が大きく、南部にはさほど波及しないという形で、当時政治的にも奴隷制の存廃をめぐって対立し、戦争へ向かいつつあった南北の分断を促進するような間接的効果も伴っていた。
 同時に、この恐慌が特徴的なのは、しばしば「史上初の世界恐慌」ともみなされるように、アメリカの金融破綻・株価下落に始まって、海を越えイギリスやドイツ、フランスにも波及していったことである。
 とはいえ、少数の先発資本主義諸国が世界工業生産の五分の四を占めていた時代のこと、これを「世界恐慌」と呼ぶには「世界」はまだ一体化されておらず、正確には「米欧恐慌」と呼ぶのがふさわしいだろう。
 しかし、この先20世紀へ向けて資本主義のグローバル化が進展するのに伴い、真の世界恐慌への助走となったのが1857年恐慌であったと言える。その意味で、1857年米欧恐慌は、その後の恐慌の性質を転じるエポックとなる恐慌であった。

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貨幣経済史黒書(連載第15回)

2018-09-25 | 〆貨幣経済史黒書

File14:アメリカ1837年恐慌

 恐慌現象は短期間で頻発するということはないが、忘れた頃に再発する。アメリカ1819年恐慌の影響は1821年頃まで続いた後、収束したが、それからおよそ20年の歳月を経て、再び恐慌に見舞われる。1837年恐慌である。
 アメリカ経済は1830年代半ばに大きく成長していた。その間、土地や綿花、さらには依然残されていた奴隷の価格が上昇するインフレーションを来たした。これには18世紀後半に設立されたイギリスの新興財閥系ベアリング銀行からの積極的なアメリカ投資、特に信用貸しが大きな金融的支えとなっていた。
 1836年にはイギリスでも対米輸出の拡大から、再び周期的な過剰生産恐慌が発生しかけていた。そうした中、イングランド銀行が金利の引き上げを実施する。これは銀行の保有残高の減少に対応する貸し渋り政策であったが、恐慌を助長する効果を伴った。
 この当時の国際基軸通貨スターリング・ポンドを操作するイギリスによる不適切な金利引き上げ策は、依然としてイギリス経済に依存していたアメリカに直接の影響を及ぼした。ニューヨークの市中銀行による連動的な金利引き上げは、アメリカにおける恐慌再発の引き金を引く。同時に、アメリカの主要産品だった南部の綿花価格が急落した。こうしたことが、新たな恐慌を用意したのである。
 これに対して、先の1819年恐慌に学んでいなかったアメリカでは、恐慌への備えが不充分であった。そのうえ、恐慌勃発年の1837年はジャクソン大統領の二期目満了年に当たっており、このような政権移行期というタイミングも不運ではあった。
 恐慌直前まで8年続いたジャクソン政権は反中央集権主義のイデオロギーが強く、経済危機において金融対策の柱となる中央銀行にも否定的であり、第二次合衆国銀行の免許延長を阻止していた。このような金融的司令塔を欠く政策は、市中銀行の放漫融資を助長していた。
 またジャクソン政権は古典的な正貨主義を採用し、インフレ抑制策として1836年に正貨流通令を発していたため、政府の公有地取引は金貨または銀貨のみで行なわれるようになった。結果として、正金の流出現象が起き、銀行は預金残高の減少に直面し、貸し渋りを招く。
 ジャクソン大統領を継いだヴァン・ビューレン大統領も恐慌対策を十分に採ることはなかった。恐慌は彼の就任直後に始まり、その年のうちに全米に広がる。預金者による預金引き出しが殺到し、市中銀行の半数近くが閉鎖に追い込まれた。
 経済介入に否定的なアメリカ政府の無策もあり、1837年恐慌の余波は長く続き、1830年代末に恐慌が収束した後も、デフレーションを伴う不況が1844年まで続き、この間、企業の倒産、失業が増大した。
 恐慌とはパニックであるが、根拠の不確かな流言が飛び交う一般市民社会にも拡散される広汎な心理的パニック現象としての恐慌は、アメリカにおいても、また世界においても1837年恐慌が最初のものだったかもしれない。

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貨幣経済史黒書(連載第14回)

2018-09-24 | 〆貨幣経済史黒書

File13:アメリカ1819年恐慌

 前回見た1825年恐慌はナポレオン戦争終結後の移行期における経済変動という性格が強かったが、アメリカではそれに先立つこと数年、1819年に始まり、余波が2年ほど続く大きな金融恐慌を経験していた。1819年恐慌と呼ばれるこの恐慌はアメリカ史上初の平時金融恐慌であり、かつその後のアメリカにおける景気循環史の出発点ともなったとされる。
 この時期のアメリカは建国から30年を越えた転換点に当たり、アメリカ独立後もアメリカ干渉を続けるイギリスとの間の米英戦争―第二次独立戦争―が3年続いた後に終結した平時への移行期でもあった。このような画期点ではとかく経済混乱が起きやすいものだが、1819年恐慌はそのような転換期混乱現象の一つであった。
 恐慌の引き金を引いたのが米英戦争中に設立された第二次合衆国銀行である点で、イングランド銀行が同じ役割を担った1825年恐慌とも類似する点がある。第二次合衆国銀行は、1811年に設立認可が失効していた第一次合衆国銀行の後継として、1817年に設立されていたものである。
 しかし元来、反中央集権思想の強いアメリカでは中央銀行の設立にも否定的であり、第二次合衆国銀行も州認可にかかる市中銀行への監督権限が限られ、かつ合衆国銀行自体自体も支店ごと分権的に運営される状態であった。そうした状況下で、先住民から侵奪した西部領土への開拓資金の貸付を第二次合衆国銀行が強力に後押しした。
 このような西部開拓バブルは、早晩はじける運命にあった。1818年に発生した信用収縮が契機となり、翌年以降恐慌へと拡大していく。この時点で第二次合衆国銀行の貸付額が過剰化し、多額の負債を抱えていた。合衆国銀行自体の経営破綻危機である。
 他方で、ナポレオン戦争後、荒廃した欧州に対して綿花を中心としたアメリカ農産品の輸出が盛んになり、急激な生産拡大が起きていたところ、1817年に豊作に転じた欧州がアメリカからの輸入に依存する必要がなくなり、有望な輸出先を失ったアメリカ農業が打撃を受けた農業バブルの崩壊も、恐慌の契機となった。
 恐慌への対応として、合衆国銀行が貸し渋り、市中銀行は債務者への取立てを急ぐ貸しはがしに走るというお定まりの対策が打ち出されたことで、西部開拓者や南部農園主を中心に破産者が相次いだ。特に西部土地バブルに乗り、ローンにより公有地払い下げを受けていた西部開拓者の苦境は、公有地債務者救済法による集団的救済を必要とした。
 アメリカにおける近代恐慌の初例に位置づけられる1819年恐慌も、その要因は複雑で解明の困難なものであった。加えて、アメリカにおける恐慌は、州権が強力で、各州がそれぞれ独自の経済圏と経済財政政策を有する連邦国家アメリカ特有の複雑さを免れない。
 このような時、とかく単純化された解釈が横行しがちであり、恐慌要因を自由貿易に求め、保護貿易を要求する議論、反連邦主義から合衆国銀行に反対する議論も起きた。政治的には、西部出身のアンドリュー・ジャクソンが大統領に選出され、ジャクソニアン・デモクラシーと呼ばれる大衆煽動的なポピュリズム政治の原型を作り出すことにもつながっていった。

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貨幣経済史黒書(連載第13回)

2018-09-23 | 〆貨幣経済史黒書

File12:1825年恐慌―初の近代恐慌

 恐慌の歴史上、初の近代恐慌、そして以後、今日まで続く景気循環史の出発点となった恐慌は1825年恐慌であった。この恐慌は、他の欧米諸国が革命に明け暮れていた18世紀中に産業革命を終え、いち早く資本主義経済体制を始動させていたイギリスを基点に生起した。
 この恐慌は、教科書的な意味での過剰生産恐慌の初例として引用されることも多い。事実、その背景には、国内のみならず、ラテンアメリカ諸国への市場拡大に伴う全般的過剰生産という状況があった。けれども、この恐慌も、貨幣経済下特有の金融恐慌という性格を強く帯びていた。
 時は世紀の変わり目に欧州を揺るがせたナポレオン戦争の終結後、特需を生んだ戦時経済から平時経済への移行期に当たっており、イングランド銀行を中心に積極的な金融膨張政策が採られたことで、ラテンアメリカへの投機的投資や株式バブルが誘発されていたのであった。
 他方、18世紀末からイギリスでは銀行、特に地方銀行の設立ブームが起きていた。これら地銀は今日の資本主義経済体制下でも地場産業や小規模産業を金融的に支える不可欠の土台となっているが、地銀は産業革命期の投資ブームをも支えていた。しかし黎明期の地銀は規律も甘く、不良債権を生じやすい傾向にあった。
 証券市場の崩壊を契機に始まった1825年恐慌は、まずこれら銀行の破綻として表面化し、恐慌渦中でロンドンの都市銀行6行に地銀60行が経営破綻するという事態となったのである。当時まだ中央銀行として確立されていなかったイングランド銀行でさえ危うくなったが、フランス銀行からの緊急的な金の注入で辛くも救済されるありさまであった。
 恐慌の影響は銀行以外の一般産業界にも及び、特にナポレオン戦争当時の戦時政策として停止していた金本位制を復旧させたことでマネーサプライの収縮がもたらされたこと、経営危機に陥った銀行の貸し渋りが広がったことで、恐慌の年から翌年にかけ、ブームとなっていた出版業を中心に破産企業が増大した。
 かくして、1825年恐慌は初の近代的な恐慌として現象したわけであるが、こうした恐慌現象の常として、その発生要因は複雑で、精確な究明は困難である。そうした不可解さは銀行のような金融機関の発達により貨幣経済が複雑化し、しかも海外投資により海を越えた貨幣経済も常態化していく近代的貨幣経済の恐ろしさであり、まさしく恐慌と呼ばれるにふさわしい現象なのである。
 「神の見えざる手」ならぬ「人の見えざる手」が様々な投機的思惑を伴って複雑に絡み合う近代的資本主義経済体制の不透明さこそが、恐慌現象の真の恐怖である。
 ただ、19世紀前半のこの時期の国際経済はいまだ地球全域のグローバルなレベルには達していなかったことから、1825年恐慌の深刻な余波はドイツやオランダなどイギリス近隣に限局されており、世界恐慌と言える本格的なグローバル恐慌はさらに100年待つ必要があった。

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