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ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

奴隷の世界歴史(連載第38回)

2017-12-19 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

朝鮮の奴隷制
 朝鮮の奴隷制は、半伝説上の王朝である漢族系の箕子王朝の祖・箕子が制定したとされる刑法・犯禁八条に、「窃盗犯は奴隷とする」とあるのが記録上の起源とされるが、箕子朝鮮自体の実証性が不充分であるため、歴史的に確定することは難しい。
 歴史的に確定できるのは、朝鮮では統一新羅が導入し、続く高麗王朝時代に確立された律令制の下、奴婢制度が定着したことである。朝鮮奴婢制度も中国を起源とし、との別があったが、の母が産んだ子は必ずとし(随母法)、過去八世代にわたり家族にがいないことを官吏登用の要件とするなど、朝鮮の奴婢制度はその階級的厳格さを特徴とした。
 人身売買されるの待遇は極めて劣悪であったことから、高麗で軍人が政権を簒奪する武臣政権の混乱期を迎えた1198年には、の万積が公私の同志を募って武装蜂起し、時の武臣独裁者・崔忠献の暗殺を企てたが、失敗し、関与者が大量処刑されるという奴隷反乱も発生した。
 日本の奴婢制度が律令制の形骸化に伴い、廃止され、武家政権期には消滅したのに対し、朝鮮では高麗を打倒した軍閥の李氏政権も王朝の形態を採ったから、律令的特色を持つ奴婢制度も引き継がれることとなった。李氏朝鮮王朝下の奴婢制度の特質として、の種類が専門分化していたことがある。
 例えば、王族や両班など上流階級女性の診療を専門とする婦人科医である医女は女子の中から選抜された身分の医療者であった。他方で、医女は歌舞音曲も体得した芸妓を兼ねていたことから、宮中接待や高位者向けの性的奉仕を専門とする身分である妓生との異同が曖昧となり、宮中の風紀紊乱を引き起こす結果となった。
 暴君として知られる第10代国王燕山君の側室となった張緑水は妓生出身ながら王の寵愛を独占し、王府人事にも介入する専横を働いて悪名を残した。彼女は燕山君廃位後、処刑された。一方、日本の豊臣秀吉軍の侵略を受けた壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の時には、慶尚道晋州城を占領した日本軍武将の接待を命じられたことに乗じ、武将を岩の上に誘い出し、だきかかえて共に川に投身したと伝えられる論介のような愛国的義妓も輩出している。
 の反乱は李氏朝鮮下でも、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)に際して発生する。かれらは身分を脱するべく、身分の証拠記録となる戸籍を燃やすという挙に出たのであった。一方、王府側も戦費調達のため、有償で身分を脱することを許したため、結果として人口は減少した。
 とはいえ、身分差別が厳格な李氏朝鮮では妓生廃止論が時折提起されることはあっても、奴婢制度自体の廃止論は見られず、人身売買の禁止とともに奴婢制度の最終的な廃止は王朝末期1894‐95年の近代的改革―甲午改革―を待つ必要があった。

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奴隷の世界歴史(連載第37回)

2017-12-18 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

日本の奴隷制
 日本の歴史上、少なくとも記録に現れる奴隷制は弥生時代から存在しており、中国史書には当時の倭の小国が中国皇帝にもたらした奴隷=生口に関する記述が見られる。また『魏志倭人伝』では邪馬台国の卑弥呼女王の王宮には婢千人が奉仕していることが記されている。
 首長制の古墳時代、各地域の首長は私有民として奴隷を所有しており、墳丘墓の築造に当たっても奴隷労働力が動員されたと推定できるが、記録的な裏付けはない。ただ、ヤマト王権の集権支配が強まってもなお地方首長出自の各豪族らは部曲のような形態で配下の私有民を保持していたことからみて、日本の私有奴隷制の歴史は相当に長いと見られる。
 こうした古代奴隷制社会が再編されるのは7世紀以降、中国式の律令制が導入され、良賤制が定着してからである。日本型良賤制の特質は階級が、、家人、、の五種に明別されたこと――である。このうち最下層を占める公私のは売買の対象とされ、実質上奴隷であった。
 ただし、には良民の三分の一ながら口分田が支給されたほか、解放されて良民となる可能性があった。また良賤間の通婚も次第に自由化され、通婚によってもうけた子は良民とされるなど形骸化し、最終的には平安時代の907年に廃止された。
 これ以後、中近世の日本では明確に奴隷身分に分類できる階層は見られなくなるが、人身売買の慣習は武家社会ではむしろ強まった。売買された男女は、主に下人として有力家で家内労働に従事した。中世には貨幣経済の発達に伴い、人身売買が一つの商行為として確立されたのに対し、鎌倉幕府は人身売買を原則として禁じたが、飢饉に際しては例外的に許容したため、拡大解釈され、貧困から自ら身売りする者も跡を絶たなかった。
 戦国時代には、勝者側将兵が敗者の領地で人や財貨を略奪する乱妨取りと呼ばれる粗野な風習が普及し、このうち人狩りの部分に関しては人身売買の軍事化と言うべき事象が生じた。乱妨取りで狩られた一部の日本人が大航海時代のポルトガルを通じて奴隷として海外に売られていたことは以前にも触れた。
 江戸幕府の「鎖国」政策はこうした日本人の奴隷化流出を阻止する役割を果たした。幕府は同時に、国内的にも人身売買を取り締まったが、年貢上納を目的とした子女の売買は例外とする抜け道を作ったため、女性の人身売買は残存した。
 これは時を同じくして発達してきた遊郭制度と即座に結びつき、人身売買で売られた農民の子女は遊郭で年季奉公する遊女となることが多かった。幕府は公認遊郭以外での私娼を禁じたが、取締りは行き届かず、私娼を含めれば膨大な数の女性が性奴隷化されていたと見られる。このような性奴隷制は明治政府による1872年の芸娼妓解放令によってひとまず法律上は解消されることとなった。

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奴隷の世界歴史(連載第36回)

2017-12-12 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

中国の奴隷制②
 唐が滅亡した後、いわゆる五代十国の混乱期を収拾した宋は軍閥出自ながらある意味で「リベラル」な政策を展開したため、奴隷の個別的解放と階級上昇もある程度可能になった。また律令制の解体に伴い、官奴婢は廃止されたが、良賤制は残存した。
 こうした宋の限定改革的な気風も、王朝の脆弱さゆえ、東北女真族の侵攻による金王朝の樹立により中断された。華北を征服・支配した金は、官営妓院として洗衣院を設置し、宋の皇后や皇女を筆頭とする身分不問の宋女性多数を金銭による等級付きで洗衣院に送り、性的奉仕を強制させる性奴隷化を大々的に実行した。
 続いて金と南宋双方を滅ぼして全土を征服したモンゴル帝国(元)は、征服過程で多数の漢族を奴隷化し、奴隷制を積極的に活用したため、国が直接所有する官奴婢も復活した。
 また高麗を間接支配するようになると、高麗女性を貢女として献上させた。貢女=性奴隷ではなかったが、性奴隷の性格は否定できない。なお、例外中の例外として、高麗貢女出自の宮女から昇進した奇皇后(夫は元朝最後の皇帝トゴン・テムル)のような高位者も輩出している。
 元を滅ぼした明は中国史上初めて政策的に奴隷制廃止を追求した体制であり、初代の洪武帝朱元璋は奴隷を良民に転換する法律を公布した。しかし歴代王朝を越えて歴史的に根付いた慣習を変革することは困難であり、明中期以降は貧困のため自ら奴隷に身売りする慣習も現れた。
 明末期の17世紀には奴隷反乱が相次いたことから、家内奴隷数の上限を設け、奴隷所有者に重税を課す妥協策を打ったが、効果を見るまでもなく、明は再興した女真族系の清によって滅ぼされた。清は当初、奴隷制廃止には消極的で、征服した朝鮮から数十万の捕虜を奴隷化した。
 しかし中原で支配を確立するにつれて改革的となり、康煕帝の時代から漸次奴隷制廃止が進み、続く雍正帝は正式に奴隷制度及び奴婢制度の廃止を断行した。しかし19世紀にキリスト教が広がると、警戒した清朝はキリスト教弾圧政策の一環として、棄教しないキリスト教徒を西域の新疆へ送還し、現地のイスラーム系有力者に奴隷として売却する制裁措置を採った。
 ちなみにイスラーム系の新疆は清朝領土に含まれながらも自治的な藩部体制の下、イスラーム的慣習が維持されたため、18世紀末に時の乾隆帝が新疆における奴隷制廃止を宣言したにもかかわらず、イスラーム法に則った奴隷売買が行なわれていた。
 清朝の奴隷制廃止は末期1909年の法律で明記されたが、不法な奴隷慣習―特に私奴婢―は辛亥革命後中華民国時代も存続し、20世紀半ばの共産党支配体制樹立後の社会革命によってようやく姿を消したものと考えられる。

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奴隷の世界歴史(連載第35回)

2017-12-11 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

中国の奴隷制①
 本章では、アジア大陸の前近代における奴隷制の諸相を広く概観するが、広義のアジアに包含されるイスラーム圏の奴隷制に関してはすでに見たので、ここでは主としてインド以東の地域に目を向けることにする。まずは中国である。
 中国奴隷制は確証される限り古代の殷商の時代から様々な形態で存在し続けたが、ここでは後に別途扱う古代を除外し、先に見た欧州やイスラーム圏における中世に相応する時代以降―中国史上はおおむね唐代以降―における奴隷制を見ることにする。
 唐はいわゆる律令制を完成させた東洋的な法治国家であったが、奴隷制に関しても、自由民の奴隷化禁止、既存奴隷以外の人身売買禁止といった規範を確立させた。このような条件付き奴隷政策はイスラーム圏のものと似ており、西域シルクロード市場でイスラーム圏の奴隷を購入する立場にあったことが法制策にも影響した可能性がある。
 とはいえ、イスラーム圏の奴隷制のような階級上昇を可能とする柔軟性は見られず、家財たる動産と同視された奴隷は自由民たる良民とは厳格に区別され、良民女性と男性奴隷の通婚は禁止された。逆に奴隷女性と良民男性の通婚は可能であり、特に東部の山東省では、結婚を目的とした朝鮮女性の拉致・奴隷化が盛んに行なわれていた。
 数的に見ると、南方のタイ族その他先住民族が最も多く奴隷化されていたが、上述のように西域を通じてテュルク系やペルシャ系の奴隷も購入されていた。また数は多くないながら、遠く東アフリカから黒人奴隷(ザンジュ)がもたらされたこともあり、中国はイスラーム奴隷貿易における購買者として参入していた。
 以上のような外国人奴隷とは別途、律令制下では内国人のが公式に存在した。は良民との身分的区別―良賎制―においてを構成する社会階級の一環でもあった。は個別に解放される可能性を持っていたが、奴隷と同様に人身売買の対象とされた。
 奴婢制度の特色は、国が所有する官と私人が所有するの区別があったことである。前者は主として戦争捕虜や犯罪者など公的な事由により身分に落とされた者たちであり、の中では少数派であった。大多数は負債等による没落農民出自が多いが占めた。
 両者には労働内容にも違いがあり、官は宮廷や官営工場/農牧場での労働が中心であるが、は貴族や地主などの領地で家事労働や農作業に従事していた。農作業に当たるは財産を有し、独立して生計を営むことが認められており、農奴に近い存在であった。

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奴隷の世界歴史(連載第34回)

2017-12-07 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

スペインにおける奴隷論争
 大航海時代のスペインが当初大西洋奴隷貿易に大きな関心を示さなかったのは、入植先の新大陸で先住民―スペイン人による誤称インディオ―を奴隷化し、農場・鉱山労働などに使役していたからである。ローマ教皇アレクサンデル6世による1493年のいわゆる「贈与大勅書」は、こうしたスペインによる先住民奴隷化を正当化するものと解釈されていた。
 そうした中、先住民は酷使とスペイン人が持ち込んだ伝染病に対する免疫欠如などから大量死し始めていた。スペイン当局もようやく状況を問題視し、インディアス審議会を設置して先住民問題の現地調査を開始する。その一員に加わったのがバルトロメ・デ・ラス・カサス司祭であった。
 ラス・カサスは16世紀初めにスペイン領エスパニョーラ島(現ドミニカ共和国)に渡り、自身も現地で先住民奴隷を使役する農場エンコミエンダを経営する一人であった。しかし、彼は現地での先住民の置かれた惨状に心を痛め、二度の宗教的な改心を経て強力な奴隷解放論者となり、ドミニコ会修道士として現地活動や本国への報告を通じて先住民の保護を訴え続けた。
 1537年に改革派の教皇パウルス3世によって発せられた新大陸先住民の奴隷化を禁ずる勅令の影響もあり、スペイン国王カルロス1世は1542年、バリャドリッドにインディアス会議を招集、先住民保護とエンコミエンダ制の廃止(ただし、新大陸では適用除外)を軸とするインディアス新法を制定した。
 ラス・カサスが同会議に合わせて参考資料として執筆した報告書『インディアスの破壊に関する簡潔な報告』では、現地スペイン人入植者による先住民虐待の実態が生々しく描写され、議論を呼んだ。会議後、スペイン領メキシコのチアパス司教に任命されたラス・カサスと保守派神学者フアン・ヒネス・デ・セプルベダの間で大論争―バリャドリッド論争―が巻き起こった。
 アリストテレス研究者でもあったセプルベダは、人間には生来、奴隷として作られた存在がいるとするアリストテレスの有名な「生来性奴隷論」に立脚して、先住民奴隷化を擁護したのに対し、ラス・カサスは現地調査に基づき、先住民も独自の文明と理性を備えた存在であることを文化相対論的に反駁・論破したのであった。
 ところで、ラス・カサスの奴隷解放論は主として新大陸先住民を念頭に置いており、彼も若き日には先住民奴隷の代替としてアフリカ黒人奴隷の移入はやむを得ないと考えていたところ、後の「改心」により、最終的には奴隷制度全般の廃止を主張するようになった。
 ラス・カサスの没後二年して、時の教皇ピウス5世はアレクサンデル6世の「贈与大勅書」がインディアス征服を正当化するものでないことを確認する修正的見解を発したが、ラス・カサスの信念と生涯をかけた努力にもかかわらず、教皇庁が間もなく始まる大西洋奴隷貿易の隆盛を阻止するような神学的見解を示すことはなかったのである。

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奴隷の世界歴史(連載第33回)

2017-12-06 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

ローマ教皇の奴隷貿易容認勅許
 奴隷制の是非に関して、基本的な態度を長く曖昧にしていたローマ・カトリック教会であったが、大航海時代に入り、ポルトガルが先陣を切ってアフリカを供給源とする奴隷貿易に着手すると、神学的にもより明確な見解を出す必要に迫られた。
 15世紀半ば、アフリカへの遠征を精力的に実施していたポルトガル国王アフォンソ5世―通称「アフリカ王」―の求めに応じ、時のローマ教皇ニコラウス5世は黒人を奴隷化することを正式に認めたのである。
 その発端は1452年、オスマン帝国の最終的攻勢にさらされ、風前の灯であったビザンツ帝国からの援助要請に応じ、アフォンソ5世に対してキリスト教徒の敵に対する攻撃、征服、服属を認めた勅許であった。
 この最初の勅許の段階では、対イスラーム十字軍の許可であって、これを奴隷貿易に対する勅許と受け取ることは難しい。しかしこの勅許も虚しく、翌53年、首都コンスタンティノープルを落とされたビザンツ帝国は滅亡する。
 一方、ポルトガルによるアフリカ攻略は続行されており、アフォンソはより明快な教皇のお墨付きを欲していたのであった。これに応じたのが、1455年に発せられた同じくニコラウス5世による勅書「ロマヌス・ポンティフェクス」である。
 この中で、実力や禁止されていないバーターその他の合法的な契約によって連行された黒人の無信仰者―非キリスト教徒―の奴隷を購入する権利をポルトガル王に認めている。ただし、かれらをキリスト教徒に改宗させる努力をすることが条件であった。
 この勅許はポルトガルに奴隷貿易の独占的権利をも承認する内容となっており、これは後継の教皇らの勅許でも踏襲され、1493年にはアレクサンデル6世の勅書により、ポルトガルを後追いしていたスペインにも同様の権利が承認されたのである。
 こうしたローマ・カトリック教会の神学的見解は奴隷制全般を容認したものではなく―少なくとも、キリスト教徒の奴隷化は容認しない―、限定的に容認してきた路線を拡大したものと受け取ることができるが、ポルトガル・スペインの両帝国に対し奴隷貿易のゴーサインを出したことに変わりなく、これは大西洋奴隷貿易を正当化する神学的理論付けとして援用されることになる。

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奴隷の世界歴史(連載第32回)

2017-12-05 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

奴隷制と中世キリスト教会
 大西洋奴隷貿易が開始される前の中世ヨーロッパは、イスラーム勢力による奴隷狩りの対象地域であり、自身の社会は奴隷制よりも農奴制が支配的な時代であった。その点、中世ヨーロッパに先立つグレコ‐ローマン社会が奴隷制を軸としていたのとは大きく異なる。
 とはいえ、中世ヨーロッパ内部にも奴隷慣習は各地で残存しており、奴隷制がおおむね農奴制に置換されていくのは西暦1000年前後とみなされている。その後もイングランドでは根強く奴隷制が残り、11世紀後半のウィリアム1世(征服王)の時代でも人口の10パーセントは奴隷が占めていた。
 ビザンツをヨーロッパに含めるなら、このローマ帝国東半分の生き残り帝国では奴隷制度は完全に維持されていた。ちなみに英語で奴隷を意味するslaveも、ビザンティン時代のギリシャ語のスラブ人を意味する単語σκλάβοςに由来するとされるほど、ビザンツ帝国の奴隷制度は当代象徴的なものであった。
 中世の東西ヨーロッパに拡散されたキリスト教聖典の聖書はイスラーム教聖典のコーランとは異なり、奴隷の所有を公式に認めているわけではなかったが、かといって明確に禁止しているわけでもない。
 そうした中、ビザンツ皇帝による統制の強い東方教会が奴隷制廃止に踏み込まなかったことは明らかであるが、西欧カトリック教会は教会会議を通じて奴隷制への介入を試みながらも、その内容はキリスト教徒を非キリスト教圏へ奴隷として売ることの禁止や、当時盛んだったイングランドからアイルランドへの奴隷貿易の禁止といった限定的なものにとどまっていた。
 そうした神学的曖昧さに対して、1315年、フランスのルイ10世が発したフランス王国内における奴隷制を廃止する勅令は異例のものであった。この勅令は人間は生まれながらにして自由であり、奴隷はフランス国内に足を踏み入れたなら解放されなければならないと規定していた。教会が奴隷制そのものの廃止に関して態度を明確にしない中、世俗法が先を越したと言える。
 ルイ勅令はその後もフランスでは効力を持ち続けたが、その適用範囲はフランス内地に限定されたため、大西洋奴隷貿易が開始されると、かえって反対解釈によって大西洋奴隷貿易への参入を通じた海外植民地での奴隷制を促進する結果を招いたのだった。

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奴隷の世界歴史(連載第31回)

2017-11-28 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

マムルークと女奴隷
 イスラーム奴隷制では奴隷の解放が宗教的にも善行として奨励されたことを述べたが、それを象徴する二つのカテゴリーがある。一つは、マムルーク―奴隷兵士(軍人)―である。
 マムルークは、元来「所有される者」を意味し、まさに奴隷の謂いであるが、これが専ら軍人を意味するようになったのは、イスラーム王朝の基礎を築いたアッバース朝下で、主として中央アジアのテュルク系民族の男性を奴隷として購入し、兵士・軍人として育成する制度が根付いたことによる。
 これらの奴隷軍人は幼少時に購入され、徹底した専門的軍事訓練を受け、やがては解放されて職業軍人となり、アッバース朝の軍団を率いる。アッバース朝の軍事力はこうしたマムルークに依存するようになったため、晩期になると、政治的な実力をつけたマムルークが跋扈し、カリフの廃立にも関与し、あるいは地方総督として半自立化したりし、王朝の衰亡要因となった。
 アッバース朝が形骸化した後、マムルーク軍団自身が王朝化し、エジプトのカイロを拠点にいわゆるマムルーク朝を形成する。マムルーク朝は「王朝」と称されるが、その君主たるスルターンは世襲制ではなく、実力者のマムルークがしばしばクーデターで座に就くという点では、軍閥政権の性格が強い体制であった。
 このように、解放奴隷がついには自ら王朝を樹立するという下克上的展開はイスラーム奴隷制ならではの事象であるが、それと並んで、女奴隷の独異性も注目される。
 イスラーム奴隷制において男奴隷と明確に役割が峻別された女奴隷は奴隷貿易でも選好され、イスラーム奴隷貿易では女奴隷の比率が高かったと言われる。その多くは有力者の家内奴隷として使役されたと見られるが、コーランでは特に女奴隷に教養を施し、解放し、妻にすることが善行として奨励されている。
 その結果、宗教上一夫多妻を認めるイスラーム社会では、女奴隷から有力者の妻となり子孫を残す道が開かれていた。その究極はカリフやスルターンの後宮―ハレム―の女奴隷であった。女奴隷が使役されるハレムの侍女は妃候補でもあり、カリフやスルターンに見初められれば、妃として王子を産み、ひいてはカリフやスルターンの生母として高い権威を持つ可能性もあった。
 こうしたハレム制度とマムルーク制度が結合した希少な例として、カイロ・マムルーク朝初代スルターンとして歴史に名を残したシャジャル・アッ‐ドゥッルがいる。テュルク系出自と見られる彼女はアッバース朝ハレムに奴隷侍女として仕えた後、有力マムルークであったサーリフに転贈され、子を産んだことで解放された。
 彼女は十字軍のカイロ侵攻時に急死した夫サーリフに代わって十字軍撃退の指揮を執ったことで評価され、マムルーク朝の樹立に際して初代スルターンに擁立されたのであった。

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奴隷の世界歴史(連載第30回)

2017-11-27 | 〆奴隷の世界歴史

第四章 中世神学と奴隷制度

イスラーム奴隷制の基底
 第三章では、およそ千年以上に及んだ世界奴隷貿易の歴史を概観したが、現代から見れば異様とも言えるこのような歴史の基底を成したのは、中世における神学的な奴隷正当化論及びそれに基づいて形成された奴隷制度であった。
 まずは世界奴隷貿易の歴史を始動させた中世イスラーム圏における神学的な奴隷正当化論の概要を把握することにしたい。イスラームの歴史的出発点は言うまでもなく予言者ムハンマドに遡るが、彼が出自したアラブ社会ではイスラーム以前の時代から奴隷慣習が存在していた。神の啓示を受けたとするムハンマドも富裕な商人として奴隷所有者であった。
 神の言葉を記すという形式で編纂された聖典コーランでも奴隷制は禁じられておらず、奴隷の所有は正当化され、奴隷の法的地位に関する詳細な規定がある。ただし、奴隷は戦争捕虜の場合やすでに奴隷である者を他者から購入した場合に限られ、営利的な奴隷狩りは禁止されるなど、法的な規律が課せられる。
 また奴隷に対しては、孤児、貧者、旅人などと並んで温情をもって接するべきものとされ、奴隷を個別的に解放することは善行として奨励もされた。実際、最初期ムスリムの一人として聖人視されているビラール・ビン‐ラバーフは解放奴隷出自であった。
 このように、イスラーム奴隷制には階級上昇の余地が広い柔軟な側面があり、解放されて自由人となれば、元奴隷主を庇護者として、公民として暮らすことも可能であった。また少なくとも理論上、人種差別的な構制はなく、奴隷としては“平等”であった。
 しかし、イスラーム勢力が遠征により領域を拡大し、王朝化するにつれて、奴隷制度も変化する。まず奴隷労働力の供給が不足し始め、奴隷狩りのような行為が異教徒への聖戦(ジハード)の名目で行なわれるようになっていった。奴隷貿易が活発になると、奴隷商人による奴隷狩りも見られるようになる。
 また奴隷獲得の地理的範囲が広がったことで、白人奴隷が増え、黒人奴隷との処遇の相違も生まれた。一般的に黒人奴隷は蔑視され、下層労働に投入されたの対し、白人奴隷は男性なら兵士としての徴用が多く、解放されて軍人として立身することも可能であったし、女性なら後宮女官や妃にまで栄進する可能性を伴っていた。
 かくして、イスラーム奴隷制度は、時代の変化によりコーラン規定を超越ないしは逸脱するような性格を帯び始めるが、奴隷規定自体が削除されることはなく、イスラーム世界では後のキリスト教世界のように奴隷制度を明確に否定する神学的見解が出されることもなかった。

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奴隷の世界歴史(連載第29回)

2017-11-21 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

世界奴隷貿易の全体像
 本章では、西欧キリスト教世界主導の大西洋奴隷貿易のみならず、それより起源も継続期間も長かったイスラーム奴隷貿易も包括して「世界奴隷貿易」と規定し、その流れを見てきたが、最後にその全体像を総括しておきたい。
 まず最も気がかりな奴隷として「輸出」された人頭数であるが、これについては、精確な台帳のような記録が残されていない以上、推測とならざるを得ず、当然にも諸説が林立する。最も調査研究が進んでいる大西洋奴隷貿易について言えば、最小で1000万人、最大で5000万人という推計がある。
 最も有力なのは中間をとって1200万人程度とする説であるが、この数字は大西洋奴隷貿易が進行していた16~19世紀の数字としては、かなり大きな値である。というのも、大西洋奴隷貿易が終息に向かった19世紀半ばでも世界人口はようやく10億人強にすぎなかったからである。
 他方、その継続期間が千年以上に及んだイスラーム奴隷貿易の場合はいっそう推計は至難であり、最小は800万人、最大で1700万人、中間は1100万人程度とする説までまさに諸説ある。その細目として、前回見たバルバリア海賊により奴隷としてオスマン・トルコに送られた白人奴隷は100万人超とされる。
 ここで大西洋奴隷貿易とイスラム奴隷貿易を比較すれば、300年程度の間に千万単位の奴隷を輸出した大西洋奴隷貿易における人身売買システムの組織性の高さと効率性が理解できる。
 さて、こうして奴隷貿易によって送り込まれた奴隷たちの中には、前にも見たように、逃亡して独自の共同体を形成する者たちもあったが、多くは奴隷として生涯を終えるか個別に解放され、奴隷制度が廃止された後は自由人となり、現地で子孫を残した。
 大西洋奴隷貿易の結果、新大陸に送られた黒人たちの子孫は、現在も南北アメリカの全域に黒人層として居住しているが、特にプランテーションの盛んだったカリブ海域では、ハイチやジャマイカをはじめ、黒人層が人口の大半を占める諸国を形成しているため、カリブ海地域は言わば「中米のアフリカ」となっている。
 これに対し、イスラーム奴隷貿易の結果、イスラーム圏に送られた奴隷たちの子孫は、現在イスラーム圏で現地のアラブ人やトルコ人などと混血・同化しているケースが多いと見られる。特にオスマン・トルコでは皇帝スルターン自身も含め、白人奴隷女性との通婚が盛んで、本来はモンドロイド系だったトルコ人を遺伝系譜的にもコーカソイド系に変化させるほどの人口触媒となった。
 もっとも、黒人奴隷は必ずしも同化しなかったようであり、結果として、現在でもアフリカ系トルコ人という一種の少数民族集団を残している。また、黒人奴隷が多く送られたイラクでも、南部のバスラを中心にアフリカ系イラク人が存在する。
 いずれにせよ、千年以上に及んだ世界奴隷貿易による「奴隷」という不幸な形での人口移動は歴史上最も大きなものであり、その結果がまさに現代世界の地域人口構成にも永続的な影響を残していることが知られるのである。

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奴隷の世界歴史(連載第28回)

2017-11-20 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

イスラーム奴隷貿易:後期
 8世紀以来の歴史を持つイスラーム勢力による奴隷貿易は、西洋主導の大西洋奴隷貿易が始まった15世紀末以降、新たな段階を迎える。この後期イスラーム奴隷貿易は、前期に比べ、いくつかの点で変化する。
 まず、交易ルートの変化である。前期イスラーム奴隷貿易の交易ルートのうち、西アフリカへつながるサハラ交易ルートは16世紀、アフリカ西海岸に進出したポルトガルによって撹乱された。このルートは最終的に、16世紀末、モロッコに出現したアマジク系イスラーム王朝サアド朝による寇掠を受けて決定的に衰退した。
 それに代わって、東アフリカ沿岸ルートが中心を成すようになるが、主導勢力は変化し、16世紀に大帝国化するオスマン・トルコが台頭してきた。トルコの奴隷制度は極めて組織的なもので、その供給地は地中海沿岸からカフカース、バルカン、東欧にも及んだが、東アフリカからは黒人奴隷を徴用した。
 トルコの奴隷制度上、主にキリスト教徒系の白人奴隷は男子なら兵士、女子は宮廷のハレム職員やスルターン側女・妃、あるいは性奴隷とされ、黒人男子の場合は家内奴隷やプランテーション労働者、宦官とされることが多かった。
 奴隷供給勢力/国として協力していたのは、地中海沿岸ではバルバリア海賊、ロシア・ウクライナ方面ではモンゴル帝国の血を引くクリミア・ハン国、東アフリカではキリスト教古王国であるエチオピアであったが、中でもバルバリア海賊は在野勢力ながら強力であった。
 彼らは半自治的な北アフリカ沿岸都市に拠点を置き、地中海沿岸から時に英国やアイスランドにまで及ぶ広い地域のキリスト教徒を奴隷狩りによりオスマン帝国に送り込む役割を果たした。その活動時期はちょうど大西洋奴隷貿易の時期と重なり、欧米で奴隷貿易禁止の動きが出てきた19世紀初頭、アメリカとの二度の戦争で衰退するまで勢力を保持した。 
 ところで、東アフリカの奴隷貿易は17世紀半ば以降、アラビア半島南部に台頭したオマーンによって支配されるようになる。オマーンは16世紀初頭以来、支配を受けてきたポルトガルを駆逐し独立して以来、インド洋まで勢力圏とする海上帝国化する。特に19世紀前半には東アフリカのザンジバルに遷都して全盛期を迎えた。
 後期イスラーム奴隷貿易は、19世紀に大西洋奴隷貿易が終息を迎えてもなお継続されていくが、19世紀後半以降、主導していたトルコ、オマーン両大国の衰退に伴ってようやく終焉へ向かう。「瀕死の病人」となったオスマン・トルコ及びオマーンより分離独立後、英国の保護領化されたザンジバルは、ともにアフリカ奴隷貿易を禁止する1890年ブリュッセル会議条約に加盟している。
 とはいえ、イスラーム圏全体では、奴隷廃止運動が内発的に隆起することはなく、奴隷慣習が20世紀、一部は21世紀まで残存ないしは復刻する形で継続中であることは、第一章でも見たとおりである。

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奴隷の世界歴史(連載補遺)

2017-11-14 | 〆奴隷の世界歴史

第二章 奴隷制廃止への長い歴史
 
人種隔離国家・南アフリカの形成
 大西洋奴隷貿易の廃絶につながる英国での奴隷制廃止法は、遠くアフリカでねじれた副産物を生んだ。後に南アフリカ共和国となる南部アフリカの白人優越主義国家である。南アフリカの起源は、大航海時代の17世紀、オランダ東インド会社が入植したケープ植民地にある。
 ここにオランダ本国から多くのオランダ農民が入植し、後にはフランスやドイツで宗教的に迫害されたプロテスタント系信者らも加わって、次第にアフリカ土着白人―ボーア人―が形成されていく。かれらは、東インド会社の統制を受けず、自治的な植民地経営を行なっていた。
 その経済的基盤は、アメリカ南部と類似した奴隷制農園であった。ボーア人は、先住の黒人サン人やコイコイ人を駆逐し、その居住地を奪いつつ、かれらや周辺のバントゥー系黒人を奴隷労働力として使役し、自給自足の農園を経営していたのだった。
 この状況は18世紀末、フランス革命渦中でケープ植民地が英国に占領され、19世紀初頭以後、英国からの移民の流入によって急速に英国化されたことで一変する。折りしも、英国では奴隷制廃止運動が高まっており、その波は南アフリカにも押し寄せてきたのであった。
 英国当局は1828年、総督令をもって、ケープ植民地の有色人種にも白人と同等の権利を付与し、1834年の奴隷制廃止法をケープにも適用してきた。これにより、ケープ植民地の奴隷は解放され、労働力を喪失したボーア人農園は事実上破綻したのである。
 こうした英国の性急なやり方に不服を抱いたボーア人勢力は、1830年代から40年代にかけて順次、内陸部に集団移住(グレート・トレック)を開始し、現地の先住黒人部族と戦い、これを排撃しつつ、新たに複数の白人系共和国を建設していく。
 中でも北部のトランスヴァ-ル共和国と南部のオレンジ自由国の二大国家が、19世紀末から20世紀初頭の対英戦争(ボーア戦争)に敗れ、英国植民地となるまで存続した。
 これらのボーア人国家では奴隷制は否定されたものの、少数派の白人のみを有権者と定め、黒人や混血系をあらゆる部面で劣遇する人種差別政策が合法化され、後に南アフリカ共和国へ統合された際の人種隔離政策―アパルトヘイト―の基礎となったのである。
 南アフリカでは、奴隷制廃止が英国の占領という特殊状況下で、国策として上から押し付けられた結果として、人種隔離政策というねじれた方向に流れていった点も、南北戦争後、北軍の占領を受けたアメリカ南部のその後の状況と類似しているところである。

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奴隷の世界歴史(連載第27回)

2017-11-13 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

大西洋奴隷貿易の終焉
 16世紀に本格化し、18世紀に最盛期を迎えた大西洋奴隷貿易は、19世紀に入ると、急速に終焉期を迎える。その要因が何であったかについては様々な分析がなされるが、経済的な土台に関わる要因として、大西洋奴隷貿易の経済的な仕組みを成していたいわゆる三角貿易の破綻が指摘される。
 すなわち、欧州の旧大陸と西アフリカ沿岸、カリブ海地域を含む新大陸方面をつなぐ国際貿易のシステムにおいて、新大陸におけるプランテーションに投入される労働力確保のために実行されていたのが大西洋奴隷貿易であったところ、無計画な競争的奴隷徴用の結果、供給可能な奴隷数の減少により奴隷価格が高騰、さらに北米プランテーション農産物の価格下落により、奴隷貿易による利潤が急減したのであった。
 これに対しては、奴隷貿易に参入している各国間の協定で奴隷獲得数を割当制とするなどの統制貿易により克服することも可能だったであろうが、18世紀の奴隷貿易の中心的担い手であった英国で人道的観点からの奴隷制廃止運動が盛り上がったことが、奴隷貿易終焉を後押しした。
 この19世紀初頭に頂点に達した奴隷制廃止運動については、時代遡行的構成を採る本連載ではすでに前章で言及済みであるが(拙稿参照)、英国は1807年の奴隷貿易法をもってアフリカ人奴隷貿易の禁止を打ち出したことを皮切りに、自国のみならず、他国の奴隷貿易船の取り締まりも断行する強い姿勢を見せた。こうした規範的な態度を見ても、奴隷貿易の廃止が単に経済的な要因だけでは説明できないことがわかる。
 ちなみに、アメリカでも1807年の連邦法をもって奴隷貿易は禁止されていたが、奴隷制に依存した南部諸州からの需要により、「密輸」は続行されており、現在知られる限り、最後の「密輸」は1860年、アラバマ州の奴隷商人が組織した奴隷船クロティルダ号によるものと見られる。
 その数年後、内戦の代償を伴いつつ断行されたアメリカの奴隷制廃止ともども、結局、人道主義という上部構造的要因の推進力なくしては、奴隷所有者層を中心に反対も根強かった奴隷制廃止は実現しなかったであろう。その意味で、大西洋奴隷貿易の終焉は、経済的下部構造と上部構造の連関性を実証する一つの事例である。
 もっとも、大西洋奴隷貿易の終焉は決してアフリカ地域の自立を結果したのはなく、やがて西洋列強がアフリカを直接に支配下に収めるという形の帝国主義を呼び込むことになる。奴隷供給国家として奴隷貿易に加担していた西アフリカ諸王国は、それに抵抗するだけの地力を喪失していた。

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奴隷の世界歴史(連載第26回)

2017-10-31 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

北米のブラック・セミノール
 新大陸における逃亡奴隷マルーンの中でも独異な形態を取ったのが、北米のブラック・セミノールと呼ばれる集団である。これは、アメリカ南部の逃亡黒人奴隷がフロリダの先住民族セミノールの居住地へと避難することによって形成された新たな部族集団である。
 当時のフロリダはスペイン領であり、大西洋奴隷貿易に参入し、中南米では黒人奴隷を使役していたスペインは、北米では英国への対抗上、英国植民地内の黒人奴隷にフロリダ逃亡を奨励していたのである。
 スペイン当局はかれらを解放し民兵として組織したが、他方でスペイン民兵とはならず、独自に共同体を形成したマルーンのグループもあった。こうしたグループは現地の先住民セミノールとの関わりを深めた。北米先住民には独自の奴隷慣習があり、マルーンはセミノール首長の奴隷となることで庇護された。
 もっとも、このセミノール奴隷は通常何らかの強制労働に従事させられる奴隷とは異なり、マルーンは武装した独自の共同体を持ち、セミノール首長に家畜や作物を上納することで庇護を受けるという農奴的な関係性のものであった。こうしてマルーンはそのアフリカ起源の慣習を維持しつつ、セミノールにも同化し、独自の軍事共同体を構成し得た。これがブラック・セミノールである。
 ブラック・セミノールの運命は18世紀後半から19世紀前半にかけて、英国割譲、スペイン返還、アメリカ編入とめまぐるしく変化したフロリダの情勢に大きく左右された。独立したアメリカ合衆国はブラック・セミノールの解体と逃亡奴隷の返還を目指していた。
 親英/スペイン派であったセミノール自体も合衆国の標的となっており、19世紀に三次にわたるセミノール戦争が発動された。そのうち最も長く1835年から42年まで続いた第二次セミノール戦争はブラック・セミノールのハイライトであった。
 この戦争の要因は、セミノールとブラック・セミノールをまとめて不毛な西部オクラホマ準州へ強制移住させる合衆国の政策にあった。この裏にブラック・セミノールの奴隷復帰という狙いを嗅ぎ取ったブラック・セミノールは戦争と並行して、農園でのゲリラ的な奴隷反乱を煽動・支援したのである。
 結局、合衆国の勝利に終わった戦後、ブラック・セミノールはオクラホマへ移住させられたが、その一部は離反してメキシコへ集団逃亡し、現地で民兵となった。残留者はそのままセミノールとして暮らし、奴隷制廃止後は自由人開拓者となった。

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奴隷の世界歴史(連載第25回)

2017-10-30 | 〆奴隷の世界歴史

第三章 世界奴隷貿易の時代

逃亡奴隷共同体
 大西洋奴隷貿易で「輸出」されたアフリカ奴隷の行き先は、サントメ島のような近場を例外として、多くは新大陸のプランテーションであった。そこでは、過酷な強制労働が待ち受けていたが、当然と言うべきか、逃亡者も絶えなかった。
 これらの逃亡奴隷はマルーンと呼ばれ、山中で武装化し、自治的共同体を形成するようになる。こうしたマルーン共同体は、新大陸とその周辺島嶼各地に散在するようになるが、その最も古いものはポルトガル植民地ブラジルで形成された。広大なブラジルには、マルーンが集住するに適した未開拓地が多数残されており、かれらには有利な条件があった。
 キロンボと呼ばれたブラジルの逃亡奴隷共同体はブラジル各地に多数形成されたが、中でも17世紀初頭、北東部に形成されたキロンボ・ドス・パルマーレスは最盛期2万人の人口を擁する一種の自治国家として、一世紀近く存続していく。
 先住民や貧困層白人なども吸収しつつ独立を目指したパルマーレスは17世紀後半、ポルトガルに敗れて奴隷として連行されたコンゴ王国王族の出身とも言われるガンガ・ズンバとその甥ズンビの下で一種の王国として最盛期を迎えるが、ズンビがポルトガル植民地軍に敗れ、終焉した。  
 一方、フランス植民地島ハイチではマウォンと転訛したマルーンは国家的な共同体よりも、ゲリラ的なネットワークを形成し、白人プランテーションを襲撃、奴隷を救出解放する活動を展開した。中でも1750年代に活躍したフランソワ・マッカンダルは西アフリカ由来のブードゥー教司祭でもあり、プランテーションの飲食物に毒を仕込んで殺害するテロ作戦により恐れられた。
 彼は結局、捕らえられ残酷に処刑されたが、ハイチにおけるマウォンのゲリラ活動は後世に引き継がれ、マッカンダルの死からおよそ30年後のハイチ独立革命につながっていくのである。
 同じカリブ海域の英国植民地島ジャマイカでも18世紀、マルーンが団結して反英闘争を開始した。その中心に立ったのは、クジョーとその妹分の女性戦士ナニーであった。クジョーは1739年まで8年間続いた対英戦争(第一次マルーン戦争)を率いた。ナニーのほうは後にナニー・タウンと命名された町にマルーン共同体を形成し、事実上の首長として統治した。
 ただ、第一次マルーン戦争を終結させた条約はマルーン共同体の存続を認める見返りに逃亡奴隷拘束に協力するという妥協的な内容であったため、1795年には再び一部マルーンが蜂起し、第二次マルーン戦争となるが、結局、英国の実質勝利に終わり、反乱したマルーンはカナダと西アフリカのシエラレオーネへ強制送還されてしまう。
 とはいえ、ジャマイカのマルーン戦争は19世紀初頭以降、人道主義的潮流からの奴隷制廃止運動とは別に、奴隷制度の持続可能性に関して懐疑を生じさせ、英国の奴隷貿易・奴隷制廃止へ向けた政策転換の契機になったと考えられる。

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