ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

貨幣経済史黒書(連載第12回)

2018-05-20 | 〆貨幣経済史黒書

File11:建国期アメリカの金融恐慌

 貨幣経済において最も恐るべき事象は、その名も恐慌である。ブリタニカ百科事典によれば、恐慌とは「景気循環の好況局面における過大な設備投資が不況局面の出発点において設備過剰をもたらし、生産と消費の間に大きな不均衡が起り、商品の過剰生産が一般化して価格が暴落し、企業倒産や失業が大規模に発生して生産、雇用、所得が急激かつ大幅に減少する現象」と定義されている。
 しかし、このような典型的に定義づけられる生産恐慌も、貨幣経済下ではそれ単独というよりは金融恐慌に関連づけられて生起することが多い。こうした金融恐慌は、18世紀末に建国されたアメリカ合衆国では建国当初から継起する経済事象となった。アメリカの歴史とは、一面で恐慌の歴史と言っても過言でない。
 アメリカでは建国間もない1790年代から、二つの金融恐慌を相次いで経験した。当初より自由放任的な資本主義をイデオロギーとして建国されたアメリカは、先住民から侵奪した広大な土地を開拓しつつ、急速な殖産興業によって旧宗主・英国に猛追している状況にあった。
 最初の恐慌は1792年の3月から4月にかけて発生した。これは、設立されたばかりの合衆国銀行による規律を欠いた金融緩和と一部投資家たちによる債務証券や銀行株の高騰を狙った投機が招いたある種のバブル的な信用恐慌であった。こうした投資家たちの債務不履行を契機に、証券市場の暴落、銀行取付騒ぎが続いた。まさにパニックを起こした合衆国銀行による急激な金融引き締めも恐慌を促進した。
 幸いにも、この時は合衆国銀行産みの親でもある有能な初代財務長官アレクサンダー・ハミルトンが迅速に介入、市中銀行に多額の通貨を投入して証券を購入させる公開市場操作を行なって短期間で沈静化させることに成功した。
 今一つは、ハミルトン長官退任直後に起きたより深刻な96‐97年の信用恐慌である。これは直接には土地投機バブルの崩壊によって発生した。建国当初、西部を中心に広大な未開拓地を抱えるアメリカは土地投機の草刈場であり、まだ建設中だった首都ワシントンもその舞台となった。
 1796年に土地バブルの崩壊に伴う不動産市場の暴落が起きたのに続き、翌年には海を越えた英国銀行がナポレオンによる英国侵攻危機の中、硬貨払い停止措置を取ったことはアメリカの投資家の破産を促進し、アメリカに深刻なデフレーションを引き起こした。
 余波は世紀をまたいで1800年初頭まで続き、東部に形成されつつあった多くの企業の倒産が相次いだ。その影響は、零細商店主や賃金労働者にも及んだ。連邦議会は対策として、アメリカ史上初となる1800年連邦破産法を制定した。この法律により、破産者を投獄する習慣に代え、破産を民事的に処理する契機となったことは一つの前進ではあった。
 こうしたアメリカ建国当初の金融危機は自由放任経済の無規律さや反連邦的なイデオロギーによる中央銀行制度や統一的銀行システムの不備といった特殊アメリカ的要因に加え、危機管理的な金融政策の未発達―ハミルトンが垣間見せたとはいえ―という当時の時代状況も影響していたであろう。ともあれ、19世紀のアメリカは急速な経済成長の影で以後も数々の金融恐慌に見舞われることとなる。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第11回)

2018-04-22 | 〆貨幣経済史黒書

File10:元禄バブルと正徳デフレ

 日本の貨幣経済は江戸幕府が金銀銅の各貨幣を統一し、いわゆる三貨制度を確立したことで本格的に展開されるようになった。中でも当時世界最大級だった佐渡金山と石見銀山が貨幣素材を産出提供する幕府直轄鉱山として機能していたが、乱採掘により17世紀末の元禄時代には生産量が落ち込んでいた。
 他方、江戸時代前期の日本は有数の貴金属の輸出国として、貿易を通じて金銀銅が海外へ流出していた。幕府の「鎖国」政策の目的の一つは貿易を制限することで貴金属の大量流出を防ぐことにもあったが、それでも蟻の一穴と言うべき長崎貿易を通じて海外流出を止めることは難しかった。
 その結果、元禄時代には市中の貨幣流通量が限界に達する反面、国内貨幣経済の発展は貨幣需要を増大させ、そのギャップがデフレーションを招来しつつあった。皮肉にも、時の将軍・徳川綱吉による放漫財政がデフレ抑止効果を果たしたが、それは当然にも幕府の財政赤字を累積させていた。
 そのような微妙な転換期に幕府の財政政策を担う勘定奉行に抜擢されたのが、荻原重秀であった。小旗本出自の彼がこの地位に抜擢されたきっかけは、佐渡奉行として衰退しつつあった佐渡金山の生産力回復で実績を上げたことが大きかっただろう。
 荻原の貨幣政策は極めて単純で、貨幣量を増やす代わりに貨幣価値を切り下げるということに尽きる。すなわち、従来江戸貨幣の基準貨であった慶長金/銀を改悪して、元禄金/銀を鋳造したのである。引用の形で伝えられる荻原の名言「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」は、端的に彼のポリシーを言い表している。
 このように国の信用下に発行された貨幣ならば、瓦礫であってもよいとする信用貨幣論は現在でこそ常識だが、金銀銅の貨幣素材に価値を認める実物貨幣が(世界的にも)主流だった当代には、先駆的な意義を持っていた。
 このように悪貨によって貨幣価値を切り下げる政策は貨幣の実質流通量を増やし、インフレーションを招いた。その規模については史料の限界から評価は分かれるが、豪商が退蔵していた貨幣の価値が下落したことで、商人層は貯蓄から投資へと動き、貨幣支出が増えるバブル的好景気に沸くこととなった。
 元禄時代の華美な町人文化は、こうして政策的に作り出された政策バブルであった。それは幕府の財政難の軽減にもいっときつながったことで、こうした通貨リフレーション政策を高評価する向きもあるが、宝永の大地震とそれに続く富士山の大噴火という自然災害がすべてを打ち砕いた。
 荻原はまたしても貨幣改鋳で対応しようとし、いっそう質を落とした宝永金/銀を発行したが、今度は大幅なインフレーションによる景気悪化を招来することとなった。元禄バブルの崩壊である。荻原自身、銀座と癒着して独断で改鋳を行なっていたことも発覚し、新将軍・徳川家宜の下で台頭してきた新井白石の画策により解任に追い込まれたのである。
 白石は「悪貨は天災地変を招く」との儒教的な価値観から、一転して貨幣の質を慶長金/銀のレベルに戻した正徳金/銀を鋳造した。これはインフレーションの緊急的な抑制には寄与したと見られるが、市中の貨幣需要に対応できず、デフレーションによる景気低迷を招き、最終的には白石の失脚にもつながるのである。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第10回)

2018-04-08 | 〆貨幣経済史黒書

File9:ミシシッピ・バブル事件

 英国の南海バブル事件と同時期に並行する形で、海を越えたフランスでも同様のバブル事件が起きていた。バブルの舞台となった貿易会社ミシシッピ会社にちなんで「ミシシッピ・バブル」とも呼ばれるこの事象の発端と問題の金融スキームは南海バブルとよく似ている。
 異なるのは、フランスではジョン・ローという特定の人物が明確に主導したことである。ローは元賭博師のスコットランド人銀行家・経済理論家であり、ルイ14世の死去後、ルイ15世の治世初期の摂政オルレアン公フィリップ2世に招聘され、財政再建を委ねられたのである。
 ミシシッピ会社はフランスの北アメリカ領土と西インド諸島との貿易を独占する国策会社としてルイ14世時代の1684年に設立されていたが、14世時代のフランスは対外戦争と王の浪費癖により極度の財政赤字に陥っており、ミシシッピ会社も経営破綻寸前であった。
 ローが目を付けたのが、破綻寸前のミシシッピ会社であった。彼は1717年、これを西方会社と改称、北アメリカ・西インド諸島との25年間の貿易独占権を獲得したうえに、東インド会社などの既存貿易会社も合併したインド会社なる独占貿易会社へと急拡大したのである。
 従って、正確には「インド会社バブル」と呼ぶべきかもしれないが、インド会社の業務の中心がミシシッピ流域のルイジアナ植民地の開発・貿易事業―ミシシッピ計画―にあったことから、「ミシシッピ・バブル」の通称が与えられている。
 インド会社はローの肝いりで設立した王立銀行(現フランス銀行)まで傘下に入れ、短期間で一大総合企業グループに成長したのであるが、中核事業である貿易業務は振るわなかった。しかし、本質的に投機家であったローは巧みな宣伝活動によってインド会社株の購入を煽り立てたのであった。
 ローはインド会社株の新規発行を続け、株購入資金を傘下の王立銀行から貸し付ける信用取引を強力に推奨した。ローの見込みによれば、この信用取引を通じて政府の信用保証がある不換紙幣を増発し、政府債務(国債)をインド会社株式に転換すれば、財政赤字を解消できるというのだった。こ
 国債を株式に転換するスキーム自体は、先行の英国の南洋会社と同様であり、影響関係も想定される。違いは、このように王立銀行まで傘下に入れて信用取引を煽るというより投機性の強い博打的やり方にあった。しかし、それは信用性が低く市場価格が低迷していたフランス国債を高い額面価格でインド会社の株式に転換するという無謀な計画であった。
 当初はこの方法で政府の全債務をインド会社株式に転化することに成功し、政府は株主となった債権者に対して、利息配当の形で返済していった。この間、1719年には、インド会社株価は500リーブルから1万リーブルへと急騰する。この発行価格の数十倍という異常な株価高騰は、インド会社の業績には全く見合わないものであった
 1720年、ついに信用不安が発生し、パニックに陥った株主は所有株の一斉売却に走った。本位貨幣と交換できない不換紙幣もあだとなり、翌年、インド会社株は暴落、会社は経営破綻に追い込まれた。株主には信用取引の債務だけが残された。
 ローは解任された後、国外へ亡命し、貧困のうちに客死した。こうしてミシシッピ・バブルは終わったが、このバブルは実態の不確かな未開地開発計画も絡む一種の証券詐欺事件と見ることもでき、今日なら刑事事件として立件されることもあり得た国家的詐欺事件であろう。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第9回)

2018-04-08 | 〆貨幣経済史黒書

File8:南海バブル事件

 17世紀オランダの「チューリップ・バブル」はごく単純な商品投機バブルであったが、より複雑な国策金融会社が絡んだ大規模なバブル事件は、オランダの後を追い、金融大国にのし上がろうとしていた18世紀初頭の英国で発生した。
 南海会社という国策金融会社を舞台としたため、「南海泡沫事件」の名でも知られるこのバブル事件の発端は、当時の英国政府が財政赤字解決のために創始した巧妙な金融スキームにあった。それは、1711年に南アメリカ大陸方面との貿易を独占する勅許会社として設立された南海会社に国債を引き受けさせ、公的債務を整理するというものであった。
 折りしも、スペインとの戦争で有利に講和した1713年ユトレヒト条約に基づいて獲得した西インド諸島との奴隷貿易の権利(アシエント)を行使して南海会社の貿易事業が軌道に乗れば、債務整理のスキームも成功するはずだった。
 ところが、元来アシエントの割当が不足していたことや、従来からの海賊による密貿易の存続、さらには再びスペインとの関係が悪化し、四か国同盟戦争に突入したことなどの諸事情から南海会社の業績は不振であった。そこで1718年に富くじ発行という苦肉策に出たところこれが大当たりし、さらに翌年にはイングランド銀行との入札競争に勝ち、国債と南海会社株を交換する権利を得た。
 これは、英国債と南海会社株を等価交換することで、南海会社の増資を水増しし、南海会社株の株価を吊り上げていくという投機ゲーム的な危うい金融スキームによっていた。しかし、資本主義勃興期の当時、余剰資金の投資先を探していた中産階級にとっては、魅惑的な金融投資とみなされ、空前の南海会社投資ブームが発生した。
 実際、1720年には南海会社の株価は100ポンドから1000ポンドへと一挙に10倍に跳ね上がった。つられて、他の会社株も高騰、南海会社と同様のスキームを持つ無許可の投機目的会社も乱立され、市況は過熱状態になった。危機感を抱いた当局は、泡沫会社規制法を制定し、政策介入を試みた。
 こうした沈静化措置も影響して、20年末から21年にかけて南海会社株価は暴落した。バブルがはじけたのである。破産者や自殺者が続出する事態に、政府は調査に乗り出した。これを指揮したのが、英国の「初代首相」と目されているロバート・ウォルポールだった。
 調査の過程では、南海会社重役の不正や政治家の収賄の疑いも浮上したが、鍵を握ると見られる会社の会計主任が逃亡先ベルギーで拘束されたものの送還されず、うやむやに終わった。政界や王室まで巻き込む疑獄に発展しかねないことを恐れたウォルポールが真相究明より会計監査などの再発防止策を優先させたせいと見られている。
 南海会社の設立を主導したのはウォルポールの政敵でもあった時の大蔵卿ロバート・ハーレーだったが、彼は南海会社の金融投機スキームが本格的に始動する前の14年には失脚・解任され、バブルがはじけた時には引退しており、直接の責任を問われることはなかった。
 南海バブル事件は証券取引所と証券監督行政が未整備だった近世の事件であるが、自らも投資し大損したアイザック・ニュートンの「天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった」という反省の弁に見られる株式取引の投機性という本質自体は今も変わらない。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第8回)

2018-03-11 | 〆貨幣経済史黒書

File7:チューリップ・バブル事件

 貨幣経済は商取引を活発にするとともに、投機熱をも刺激する。もっとも、短期的な価格変動を見込んで利ざや稼ぎをする投機という経済行為の歴史は貨幣経済よりも古いようで、遊興としての賭け事と共通の根を持つ人類的慣習なのかもしれない。
 その点、貨幣経済下の商取引にあっては、物の価値が貨幣によって数量的に表象され、短期間で上下変動しやすいことから、投機のギャンブル性が高まり、人間の射幸心を刺激するのであろう。
 そうした投機熱がもたらした史上初のバブル経済とされる事象として、17世紀のオランダ(当時の国名ネーデルラント;現在のベルギーの一部にまたがる共和国であったが、本稿では便宜上オランダという)に起きたチューリップ・バブルがある。
 チューリップは元来、アナトリア地方原産の球根植物であり、欧州にはオスマン帝国からオーストリア帝国への贈呈品として16世紀半ばにもたらされたものが広がり、特にライデン大学植物園で量産栽培に成功したことからオランダで急速に人気を呼ぶようになった。
 問題はそれが愛好家の観賞で終わらなかったことである。オランダのような寒冷気候ではチューリップの開花期は4月‐5月期であるが、球根植物としての利点を生かして休眠期にも球根の現物取引が可能であるほか、先物取引の対象にもしやすい。
 そうしたことから、チューリップ取引は当時の金融先進地でもあったオランダでたちまち投機ブームを引き起こした。オランダは先物市場のパイオニアであったとはいえ、当時は商品取引所も取引ルールも未整備であり、現物が存在しない状態での取引はまさに投機的な空売りであった。
 危険性を察知した当局は空売り禁止令をたびたび発したが、取引所が整備されず、居酒屋などでの投機者の相対取引によっていたため、規制は行き届かなかった。ギャンブル性は増し、正常な現物取引では商品にならない傷み物にまで高値がつくような事態となった。
 球根価格は1636年から急騰した。ところが翌37年、価格は突如暴落する。このわずか一年での急騰暴落の要因とその結果に関しては17世紀という時代柄、データ史料の限界もあり、定説を見ない。
 特に結果に関しては、従来、庶民を含む多くの投機者が一瞬で財産を失い、オランダ経済に大打撃を与えた記録に残る史上初のバブル経済と評されてきたところ、今日の研究によれば、実際に球根先物取引に参加していたのは富裕な商人や職人など限られた中間階層であり、経済全体に及ぼした影響は過大評価できないとされる。
 そのように参入者限定の投機事象だったとするなら、それはそれとして、今日でも一部の個人的投機者の間で発生する信用取引や先物取引における価格暴落事象の先駆けと言えることになるかもしれない。
 また突然の値崩れの要因として、当時のオランダ議会が先物取引の買い手の購入義務を免除し、売り手に対し売買代金の一部支払い義務のみを負わせる規則改正を行なったことで、取引停止に陥った点にも注目されている。こうした政策変更が要因とすれば、それは議会の介入という人為的な要因がもたらした市場の反応だったとも言える。
 こうして、「チューリップ・バブル」は、実は真のバブル事象ではなかったかもしれない可能性が残るわけだが、そうだとしても、この事象は貨幣経済が本質的に持つ投機性の恐怖を17世紀という近代への入り口となる時代に先取りした事例と言えるであろう。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第7回)

2018-02-04 | 〆貨幣経済史黒書

File6:中世日本の徳政一揆

 現代では貨幣経済が津々浦々に定着し、絶対化している日本社会であるが、歴史的に見ると、日本における貨幣経済の普及は遅々としていた。現時点で最古の鋳造貨幣は7世紀代に遡る銀銭であるが、都市部の商人を中心に貨幣経済が普及するのは平安時代末、日宋貿易を通じて宋銭が大量流入したことが貨幣経済を浸透させる推進力となった。
 貨幣経済が浸透した社会で最初に発達するのが金融業である点は、日本でも同様である。当初は寺社関係者や富裕な商人などが余剰資金を無担保で融資する寛大な原初的貸金業―借上―が主流であったが、当然ながら焦げ付きリスクの大きな無担保融資は商業としての持続性に欠けるため、担保を取るより本格的な貸金業者が出現する。
 業者が担保物を保管する土蔵から、土倉と呼ばれるようになったこれらの貸金業者が本格的にその政治経済的な権勢を持つようになるのは、室町時代からである。土倉の財力に目を付けた幕府は土倉への課税を主要財源とし、土倉の有力者を一種の徴税請負人である納銭方に任じて徴税を行なわせた。
 土倉は一般の商人と同様に同業者組合である座(土倉方一衆)を形成して、業界利益を保持したが、幕府の財源を担うに至った土倉層は幕府と強く結びつき、その政策にも影響力を持った点で特筆すべき地位にあった。そのため、幕府の利息制限法令も効果を発揮せず、高利貸が横行した。
 土倉は幕府膝元の京都をはじめとする自治都市でも有力な町衆として市政を掌握するようになるが、中世イタリアのメディチ家のように政治的支配力まで擁する突出した金融資本一族が出現することはなく、土倉を兼業する例が多かった酒屋と並び、集団的な権勢を持つにとどまった。とはいえ、土倉の客層は上は荘園領主から下は農民まで、あらゆる階層に及び、土倉は債権者として優位に立った。
 こうした土倉資本に対する民衆の反感が爆発したのが、15世紀代に頻発した徳政一揆であった。中でも代表的な嘉吉の徳政一揆で、馬借や農民、地侍で構成された一揆勢が農民のみならず、公家・武家を含む一国平均での徳政令の施行を要求したことにも、階級を越えた土倉資本への反感が反映されている。
 この一揆では、鎮圧を命じた時の管領細川持之が土倉から多額の収賄をしていた事実が発覚し、反発した守護大名らが鎮圧への協力を拒否するという一幕もあり、金融資本と政治権力の結託構図も露呈されたのである。
 徳政一揆は、1428年の正長の徳政一揆が記録される限り最初のものであるが、興福寺の僧で、史家でもあった大乗院尋尊が正長の徳政一揆を評して「日本国開闢以来,土民蜂起これ初めなり」と記したように、金融資本に対して決起する徳政一揆が日本における民衆蜂起の最初の形態でもあったことは注目に値する。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第6回)

2018-01-14 | 〆貨幣経済史黒書

File5:メディチ銀行の破綻

 近代的な銀行の原型となったのは両替商であるが、とりわけ今日銀行を意味する「バンク」の語源を成す「バンカ」(banca)は、フィレンツェの両替商が業務に使用した机のことを指したとされるほど、銀行と両替商との歴史的な関わりは深い。中でもまさに中世フィレンツェは両替商が政治的にも支配的な金融都市国家であった。
 その頂点を成したのがメディチ家である。メディチ家の起源は欧州系名族の中でもとりわけ不詳な点が多く、医師を意味する家名と商業で成功した事績に照らせば、元来は医師を兼ねた薬売りだったと推測される。実際のところ、メディチ家は銀行業を開始する以前、様々な商品を扱う多角化商法で富を築いていた。そうした蓄積を元手に両替商に転じて大成功を収める。
 メディチ家の台頭過程そのものはここでの論外であるので、先を進めると、14世紀に銀行家として確立したメディチ家は、フィレンツェの都市政治をも支配するようになる。中世イタリアには強力な君主が存在せず、諸都市ごとに寡頭制的な民主主義が行なわれていたことも好都合であった。
 メディチ家は自派が多数派を占めるよう選挙過程を操作して市会を牛耳り、ギリシャ風の僭主として正式の公職に就かないまま市政を専制支配する体制を作り上げたのであった。その全盛期は15世紀後半に出たロレンツォの時代である。
 ロレンツォはルネサンス芸術のパトロンとして壮大な文化事業で知られ、フィレンツェは当代随一の文化都市として名を残すも、その内情はメディチ家独裁の暗黒政治であり、反対派は容赦なく弾圧された。同時に「大ロレンツォ」の通称で称えられる彼の時代こそ、メディチ銀行が破綻危機に瀕した時代であった。
 メディチ家では当主が実質的な職業政治家に転じる中、本業の銀行は支配人任せとなっていた。すでに銀行はイタリア主要都市から、ロンドン・リヨン・ジュネーヴ・ブルッヘなど外国主要都市にも支店網を拡大し、欧州随一のメガバンクに成長していたが、情報管理システムが致命的に不備な時代、こうした広域での業務拡大は各支店支配人の専横を招きがちであった。
 破綻はまずリヨンとロンドン支店に始まり、ブルッヘ支店にも及ぶ。さらに「大ロレンツォ」の文化事業は企業メセナの先駆けの側面も認められる一方、度を越せば銀行にとって浪費以外の何物でもなかった。
 ロレンツォは都市の公金を横領・私物化するクレプトクラシー(泥棒政治)にも手を付け始めた。銀行の不良債権も巨額に上ったが、ロレンツォとその早世後、彼を若くして継いだ息子ピエロの代になると、当主にはもはや銀行家として経営再建する才覚は備わっていなかった。
 政治家としては手腕を持っていた父とは異なり、ピエロは「愚か者ピエロ」という不名誉な渾名を付せられるほど、政治家としても手腕に欠け、人望もなかった。結局、彼はフランス軍の侵攻を許した不手際によりフィレンツェを追われ、流浪中に溺死して果てた。家業メディチ銀行もピエロとともに破綻し、銀行家メディチ家支配のフィレンツェは終焉する。
 その後、生き残りに長けたメディチ家は傍系一族によって再興され、フィレンツェを都とするトスカナ大公国を建設するが、これはもはや銀行家メディチ家の支配ではなく、貴族メディチ家の支配であり、金融支配力という担保はなかった。 
 銀行家メディチ家支配下のフィレンツェは金融資本による直接的な支配という点では、金融資本が巨大化した現代でも類例を見ない独異な事例であるが、それは銀行の盛衰と運命を共にする寡頭的専制政治であった。金融資本の政治的影響力が増す状況なら、現代でもあり得る先例である。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第5回)

2017-12-24 | 〆貨幣経済史黒書

File4:モンゴル帝国と紙幣インフレーション

 現代の貨幣経済においては主軸的なアイテムとなっている紙幣を世界史上初めて通貨として確立したのはモンゴル帝国であった。もっとも、厳密に言えば史上初めて紙幣を発明したのはモンゴルが最終的に打倒した漢族系の宋王朝であった。
 宋は銅貨の素材となる銅不足から、中国で従来手形として使用されてきた交子と呼ばれる書面を貨幣として使用する政策を導入した。ただし、宋時代の交子は主として四川地方の地域通貨として、かつ鉄貨との兌換という場所及び目的が限定された通貨として機能したにとどまる。
 これに対し、宋を駆逐して12世紀から13世紀にかけて華北を支配した女真族系の金王朝は、支配領域とした華北で銅が不足していたことから、交子制度を参考にする形で新たに紙幣を発行し、交鈔と命名したのであった。
 続いて、金及び宋を打倒して中国全土に及ぶ元王朝を樹立したモンゴル帝国は、金王朝の諸制度の多くを継承し、その一環として交鈔制度も継承した。中でも2代ハーンのオゴデイに使えた契丹人出自の高級官僚・耶律楚材が交鈔制度の確立に寄与した。
 紙幣は鋳造貨幣に比べて製造が簡単であることから、当然にも濫発されやすいという欠陥を抱えている。実際、金王朝の交鈔も増発によるインフレーションが王朝衰退の一因となったほどであった。そうした先例を踏まえ、耶律楚材は発行限度を厳しく制限し、財政規律に留意したのであった。
 元の交鈔は帝国全盛期を築いたクビライ・ハーンの時に正式に統一通貨として確立されたが、当時の交鈔は銅貨の代替貨幣という位置づけであり、鋳造貨幣から独立した貨幣ではないなど、現代の紙幣とは異なる幼稚性も残されていた。
 そのうえ中国全土を支配し、かつベトナムや日本にまで遠征をしかけるようになると、当然政府支出は膨張し、耶律楚材の財政規律策は反故にされるようなった。クビライの時代以降、交鈔の発行額は右肩上がりとなり、塩の専売特許をも財源とするべく、塩との引換券の機能も追加されるなど、交鈔は量・質両面で膨張した。
 結果、交鈔インフレーションが亢進し、定在化するようになる。そこで7代カイシャンは新紙幣として至大銀鈔を発行して通貨切り下げによる劇薬的なインフレ対策を断行するが、かえって経済混乱を招いた。その後も、元朝末期にかけて、交鈔は改廃を繰り返し、混乱に拍車をかけた。
 ちなみに、イランに本拠を置いたモンゴルの派生王朝であるイルハン朝でも、2代君主ゲイハトゥがクビライ側近にして使者として派遣されてきたモンゴル貴族プーラードの献策により、西アジアでは初となる紙幣・チャーウ(鈔)を導入するも、財政規律を無視したため、たちまちハイパー・インフレを引き起こし、わずか二か月で廃止という大失態を演じた。
 本家の元王朝でも、実質的に最後の元皇帝となった15代トゴン・テムルの時代に交鈔は廃止され、再び銅貨に一本化されたのである。こうして、貨幣史上においては画期的な発明であった紙幣はいったん歴史から姿を消す。
 モンゴル帝国の紙幣インフレは財政規律の欠如とともに、政府から独立に通貨調整を行なう中央銀行の制度を知らなかったことにもよるが、その点、同時代にはまだ紙幣制度を知らなかった西欧においてずっと後に発祥する中央銀行は紙幣制度のより洗練された運用に資することになるであろう。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第4回)

2017-12-03 | 〆貨幣経済史黒書

File3:古代ローマ/中国の悪貨インフレーション

 貨幣経済が暮らしにもたらす悪影響の中でも、物価の上昇を伴うインフレーションは特に暮らしを直撃する悪弊であるが、大規模なインフレーションは東西二大帝国であるところのローマと中国で最初に経験されている。
 古代ローマは貨幣制度に関しても先行のギリシャのそれを踏襲し、紀元前211年から鋳造開始されたデナリウス銀貨が広く定着した。また、マルクスがやや誇張的に「貨幣制度は元来ローマ帝国で、ただ軍隊の中で完全に発達していたに過ぎない」と述べたとおり、古代ローマは兵士の給与を貨幣で支給する給与制の先駆けでもあった。
 しかし、純度の高い統一通貨を鋳造する能力の欠如ゆえに金銀複本位制を採用したことに加え、帝国の拡大に伴う支出増からもデナリウス銀貨の純度は低下の一途をたどり、悪貨の増大による貨幣インフレーションが定在化した。
 そこで、カラカラ帝は215年、デナリウス貨の二倍相当の価値を持つアントニニアヌス貨を導入したが、これはデナリウスよりいっそう銀保有量の少ない低質貨幣であり、最終的にはほとんど青銅貨となっていった。悪貨増大によるインフレは止まらず、ディオクレティアヌス帝は往年のデナリウス銀貨と同等の銀保有量を持つアルゲンテウス貨幣を導入した。
 さらに、帝はインフレ抑制のため、財やサービスの上限価格を法定する最高価格勅令を発し、物価統制を図ったが、市場経済において物価統制を貫徹することは不可能であり、この政策も失敗に終わった。こうして、インフレーションはローマ経済の恒常的な特質となり、その内部からの衰退を促進した。
 一方、古代中国では秦による統一に際して度量衡も統一され、半両銭と呼ばれる銅銭が統一通貨となった。しかし、より持続的な統一通貨は前漢の武帝が紀元前118年に発行した五銖銭である。この通貨自体は後漢の時代を越えて唐代初期に廃止されるまで幾度かの中断をはさんで発行が継続された息の長い通貨であった。
 しかし、ローマと同様、純度の高い統一通貨を鋳造する能力の欠如から悪貨が流通し、インフレーションを招いた。ことに、後漢末、実権を掌握した軍人の董卓は五銖銭を董卓小銭と呼ばれる質の悪い硬貨に改鋳し、深刻なインフレーションを引き起こした。
 その後、魏晋南北朝時代に五銖銭の発行が再開されても、銅不足から布帛、穀物、塩、さらには鉄片、革、紙までもが物品貨幣として使用される原初的貨幣経済が並存し、混乱を招いたことが、唐以前の中国経済の特徴となった。
 こうした古代ローマ/中国における悪貨インフレーション自体は、当代随一の帝国といえども純度の高い貨幣鋳造能力が欠如していた時代の産物であり、やがて中国に発祥する紙幣の発明により、一つの区切りがつけられる。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第3回)

2017-11-19 | 〆貨幣経済史黒書

File2:ギリシャ・ポリスの貨幣禍

 小アジアのリュディアが創始した鋳造貨幣の利点をすぐに理解したのは、地理的にもリュディアに近いエーゲ海域で都市国家ポリスを営むようになっていたギリシャ人であった。ギリシャで最初に鋳造貨幣(銀貨)の製造を始めたのは、ペロポネソス半島東北部のアルゴリスとされる。
 次いで、金鉱があったと見られるエーゲ海最北部のタッソスで金貨の鋳造が始まり、紀元前6世紀を通じて、ギリシャ世界全域での硬貨の使用慣習が定着したと見られる。しかし、統一通貨は定まらず、ポリスごとに通貨が異なったため、両替商が発達する。
 この原初両替商は、今日で言えば異なる通貨間の国際為替制度の萌芽であると同時に、預託された資金を貸し付け、利息を稼ぐ銀行業の萌芽でもあった。ここから、債権者と債務者の分裂が生じた。当時、債務者は奴隷に落とされる悲惨な境遇であった。アテナイの改革者ソロンが債務帳消しの徳政令と債務奴隷の禁止を打ち出したことには大きな意味があった。
 一方、地中海世界有数の銀山ラウリオンを擁したアテナイは、採掘を過酷な奴隷労役に委ねつつ、銀貨の鋳造を積極的に行なった。結果として、アテナイでは貨幣経済が行き渡るようになり、ギリシャ世界随一の商業都市として台頭する。アテナイは、民会参加資格を有する市民階級に銀貨を支給するという現代のベーシック・インカムに相当するような制度を導入するだけの財力を誇った。
 良いこと尽くしのように見えるが、貨幣経済の浸透・定着は、その裏に貧富差の拡大現象を伴っていた。その点、アテナイのライバルであったスパルタでは土地と参政権を持つ市民間は完全平等が本旨とされ、貧富差を生じさせないため、商工業は参政権を持たない二級の劣等市民にすべて委ねるとともに、上層市民には国内での貨幣の使用も禁じるなど、一種の共産主義も取り入れていた。
 しかし、ペロポネソス戦争後、スパルタにも貨幣経済が浸透し、没落する上層市民も急増する。元来商業的なアテナイでは市民間での貧富格差の拡大により、政治の実権は次第に富裕な商工業者などの手に移り、ある種のブルジョワ寡頭政の傾向を強めていった。
 こうして、市民間での貧富格差の拡大は、共同体的結束が命であったポリスの一体性を弱め、個人主義的風潮を生み出した。まだ資本主義と呼ばれる経済システムの登場ははるか遠い未来のことではあったが、貨幣経済の発達が共同体を解体し、人々を孤人化していく傾向的法則は、古代ギリシャ世界において早くも予示されていたと言えるのである。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第2回)

2017-10-29 | 〆貨幣経済史黒書

File1:リュディア貨幣王国の運命

 経済学上、貨幣は機能別に理解されており、①支払②価値尺度③蓄蔵④交換手段のいずれか一つの機能を有する共通物であれば、貨幣とみなす。このような特定の目的のみを有する貨幣は先史時代からあったとされるが、四つの機能すべてを備え、かつ貨幣による取引が社会的な慣習化する貨幣経済となると、歴史時代の産物である。そのため、貨幣経済は文明の証とみなされやすい。
 貨幣経済が開始されるためには、貨幣の統一的かつ反復的・大量的な鋳造が必要要件である。そのような鋳造貨幣のシステムを最初に発明したのは、アナトリア半島に所在したリュディア王国と目されている。リュディアはアナトリアの古代帝国ヒッタイトが滅亡した後に出現した都市国家群の一つに始まり、紀元前12世紀から同6世紀半ばまで続いた国である。
 比較的長期間存続したわけだが、リュディアを特に有名にしたのは、晩期の紀元前7世紀に発明した現時点で世界最古と目される鋳造貨幣であった。ギリシャ語で琥珀を意味するエレクトロンと呼ばれる貨幣がそれである。この国でなぜ鋳造貨幣が誕生したと言えば、まずその原料となる砂金の産地であったこと、その都であったサルディス(現トルコ領サルト)は東西交易ルートの要衝であり、国際商取引が極めて活発であり、取引の安全・敏速の要請が強かったことにある。
 当初は砂金をそのまま価値尺度として用いたが、より敏速な計算を可能とするべく、溶解加工して重量を均一化した硬貨という物品が改めて発明されたと見られる。リュディアの貨幣は紀元前6世紀半ばに出たクロイソス王の通貨改革によって、金貨と銀貨に整理統一され、国家が保証する国定通貨制度が初めて導入された。
 クロイソス王は、個人としても当時世界一の富豪となった。これは、硬貨の発明により貨幣の蓄蔵機能が最大限に発揮された最初の例もある。半ば伝説であるが、同時代ギリシャのアテナイの政治改革家ソロンと謁見した際、最も幸福なのは富豪の自分であると自慢し、ソロンから金より価値の高いものもあると反駁されたという。
 富者の代名詞にもなったクロイソスは世界で初めて貨幣の蓄蔵に至福を見出す貨幣愛を実践した人物であったかもしれない。彼の貨幣への信念は、ギリシャ人でないにもかかわらず、ギリシャの聖地デルポイ神殿に高価な奉納を捧げ、当時東に興隆していたペルシャと戦う上での同盟国の伺いを立てた事にも現れている。おそらくデルポイの巫女を買収しようとしたのだろう。
 ところが、彼は神託の解釈を取り違え、同盟国をスパルタと誤解してしまった。結果、ギリシャ諸都市を次々攻略して帝国化の兆しを見せていたリュディアはペルシャとの戦争に敗れ、クロイソスは捕虜となり、リュディアはペルシャに併合されてしまうのである。クロイソスはペルシャのキュロス2世によって恩赦され、処刑は免れたが、世界一の富豪王はあえなく転落したのであった。
 陥落した王都サルディスがペルシャ軍に略奪蹂躙されても「我が財産でないから構わぬ」と無関心だったというエピソードもあるクロイソスは、世界初の利己主義的な私有財産家でもあったかもしれない。こうして、世界で初めて鋳造貨幣を発明した栄誉ある国は、為政者としては無責任な金満王のために、発明から一世紀ほどで滅びてしまったのである。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第1回)

2017-10-22 | 〆貨幣経済史黒書

前言

 筆者は、メイン連載『共産論』をはじめ、共産主義的計画経済の仕組みをより詳説した『持続可能的計画経済論』などを通じて、貨幣経済によらない経済システムの可能性を提唱してきたところであるが、おそらくこの主張は貨幣経済の絶対化という現況ではなかなか理解されにくいかもしれない。
 貧困や多額の負債、破産、投資の失敗、詐欺・盗難被害など貨幣にまつわる何らかの不幸を実体験しない限り、貨幣さえあれば欲しい物は何でも手に入るという貨幣経済の技術的な便利さに目を奪われて、貨幣経済以外の経済システムを想像することもできなくなっているのが現代文明人である。
 そうした想像力の貧困状態を脱することは容易でないけれども、貨幣経済の裏面を歴史的に追ってみることで、貨幣経済の真の恐ろしさを追体験することは可能かもしれない。とはいえ、通常の経済史の概説書等に当たってみても、貨幣経済の暗黒面に焦点を当てたものはほとんど見られず、ハイパー・インフレーションや金融恐慌などの負の事象に言及しつつも、多くは貨幣経済を人類の輝かしい文明として称賛し、その進歩的な側面に焦点を当てた「白書」として記述されている。
 当連載は、そうした通例とは逆に、貨幣経済の暗黒面に焦点を当てた稀な試みとなるだろう。その意味で、当連載は「貨幣経済史黒書」と命名される。当面は不定期連載ながら、これを通じて、貨幣経済の本当の恐ろしさを歴史的に追体験することを可能としたい。表示はしないが、「本当は恐ろしい貨幣経済」という副題を付してもよいだろう。
 記述に当たっては、日本に限定せず、世界歴史上に位置づけられた貨幣経済史の全体を概観するように努め、最後に「貨幣経済史の終焉」として、貨幣経済からどのようにして脱却できるか、というこれまでの連載で必ずしも充分に触れることのできなかった問題についても、考察してみたい。

コメント