ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

民事弾圧を許した「憲法の番人」

2021-12-06 | 時評

NHKが映らないテレビの所有者であっても、NHKとの受信契約・受信料支払の義務がある━。そんなトンデモ判決を今月2日、「憲法の番人」たる最高裁判所が発した。

放送法はNHKの放送を受信できるテレビの設置者にはNHKとの受信契約締結の義務があると規定しているところ、この事件の原告はNHKの放送信号を減衰するフィルターを組み込んだ特殊なテレビを購入・所有していたが、最高裁はフィルターを外すなどすれば受信できると認定した二審高裁判決を支持したのである。

不覚にも知らずにいたのだが、最高裁は2017年の段階で、NHKとの受信契約を法的義務とみなし、NHKからの契約申し込みを承諾しない相手に対して、NHKは裁判に訴えて承諾を命ずる判決を得て契約を強制的に成立させることができるという強硬な判決を発していた。今般判決は、これをさらに拡大し、技術的にNHKを受信できなくしたテレビの所有者であっても契約義務ありと判断したものである。

これらの司法判断によって、NHKは、当面受信できなくてもテレビを技術的に受信可能な状態に工作させたうえで強制的に受信契約を結ばせることまで可能となったわけである。このようなむたいな理屈が近年NHKが値下げして契約率向上を狙う衛星契約にも拡大されれば、問題はいっそう深刻化する。

これは、受信料の強制徴収という経済問題にとどまらず、NHKと強制的に契約させることにより、どの媒体を通じて情報を取得するかに関する市民の選択権を奪う権利をNHKに与えたことになるという点で、広い意味での言論の自由に関わる問題である。

現行法上、NHKとの契約拒否者に対して刑事罰を科する規定はさすがに存在しないが、民事訴訟を提起して市民を法廷紛争に巻き込むこともある種の懲罰的対応であって、これはNHK拒否者に対する民事弾圧である。このようなことを容認する「憲法の番人」は人権泥棒に加担していると言っても過言でない。

しかし翻って、それほどにNHK受信料制度を護持したければ、「契約」法理に固執せず―契約は自由が原則であって、「強制契約」はブラックジョーク的な概念矛盾である―、受信料を一種の税金として実際に税金とともに付加徴収すればよいのである。

だが、そこまでするなら、7年前の拙稿で提唱した通り、いっそのこと、日本放送協会:NHKを完全なる日本国営放送:NKHに再編すればよかろう。そうすれば、受信料制度は廃止され、文字通り税金で運営される御用放送局となり、政府与党は堂々と放送内容を統制できるようにもなる。

しかし、政府与党があえてそうしようとない理由も想像はつく。全国50を超す放送局、1万人を超す職員を抱える巨大メディアを国営化すれば、高額とされる職員給与も含め、すべて国庫負担となるからである(増税の口実には使える)。

NHK拒否者を民事弾圧してでも、国民から強制徴収した受信料に支えられた公共放送という名の御用メディアを維持するほうが経済的と打算されているのである。


[追記]
2022年6月、NHKとの受信契約を拒否する者からも割増金を徴収するなど、受信料制度を強化した改正(悪)放送法が成立した。こうした懲罰的割増制度の導入により、民事弾圧性はいよいよ強まった言える。

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環境的偽善の宴

2021-11-03 | 時評

先月31日から、コロナ・パンデミックのため一年延期された国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)がグラスゴーで開催されている。

そもそも温暖化対策の緊急性が高調されるわりには、スポーツ大会並みに一年延期とは悠長であるが、その点はおいても、このような豪華な国際環境行事―それ自体、専用機・送迎車の使用、会議・レセプション等々で温室効果ガスを排出中―を何十回重ねても、本質的な成果は上がらない。それはまさに本質を避けているからである。

気候変動問題に関して定着している「産業革命前の気温」という比較規準の意味を省察する必要がある。「産業革命以前」ということは、言い換えれば「近代資本主義勃興以前」ということであるから、それ以後の温暖化の主因は、まさに近現代の資本主義経済活動にあることを示している。

その点、資本主義というものは「きょういくら儲かるか」が至上命題、地球の未来など悠長に憂慮していては、利潤競争に勝てない世界である。過去一年余りは新型ウイルスというエイリアンの侵入によって資本主義経済が大きく攪乱されたが、収束が見え始めれば、元の木阿弥である。

それどころか、パンデミックに最も直撃され、多くの生産活動が総停滞した昨年でさえ、温暖化は歯止められなかった。すなわち、国連の世界気象機関(WMO)によれば、2020年の世界の平均気温は、産業革命前の1850乃至1900年の平均に比べ約1.2度上昇して、約14.9度と過去最高水準で、とりわけ資本主義的経済成長著しいアジアにおいては、昨年一年間の平均気温は観測史上最高を記録した。

また、労働という面から見ても、地球環境への高負荷産業ほど集約的に多くの雇用を抱えている。そうした産業の斜陽化、ひいては失業につながる厳しい環境規制には、労組も反対であるから、環境関連では労使の利害が一致し、労使一体での反環境反動が展開されている。

そうした労働者の雇用不安にも一理以上あるわけで、となれば、資本主義と言わず、さらに遡り有史以来の貨幣経済―その到達点が現代資本主義経済―を廃して、貨幣収入(賃金)と暮らしの連動を絶たない限り、本質的な環境保全は不可能である。

よって、資本主義と言わず、貨幣経済をきっぱり断念し、環境保全を考慮した地球全域での計画経済を軸とする共産主義に移行しない限り、温暖化の進行―それだけにとどまらず、地球環境の総劣化―を本質的に食い止めることはできない。すなわち、貨幣経済の廃止を通じた地球共産化が本質的な地球環境保全への道である。

それを、地球環境劣化の元凶である資本主義にあくまでも固執しながら、技巧的な排出権取引を通じた「市場メカニズム」による気候変動枠組みなどをうんぬんするのは、偽善―環境的偽善―にほかならず、そうした術策を協議する華やかなCOP会議は偽善の宴である。

しかし、そうした環境的偽善は現状、COP会議で美辞麗句を披露し合う各国首脳のみならず、ほとんどの環境運動団体/活動家によっても共有されていると思われる。かれらも資本主義を無意識に受容しているか、少なくとも貨幣経済を疑ってはいないだろうからである。相当に「急進的」な団体/活動家らでさえ、地球環境保全を目的とした地球共産化という提起には懐疑的・否定的ではないだろうか。

資本代理人である首脳らには期待できないから、まずは環境運動団体/活動家たちがそろそろ本質的に覚醒するのを待つほかないが、残された時間は限られる。

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牙を抜いた共産党

2021-10-20 | 時評

初めに本稿タイトルの留意点であるが、「牙を剝いた」でないことはもちろん、「牙を抜かれた」でもない。より補足的に言えば、「自ら牙を抜いた共産党」である。

今般総選挙で、主要野党が史上初めて共産党を含めた選挙協力及び「連合」政権構想を携えて選挙に臨む方針を示したことで、最大労組まで含めた反共勢力からの定番反共攻撃が強まっている。冷戦時代の黄ばんだイデオロギー教本が再び参照されている模様である。

しかし、ソ連解体以後の西側諸国における残存共産党のほとんどは、議会政党としてブルジョワ議会に参加することで生き残りを図ってきており、反共攻撃陣営の常套文言である「暴力革命」は妄想的強迫観念に近いものである。

そのことを最もわかりやすく、かつ素朴に語っているのが、日本共産党・志位和夫委員長の次の言葉である。


私たちのめざす社会主義・共産主義は、資本主義のもとで獲得した価値あるものを全て引き継いで発展させる。後退させるものは何一つないということです。例えば労働時間短縮など暮らしを守るルールは、全部引き継いで発展させる。日本国憲法のもとでの自由と民主主義の諸制度も、全て豊かに発展的に引き継いでいく。せっかく社会主義になっても資本主義より窮屈でさみしい社会になったら意味がないわけです。日本は発達した資本主義のもとですでに多くの達成を手にしています。(中央公論.JP


共産党が「資本主義のもとで獲得した価値あるもの(引用者注:ここで言われる「価値」はマルクス理論にいう「価値」とは全く別もの)」「発達した資本主義のもとですでに(手にした)多くの達成」を継承すると明言しているのである。もはや純正な共産主義をあえて追求しないという脱共産主義宣言と読んでもよい。

「暴力革命」を云々する面々は、共産党が「連合」すれば牙を剥くぞと脅しているのであるが、共産党は牙を剥くどころか、ブルジョワ議会に適応するために、革命政党としての牙を抜いているのである。政府の強制によって「牙を抜かれた」わけでもなく、自らの選択としてそうしているのである。

結果として、現在の日本共産党(以下、この意味で「現状共産党」という)は、かつての日本社会党に近い立ち位置にあると言えるだろう。共産主義社会を目指すのではなく、資本主義に相乗りつつ、護憲平和と労働者の権利擁護の限度で満足する名目的な“社会主義”路線である。社会党が事実上消滅した後に共産党が入ったと言ってもよい。

であればこそ、現状共産党は中道/保守リベラルその他諸派の離合集散態である新・立憲民主党と「連合」することも可能となっているのである。

このような牙を抜いた現状共産党をいかに評価するかは、評者自身の立ち位置次第である。真の共産主義を構想する立場からは、現状共産党はもはや真の共産主義の党ではなく、「リベラル」な修正資本主義の一党にすぎず、格別の魅力はない。

しかし、「リベラル」の立場からすれば、現状共産党は共産主義に拘泥せず、現実主義に目覚め、「リベラル」に接近してきたと見え、協力可能な歓迎すべき路線ということになるのであろう。

他方、冷戦時代のイデオロギー教本を現在も後生大切に抱懐する立場からは、共産党は牙を抜いたふりをしているだけで、いざ政権交代すれば牙を剥いてくるに違いない、排撃すべき危険政党ということにされている。

筆者は現状共産党に格別魅力を感じないが、一つ好感できるのは、選挙協力のために多数の自党候補者を取り下げながら、「連立」せず、閣外協力にとどめるとしている点である。

党派政治で選挙協力と言えば、通常は政権に加わることを想定しているが、共産党はそれを辞退している。つまり「大臣の椅子」を求めないという謙抑的姿勢である。現状共産党の路線はどうあれ、権力欲に取りつかれた党ではなさそうである。

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「承認せず関与」政策:アフガン人道危機

2021-09-15 | 時評

実質上、次の日本首相を決める与党の総裁選挙を目前に控えているが、すでに始まっている「論戦」からはアフガニスタンのアの字も聞こえてこない。否、正確にはかすかに聞こえているが、現地邦人等救出のための自衛隊法改正云々など視野の狭い議論ばかりである。

目下、アフガニスタンで起きているのは、ターリバーンが政権掌握した中、全土で国民の三人に一人が食糧難にあり、厳冬を前に大規模な飢餓が発生する恐れがあると警告されている事態である。これは人道危機である。

誰が次期首相になるにせよ、来月にも発足する新内閣にとっても、この新たな人道危機にどう対処するのかは最初の重要な外交課題の一つとなるはずで、総裁選挙でも重要なテーマに据えるべきものである。

元はと言えば、傀儡政権を見捨てていきなり全軍を引き揚げたアメリカがもたらした惨事だが、用済みとなった傀儡政権や代理政権を見捨てるのは、アメリカの歴史的な常套であり、過去にはまさにアフガニスタンで、旧ソ連と傀儡社会主義政権に抵抗したイスラーム武装勢力を利用しながら、ソ連軍が撤退するとあっさり見捨てたのもアメリカである。

そうした見捨てられた勢力の中から、アメリカに矛先を向き変え、今年で20周年の9.11事件を引き起こしたアル・カーイダのようなテロ戦争組織やターリバーンのような過激復古勢力も培養されてきた。とはいえ、目下、ワクチン義務化政策に夢中のバイデン政権に全責任を押し付けても始まらない。

諸国はターリバーンを警戒し、人道支援も停止しているというが、飢餓で大量死するのを傍観するのは、不作為による殺戮と同じであり、緩慢なジェノサイドである。

一方で人道支援を再開するためにターリバーン政権を承認することは、すでに各地で人権侵害事例が報告され、1996年‐2001年の第一次ターリバーン政権当時と径庭のない抑圧的な体制を認めることになり、ジレンマではある。

臨時政府の樹立を発表しながら、実質的な元首となるはずの宗教指導者も政府首班も姿を現さない異常な状況は、飢えた国民を人質に取って国際承認を得るための無言の戦術なのかどうか不明であるが、彼らなりに何らかの国際社会のレスポンスを求めているのかもしれない。

ターリバーンと価値観を共有できる諸国はごくわずかであるが、このような人道危機に際しては「価値観外交」は失当である。価値観を共有できずとも、「承認しないが関与する」という現実的な対応が求められるだろう。

ちなみに、ターリバーンが女性閣僚を排除したということが特別に問題視されているが、他国を非難できるほど数多くの女性閣僚を擁する諸国は少ない。日本の与党総裁選の女性候補者も、女性閣僚の比率基準は設けないと明言なさった。女性軽視の価値観は共有できるのではないだろうか。


[付記]
国際連合は13日、12億ドル(約1300億円)超の人道支援を決めたが、アフガニスタン国内は極度の通貨不足に陥っているため、米国が凍結したアフガニスタン中央銀行の在外資産約100億ドル(約1兆円)の凍結解除が必要とされる。解除ができないならば、代替として相応の追加支援が必要となる。

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ワクチン全体主義への警戒

2021-09-04 | 時評

イタリアのマリオ・ドラギ首相が2日、対象となる人全員への将来的なワクチン接種の義務化を検討すると表明した。これは「ヨーロッパ医薬品庁(EMA)が正式に新型コロナウイルスのワクチンを承認すれば」という条件付きのものではあるが、先般アメリカでも正式承認されているので、いずれ承認されるだろう。

任意接種の原則の下、ワクチン接種率が多くの諸国で頭打ちとなる中、感染力の強い変異株の登場でいわゆる集団免疫の成立に必要とされる接種率のレベルが引き上げられているため(接種率90パーセント程度)、いずれ強制接種論が出てくることは予見し得たところではある。

件のドラギ首相という人は本来は政治家でなく、財務官僚やイタリア銀行総裁、欧州中央銀行総裁なども歴任した銀行家であり、資本至上主義(通称・新自由主義)の実務者としてイタリアにおける公営企業の大規模な民営化の推進役でもあった人物である。

そうした背景の人物が首相としてワクチン接種義務化に触れたのは、経済界の意を汲んでのことであろう。経済界としては、コロナ危機を脱するうえで、経済活動を大きく制約するロックダウンよりワクチン義務化の方が好都合であり、また労務管理上も得策と見ているのである。すでに、企業独自の社内政策としてワクチン義務化を推進している社も欧米では出ているところである。

一方、日本ではそもそもワクチン供給の遅滞により義務化をうんぬんする段階ではないようだが、河野太郎担当大臣は、任意接種でも接種率6割までは達成できるが、「そこから先をどうするのかという議論はしていく必要はある」と意味深長な発言をしている(参照記事)。

河野大臣はワクチン供給の担当相であると同時に、菅首相の事実上の辞意表明に伴い、巷間の‘期待感’や自民党内第二派閥に属する立場から、近く行われる自民党総裁選に立候補した場合、次期首相への現実的な就任可能性も出てきた人物であるだけに、今後の動向が注目される。

ちなみに、この発言の対談相手である橋下徹は若者に対するワクチン義務化に肯定的で、「「差別につながる」というきれい事の話よりも、やはり日本の国を守るために若者にワクチンを普及させること。利益と結びつけて、ある意味ニンジンをぶら下げて若者にワクチンを打たせることは、必要不可欠」と発言している。

この人物が創設した現在の日本で最も資本至上主義志向の政党が次期総選挙で躍進するとの予測があり、かつ本人自身の入閣可能性もしばしば取り沙汰されてきたことも、念頭に置くべきであろう。

このように、正面から義務化を打ち出すかどうかにバリエーションはあれ、何らかの形でワクチンを義務化する潮流は、これから世界的に生じていくと予測される。それによって懸念されるのは、差別という問題以上に、医療における自己決定の自由が奪われるという問題である。

その意味で、これは国民のほぼ全員にワクチンを強制する「ワクチン全体主義」とでも呼ぶべき新たな政治経済思潮の登場である。そうした潮流が現代型全体主義国家のモデルを提供している中国ではなく、自由人権を謳う欧州から現れたとすれば、かなりのショックではあろう。*中国は(でさえ)現時点では任意接種制が建前だが、一部地方当局が強制しているとの報告あり(参照記事)。

こうした潮流に対抗できるのは、反ワクチン・デマゴーグではない。自身の売名やその他の利益が狙いのかれらは実際に義務化されれば簡単に陥落するか、すでに自身はこっそり接種を受けている可能性すらある?からである。

真に対抗できるのは、医療における自己決定権を守ろうとする個々人の社会的な抵抗力にほかならない。いくら義務化とはいえ、警官がワクチン拒否者に手錠をかけて接種場所まで引きずっていくことまではできまいし、ワクチン拒否者を片端から検挙して罰則を科するというようなことも現実的ではないからである。

しかし、それを見越して、ワクチン・イデオローグ側にも奥の手はある。文字通りの義務化ではなく、例えば、各職場の経営者や人が集まるイベントの主催者、店舗等の管理者らに、労働者や参加者・入店者のワクチン証明を求めるかどうかの裁量権を与えてしまうことである。

このような裁量的義務化政策が施行されれば、人は自分が働く/働きたい職場のほか、参加したいイベントや入店したい店舗等がワクチン証明を求める限り、嫌でも接種を受けざるを得なくなる。

敵にヒントを与えてしまうようで後ろめたいが、このような心理的間接強制の制度は、個々人の社会的な抵抗力を萎えさせる上で、直接的な強制による以上に、効果的である。こうした狡猾なやり方に抵抗するには、失業も覚悟の勇気と行きたい場所に立ち入らない忍耐とが必要になるだろう。

ワクチン全体主義に対するより究極的な抵抗力は、―全く望まないことだが―既存ワクチンが功を奏しない新たな最凶レベル変異種が登場することによりワクチンによる集団免疫論が完全に破綻し、ワクチンより治療薬の普及が求められるようになるという―ある意味では医療における正攻法の―新たな展開から生まれるだろう。

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ターリバーンの本質認識

2021-08-18 | 時評

アフガニスタンからの米軍を主体とする多国籍軍の撤退が進む中、想定以上に早い親米欧政権の崩壊と反政府武装勢力ターリバーンの全土制圧・復権が成った。

なぜこれほど早く?という問いも向けられているが、答えは簡単で、前政権は張子の虎だったからである。つまり、アメリカ自身も想定していたはずである以上に、米軍が存在しなければ、たちまち崩壊してしまうような傀儡政権だったということになる。

肝心な政府軍も政権のために血を流すつもりがなく、各地に展開していたはずの政府軍部隊が戦わずして投降したのであるから、不戦敗・不戦勝のようなものである。ターリバーンにとってみれば、まさに戦わずして勝つ孫子の兵法を地で行ったことになる。

よって、今回のターリバーンの全土制圧は、そそくさと国外に脱出した旧政権のガーニ大統領とターリバーンの間で水面下の何らかの密約があったかどうかにかかわらず、非公式ながらも平和的な政権移譲に等しいものであった。

それだけに、復刻ターリバーン政権を承認するかどうかでは、各国が難しい判断を迫られることになる。ターリバーンは表向き穏健色を打ち出しているが、これが本物かどうかの見極めが難しい。

筆者は第一次政権当時の実質に鑑みて、ターリバーン体制を現代型ファシズムの一形態として論じたことがあった(拙稿)。このような体制とどう向き合うかは、あたかもかつてのナチス・ドイツとの向き合い方に似た状況を作り出す。イギリスは当初、宥和の立場を取り、反ファシズムのはずのソ連もドイツと不可侵条約を結んだが、後に高い代償を支払うことになった。

もっとも、現ターリバーンは20年前の旧ターリバーンとはメンバー構成がある程度入れ替わっており、内部には穏健派が実際に存在する可能性もあるが、こうしたイデオロギー集団の力学の常として必ず強硬派がおり、今後、両派の間で権力闘争や内戦が生じる可能性もあるだろう。

いずれにせよ、アメリカをはじめとする米欧の旧駐留諸国は、ターリバーンの制圧を時期の遅速はあれ予測して撤退した以上、ターリバーン政権を承認しないのは自己矛盾となりかねないが、承認すれば前政権を見捨てたことを自認することになるというジレンマに直面する。

一方、中国やロシアは承認の方向に動く可能性があるが、一見ターリバーンとイデオロギー的に相容れない両国が前向きなのは、地政学的な要所にあるアフガニスタンを押さえておくという戦略のみならず、これも筆者が以前指摘したように、現在の中・露の体制が形は違えど現代型ファシズムの要件に該当し得る点で(拙稿1拙稿2)、ターリバーンとも接点を見出し得るからだとも考えられるところである。

各国ともパンデミックへの対処に追われる中、時代が再び20年前に巻き戻されたような新局面であるが、とりあえずは、中世からタイムマシンに乗ってやってきたかのような集団が現代的な政府を運営できるのか、それともかれらの「理想」どおりに中世のイスラーム国家への復古を目指すのか、お手並み拝見ということになるだろう。

いずれにせよ、以前の稿でも明言したように、ターリバーン政権の帰趨は、これを受容・服従するか、抵抗・打倒するか、アフガニスタン国民の自己決定次第である。

 

[追記]
26日、多国籍軍機による避難民移送作戦が続くカブールの空港で、米軍兵士10人以上を含む多数が死亡する自爆テロが発生した。これには1980年、隣国イランでの米大使館占拠事件で人質救出作戦に失敗し、米軍に死者を出した当時のカーター政権の既視感がある。この一件はカーターの再選に影響し、共和党レーガンの圧勝を導いた。大統領選間近だったカーターとの違いは大きいが、バイデンの失敗は、2024年大統領選で共和党トランプの復権を導く可能性もある。事後処理が注目される。

[追記2]
バイデン政権は、上掲自爆テロへの報復として、8月29日にドローン攻撃を実施したが、誤爆により子ども7人を含む民間人10人を殺害したことが判明した。鼬の最後っ屁というが、あまりに非道な屁である。

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ブログ開設10周年

2021-08-10 | 時評

当ブログも開設から今日で丸10年を迎える。開始した10年前は、東日本大震災とそれに起因する福島原子力発電所事故の衝撃が冷めやらない時であった。それに直接触発されたわけではなかったが、誰から頼まれたわけでもないのに、自身の内部から何かに突き動かされるように、主軸となる『共産論』をはじめとして、それ以前の数年間に書き溜めていたいくつかの草稿をブログ化し始めたのであった。

以来10年、この間、世界情勢や国内事情も、また筆者の個人的な状況も大きく変化した。しかし、変化しないのは、当ブログの執筆方針である。

その一つは、未来を見据えつつ、過去と現在を自在に飛び回る時空を超えた思考を辿ることである。通常、そのような時空超越はフィクションとしての小説の世界の話であるが、それをあえて論説・論文の形で実践してきた。例えば、主軸の『共産論』は明白に未来時制であるが、現在連載中の『近代革命の社会力学』は過去時制であり、不定期の時評は文字通り、現在時制である。

結果として、雑誌的というより様々なテーマで書き散らす雑記帳的ブログとなってしまった観もあるが、主軸は未来時制にある。というのも、現在という時制は厳密には存在しないからである。現在は、まさに今この瞬間に過去のものとして過ぎ去り、続々と未来が到来しているのである。

もう一つは、筆者の氏名はもちろん、プロフィールも公表しない匿名性を貫くことである。元来インターネットは匿名性を旨とするものではあるが、多くの人が実名や、少なくともプロフィールは公表して発信している中、個人にまつわる情報を一切非開示として発信を続けることは、信頼性という点で大きな制約を受けるだろう。

しかし、そうした制約を甘受しても、匿名性を貫くことにより、名前や経歴による先入見にとらわれない読み方をされることの意義を選択したのである。もっとも、当初は性別だけは公表していたのだが、筆者の性別も公表すれば、大なり小なりジェンダーバイアスにとらわれた読まれ方を避けられないので、現在は性別も非表示としている。

三つ目は、他文献の引用・参照を原則としてしないことである。もっとも、かつては乱読者として様々なジャンルの本を読み漁っていた時期があり、そうした本からの無意識的な影響により血肉化された要素が混ざり込んでいることを否定はしないから、全く純然たるオリジナリティーを主張するつもりはない。

とはいえ、当ブログは一般的な教科書・参考書類にはまず載ることがないようなアイデアの宝庫であると密かに自負している。そのうえ、筆者自身は法的著作権を放棄しているので、当ブログ内の「宝」はどなたも自由に無断でお使いいただけるのである。(ただし、骨抜きにしたり、歪曲したりすることなく、そのままの形でお使いいただくことを希望はしている。)

四つ目は、読者におもねらないことである。とかくアクセス数なる指標が幅を利かせるインターネット世界では、伝統的な紙書籍の世界以上に、あの手この手で読者の気を引こうとする刺激的な言説が溢れているが、当ブログはそうした趨勢には背を向け、いわゆるSNSとの連携も避け、テーマ的にも論調的にも一般読者の関心を引きそうにない発信を細々と続けてきた。

結果として、当ブログは本線に連絡していないローカル線の秘境駅のようなブログとなっているが、そのわりには、―あくまでも10年間の累計とはいえ―当初の想定を超えた存外に多くのアクセスをいただいてきたように思える。これには素直に感謝すべきかもしれないが、当ブログはたくさんのアクセスを受けることより、筆者自身の思考の足跡を残すということに最大の目的を置いているので、アクセスに対して感謝するという常識的礼儀も脇に置かざるを得ないのである。

五つ目は、出来得る限りで正統的な日本語による文章体を確立することである。その点、インターネット世界は本質的に書き言葉の世界でありながら、文法的に型崩れした口語体(しばしば絵文字も)が混ざった独特の文体が幅を利かせている。そのことを非難するつもりはなく、そうした文体がふさわしい場(サイト)もあるのだろうが、当ブログでは可能な限り正統的な日本語による、―しかし古風な文語体の復活ではなく―現代にふさわしい文章体の創出を心がけてきたつもりである。

結果として、当ブログの文章は生硬で、近年のインターネット文体に慣れ親しんでいる向きには読みづらく、取っつきにくいものとなっているやもしれず、そのこともアクセスを制約しているであろうが、この点でも、アクセス獲得ということに重きを置かない当ブログにおいては重要な問題とはならない。

さて、次の10年が来れば20周年であるが、おそらく2031年に20周年を画する時評は載らないだろう。実際のところ、主軸の『共産論』とその周辺問題に係る連載がおおむね終了している現在、当ブログは実質的な役割を終えているからである。現在継続中の連載が順次完了すれば、当ブログはほぼ寿命を迎える。ただし、筆者が目下のパンデミックを何とか切り抜け、生き延びることができればの話である。

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ウイルス起源問題の政治化

2021-08-07 | 時評

5日、米諜報機関が新型コロナウイルスをめぐり、かねてより流出説が囁かれてきた中国・武漢のウイルス研究所が扱っていたウイルスのサンプルの遺伝子情報を含む膨大なデータを入手したとCNNが報じたことで、ウイルス起源問題が再燃し、かつ政治化される危険が高まってきた。

この動きは、バイデン米大統領が5月にウイルスの起源に関して90日以内に調査し、報告するよう諜報機関に対して命じていたことに対応するものとされるが、そもそもウイルスの起源という科学的な問題の調査を諜報機関に託すということが問題の政治化を意味していた。

諜報機関は、国益のために都合の良い情報工作をすることを活動目的としている機関である。アメリカは現時点でも、累計感染者数・死者数いずれも堂々の世界トップにあるから、諜報機関の工作によりウイルスの研究所流出説を打ち出すことができれば、アメリカは中国の最大の「被害国」だったということになり、中国に対して優位に立てると打算されているのだろう。

とりわけ、以前から陰謀説として取り沙汰されてきた生物兵器説を打ち出せれば、戦争に持ち込むことさえ可能になる。もっとも、ウイルス自体が人工的に製造された生物兵器だったとする説はいささか荒唐無稽であるが、生物兵器用に採取あるいは人工合成していたウイルスの取り扱い上のミスによって流出したとする説なら、ある程度の信憑性を持たせることが可能である。

そうなると、ちょうど2003年に当時のイラク政権が大量破壊兵器を秘密保持しているとの情報操作により戦争を発動したのと同様の仕掛けで、対中戦争を発動するか、少なくとも米中冷戦のような局面を作り出すことは可能になるだろう。

あるいは生物兵器説は無理筋としても、純粋の科学的研究目的ではあったが、やはり取り扱い上のミスにより流出したとする説であれば、より説得性を持たせることができる。この線で行った場合も、アメリカは中国の過失による最大の被害国であったことになるから、やはり中国に対して優位に立つことができるだろう。

いずれにせよ、こうしたバイデン政権によるウイルス起源問題の政治化の動きは、かつてCOVID-19を「中国ウイルス」と指称し、自国の無策・失策を中国に転訛する戦術を取ったトランプ前大統領を猛批判して当選したバイデン大統領が、実はトランプ政権の戦術をこっそり継承していることを示唆するものである。

これに対して、純粋に科学的な観点からのウイルス起源問題の探求は無価値ではない。とはいえ、目下のパンデミックを収束させるうえで、起源問題は役に立たない。将来のパンデミックの再発防止のためなら役立つという意義はあるが、そのためには中立的な多国籍構成の科学者団による徹底した科学調査を要し、中国側の全面協力も欠かせない。

現状それが望めないため、米諜報機関はおそらく何らかの超法規的手法を用いて研究所の内部資料・データ等を入手したのであろうが、それならば、結論を出す前に、取得した情報は世界の幅広い研究者にも開示するなどして、科学的な観点からの検証を経るべきだろう。90日というような形式的期限も無用である。

その解析結果いかんでは、目下のパンデミックの性格が一変する爆弾情報である。目下、パンデミックは自然現象という前提でとらえられているからである。研究所流出となれば、人為的な惨事だったことになり、一気に国際的な政治問題化し、戦争的な局面をさえ迎えることもあり得るだけに、慎重さが求められる。

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テレビ観戦拒否宣言

2021-07-24 | 時評

中止されないだろうと予見してはいたものの、理性的に考える限り誰も望まないはずの感染症パンデミック下でのオリンピック(パンデリンピック:pandelympic)がなぜ強行されることになったのか、考えあぐねてきた。

表層的には、いろいろな説明がされている。放映権料収入を確保したいIOCの算盤勘定、政権浮揚につなげたい与党の政治的打算、中止した場合に発生するするとされる違約金や賠償金(発生しないとの説も)の負担を回避したい組織委員会や東京都の金銭的打算、栄冠のチャンスを逃したくない出場選手たちの名誉欲等々。

しかし、どれも決定因とは思えない。結局のところ、これはもはやもっと集団的な人類=ホモ・サピエンス種の特性から考えるほかなさそうである。―以下は人類の生物種としての全般的な傾向を指摘するもので、ホモ・サピエンス種に属する個々人皆さんが以下のようだと言いたいのではないので、お気を悪くなさらないよう。

第一は、利己性が利他性を凌駕してしまったこと。すなわち、如上の様々な勘定・打算・計算・欲望とは要するに自己利益の確保に走る人類の本性の一端を示している。

一方、人類は時に自己利益を犠牲にしてでも、他人のために尽くそうとする心性=利他性をも持つ。今回で言えば、コロナ感染症の拡大を防止することや、現に感染して苦しみ、あるいは死の床にある人々を慮って、五輪中止を決断することであるが、残念ながら、そうした利他性は利己性の前に敗れ去ったように見える。

第二は、遊興なしには生きられないホモ・ルーデンス(homo ludens:遊興人)としての人類の本性が優勢化したこと。

近代オリンピックの創始者で、教育者・歴史家でもあったピエール・ド・クーベルタンは崇高な理念を掲げ、それは五輪憲章にも継承されているけれども、莫大な費用と労力を要し、負担が大きいばかりの五輪が消滅することなく、100年以上も続いてきたのは、崇高な理念のゆえというよりも、五輪の祭典としての面白さのゆえであり、まさにホモ・ルーデンスとしての人類の本性にマッチしていたせいである。

とはいえ、今回はさすがに事前の国内世論調査では中止論が8割などという数字が上がっていたが、一方で緊急事態宣言下でも休日の人出は顕著に減らず、中止世論との矛盾が見られたのも、ホモ・ルーデンスの本領発揮である。国際世論においても、圧力となるほどの中止論は見られず、結局、IOCはそうした日本内外の情勢に照らし、世界の人々は本気で中止を望んではいないとにらんで、開催を強行できると踏んだのである。

第三は、非理性が理性を凌駕してしまったこと。人類は理性的な存在ではあるが、常に純粋理性的に判断し、行動するわけではない。

これは先の第一と第二の分析とも関連することであるが、利己性やホモ・ルーデンスとしての本性は理性よりも非理性としての感覚やある種の本能に属する人類性向であるところ、今回はそうした非理性の要素が理性に打ち克ってしまったのである。

その点、大会モットーUnited by Emotionは象徴的である。この英語表現については、「『Emotion』は、制御の効かない不安定な感情を指す言葉です。そのため英語の世界では、『気紛れで不安な感情で結ばれて』というとんちんかんなモットーになってしまうのです」という英語通からの指摘もある(元外交官・多賀敏行氏)。とすれば、かえってパンデリンピックにはふさわしい意味での“エモーション”が支配する大会である。

さて、私はと言えば、自身もホモ・サピエンス種に属する一個人ではあるが、今回は人類性向に背くことにした。すなわち、強行されるパンデリンピックへの抗議を込めて、推奨されているテレビ観戦をも拒否する。これが一介の民草にできる最も簡単な抵抗行動だからである。

パンデリンピックの経済的利益の中でも最も中心的なものは、IOCに転がり込むテレビの放映権料だと言われているから、そうした言わばテレビ利権への抗議として、五輪をテレビ観戦しなければよいのである。

もっとも、テレビ利権の中核はアメリカのテレビ局であるから、日本人が日本のテレビ局による五輪中継を観なくても、抗議としての効果は薄いだろう。よって、同様の行動を他人に勧めるつもりはなく、たった独りの市民的抵抗である。

ただし、7月22日までは中止論だった人が、23日以降は一転してテレビ観戦はするというのでは言行不一致もしくはあまりにすばやすぎる変わり身であるということだけは言わせていただきたい。


[蛇足]
理性的判断ができなくなっている主催者総体がパンデリンピックの途中止を決断する可能性は低いと見るが、それでもせめてもの判断基準として、選手間の感染が拡大し、特に外国選手の感染が相次ぎ、脱落者が続出することにより、結果として日本人選手が表彰台を独占しかねない状況に達した時には、もはや国際大会としての意義を失うので、途中止を決断すべきである。
しかし、深読みすれば、日本政府筋などは、日本人選手の表彰台独占となれば、かえってパンデミックに打ち克って好成績を上げた日本人選手の活躍、ひいては日本の感染症対策の的確性を「世界に誇る」という形で五輪成功を内外にアピールできると逆算段しているかもしれない。

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ワクチン・プロパガンダ合戦

2021-07-18 | 時評

COVID‐19パンデミックも第二年度後半に突入し、もはやロックダウン(もどきを含む)によっても感染拡大防止効果を期待できず、ワクチンの普及が唯一の出口戦略となる中、ワクチンをめぐる世界の公衆衛生イデオローグと反ワクチン・デマゴーグのプロパガンダ合戦も熾烈になってきている。

公衆衛生イデオローグらは、かれらが期待する集団免疫の獲得のため接種率を上げようと、ワクチンの有効性と安全性の宣伝に躍起となっているが、政府機関や学術団体等の公式ウェブサイトなどを通じたワクチン宣伝工作はかえって逆効果である。

というのも、反ワクチン・デマゴーグとそのフォロワーらは、まさにそうした当局発表やそれに近い権威団体の情宣を最も信用しないからである。海外のある放送局のニュース番組で、解説者が「ワクチンに関する誤情報が最悪の形で“民主化”されている」と巧みに表現していたが、まさにその通りの事態である。

反ワクチン・デマゴーグの意図はよくわからないが、たいていは「反権力」のポーズを取りつつ、民衆の守護者を装って支持者を獲得し、名声や場合により関連書籍出版、ウェブサイトの広告収入などの個人的利益を狙っていると見える。

一方、民衆にとって、ワクチンへの不安は歴史的なものである。遡れば、ワクチンの元祖エドワード・ジェンナーが開発した牛痘接種による天然痘予防策にしても、当初は「牛痘を打つと、牛に変えられる」などという俗説が流布され、忌避者が出た。

伝統的なワクチンは細菌やウイルスなどの病原体をあえて人体に注入することで抗体を形成し予防するという逆説的な発想に基づく薬剤であるから、不安を助長しやすい。チンパンジーの風邪ウイルスを注入するアストラゼネカ製ワクチンも、この伝統型ワクチンに近い。

しかし、現在主流的となっているファイザー製とモデルナ製は遺伝物質メッセンジャーRNAの一部を接種することにより、体内でウイルスのたんぱく質を作成して免疫機能を刺激し、抗体を形成するという新しいタイプのワクチンであるが、このような新世代ワクチンも、遺伝子操作されるのではといった不安(「牛に変えられる」の遺伝子バージョン?)を惹起する。

こうした民衆の不安に付け込み、それを煽るのが反ワクチン・デマゴーグの手法である。さすがに、「牛痘接種で牛になる」というレベルの言説では通用しない現代のデマゴーグは、門外漢にとって真偽の判定が難しい疑似科学的言説を駆使する。*従って、真正な科学的根拠に基づきワクチンの問題性を指摘する言説を展開する者は、ここで言う反ワクチン・デマゴーグに当たらない。

それに対抗しようと、権力や権威にもの言わせて無条件的にワクチンの有効性・安全性を宣伝するイデオローグの手法に陥ることなく、ワクチンに関する客観的な理解を人々に浸透させる方法として、最低限度、次のことを提言する。


〇接種全般の意義について

 通常の治験の手順を同時進行する形でスピード承認されたワクチンの接種は、事後的な一種の集団的治験を兼ねていることを率直に認めること。👉現段階で接種を受けることは、そうした事後的治験に参加するに等しいことを周知させる。

〇有効性について

 †有効性(有効率)とは、承認前の治験で、ワクチンを接種されたグループと偽薬(プラセボ)を接種されたグループを比較した場合の感染率の差を表しているにすぎないことを明確に説明すること。👉有効性に関する過大な期待を与えない。

 †集団接種の開始から少なくとも一年を経た後に、新規感染者数や重症化率・死亡率等の推移のデータを基に結論づけること。👉現段階での暫定有効性を認めても、無条件に有効性を宣伝しない。

〇安全性について

 †接種後、接種者に起きた有害事象は、接種との因果関係の有無を問わず、全件情報開示すること。👉副反応かどうかは、情報開示後に時間をかけて検証する。

 †有害事象が起こりやすい人の類型(年齢層や性別、既往歴、基礎疾患、体質等)を抽出し、接種するかどうかの各自の判断材料に供すること。👉接種の任意性を万全に担保する。

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鬼門としてのアフガニスタン

2021-07-11 | 時評

アフガニスタンで、米軍を主体とする外国駐留軍の完全撤退が完了に近づいている。これに合わせて、20年前に米軍主体の有志連合軍によって駆逐されたイスラーム過激勢力ターリバーンの攻勢が強まり、同勢力の全土再征服、親米政権の崩壊も視野に入ってきている。

このような展開には、既視感がある。約30年前、当時アフガニスタンの親ソ政権を支援していたソ連軍の完全撤退である。この時も、ほどなくして親ソ政権の崩壊、イスラーム連合政権の成立が続いた。ターリバーンは、この流れの終着点として、不安定なイスラーム連合政権を打倒して現れた新興勢力であった。

ソ連軍は1979年の軍事介入以来、10年越しの駐留も虚しく、多くの犠牲を払った末に、成果を上げずに撤退に追い込まれたが、米軍(有志連合軍だが、圧倒的中心の米軍で代表させる)は海外での戦争史上最長の20年に及ぶ駐留も虚しく、撤退することになる。ベトナム戦争以来のアメリカが事実上敗北した戦争となる。

もっとも、アメリカとしては、当初の侵攻の大義名分であったターリバーンと反米国際テロ組織のコネクションが断ち切られ、ターリバーンが反米的な国際テロと関わらず、アフガニスタン固有のローカル勢力にとどまるなら、よしとする打算なのだろうが、ターリバーンは今なお国際テロ組織アル・カーイダと連携しているとされており、今後、撤退方針の撤回ないしは再侵攻の余地も残されていよう。

それにしても、アフガニスタンは、歴史上時々の覇権大国にとっては鬼門と言える場所である。遡れば、19世紀、当時の帝国主義覇権大国だったイギリスは帝政ロシアと争っていた西アジアにおける覇権確保のため、アフガニスタンと三度も戦火を交えたが、完全に征服することはできなかった。

次いで、20世紀、米ソ冷戦下で東側盟主となっていたソ連は、中央アジア領土に接続するアフガニスタンに革命が勃発し親ソ社会主義政権が樹立されると、これを衛星国化すべく、政権の内紛に乗じて軍事介入した。その後、反政府蜂起したイスラーム武装勢力との内戦を支援するため、10年駐留を続けたが、勝利することはできず、この敗北はソ連自身の崩壊の間接要因ともなった。

さらに、冷戦終結・ソ連解体後の21世紀、「唯一の超大国」となったアメリカは、本土での同時多発テロ9.11事件の首謀集団と目されたアル‐カーイダを庇護していた当時のターリバーン政権を打倒すべく、軍事介入し、親米政権に立て替え、その後も20年駐留を続けたが、再び反政府武装勢力に戻ったターリバーンを壊滅させることはできなかった。

かくして、19・20・21世紀と、各世紀において最高レベルの軍事力を備えた覇権大国すべてがそろいもそろって征服に失敗した国は他に例がない。その要因として、アフガニスタン多数派民族であるパシュトゥン人の部族的紐帯に基づいた精神力と山岳ゲリラ戦に長けた戦闘能力を大国の側が見損なってきたことがある。

今後の展開は読みにくいが、勢いを増しているターリバーンは旧政権勢力当時よりは穏健色を見せてはいるものの、本質的には反近代主義の宗教反動勢力であることに変わりない。もしかれらが再び全土制圧し、政権勢力となれば、1970ー80年代の社会主義政権時代に大きく進展し、過去20年の世俗主義(または穏健イスラーム主義)政権時代に一定復活した近代化の成果面が反故にされる危険もある。

しかし、そうした流れを受容するのか、市民的抵抗や民衆革命その他の方法をもって対峙するのかはアフガニスタン国民が自主的に決めることであり、もはや大国が介入し、左右すべきではない。三つの歴史的な大国すべてがそろって失敗した今、大国も学んだことだろう。

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バイデン政権の冷戦もどき思考

2021-04-30 | 時評

昨年の大統領選挙と、今年の議事堂乱入事件の混乱を経てバイデン政権が発足し、最初の試運転期間の就任100日を過ぎて、その性格が徐々に浮かび上がってきている。

とはいえ、この間の焦点は圧倒的に現下のコロナ対応にあったため、まだ明瞭な性格はとらえにくいが、そうした中でも、外交面ではロシア/中国への対決姿勢が目立つ。また、多分にして儀礼的ながら、米日同盟再確認・強化の姿勢も見られた。

こうした方向性は冷戦時代を思い起こさせ、どこか1980年代のレーガン‐ブッシュ(父)時代の既視感がある。1973年から2009年まで連続して合衆国上院議員を務めたバイデン氏自身、少壮政治家として冷戦時代の後半期・末期を経験しているので、無理もないだろう。

しかし、現在の世界秩序は冷戦時代とは異なる。再生ロシアはソ連時代とは比較にならないほど縮小され、同盟の盟主でもない。しかも、トランプ前大統領が選挙戦での癒着を疑われたほど、現在のロシアはアメリカ全体にとっての敵国ではなく、むしろプーチンのファッショ的な愛国独裁体制はトランプに乗っ取られた共和党の現行路線ともだぶり、親和的ですらある。

中国はかつてのソ連に代わる超大国として台頭しているように見えるが、しかし、旧ソ連と決定的に異なるのは、現在の中国は事実上の資本主義の道を歩み、世界市場に参入していて、アメリカとは貿易上のライバル関係にあるということである。そして、ロシアと同様、中国も同盟の盟主ではない。

中国とロシアは目下友好的で、共同歩調を取ることが多いとはいえ、互いに束縛されたくないので、運命共同体的な同盟関係を結ぶことはなく、別個の存在であり続けるだろう。

その点、アメリカもまた欧州連合の創設以来、西側盟主としての地位を保持できなくなり、友好的な中でも経済的には欧州連合との競争関係にさらされている。ここでも、欧州連合とアメリカは運命共同的な同盟関係を結ぶことはないだろう。*ただし、欧州連合を脱退したイギリスと、従来の慣例を越えた米英同盟を改めて結ぶかどうかは、今後の注目点である。

内政面でも共和党との超党派的な政治を掲げるバイデン大統領だが、この超党派政治もまた冷戦時代、民主・共和両党の共通敵としてソ連が想定されていた時代の産物であり、上院議員時代のバイデン氏はその超党派政治の象徴でもあったことから、昔懐かしいのかもしれない。

しかし、共通敵・ソ連は消え、かつトランプにより共和党が実質的な白人極右政党と化した現在、もはや超党派政治はかつてのようには機能しないだろう。

前任者と違い、バイデン大統領は好々爺に見えるが、冷戦もどきの時代認識の古さは否めない。トランプを否定するあまりに、アメリカ有権者は冷戦時代の亡霊を呼び戻したようである。これは前進でなく、後退である。

ここには、古典的な二大政党政から脱却できず、常に二大政党政の枠内で無限ループを繰り返し、前進することができないアメリカの深刻な閉塞状況が看て取れる。

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香港の皮肉な逆説

2021-04-01 | 時評

3月30日、中国当局が香港における選挙制度を改変し、立法会(議会)の直接選挙枠を定数の約2割に縮小すること、行政長官を選ぶ選挙委員会がすべての立法会議員候補を指名すること、治安機関も加わって候補者の資格を審査することなどを柱とする新制度を創設した。

これによって、中央政府が忌避する人物の立候補は制度的に排除されることとなり、中央政府の宿願どおり、香港を中央政府の完全な統制下に置くことが可能となる。これは、1997年の返還以来、香港にとって画期となる新段階である。

振り返れば、香港では長い英国植民統治の末期に、英国モデルの直接選挙による議会制度が遅ればせながら限定的に導入され、返還直前に、言わば置き土産のような形で直接選挙枠を拡大して中国政府に引き渡された。

中国政府は返還交渉に際して、50年間の現状維持(いわゆる一国二制度)を公約したとはいえ、わざとらしい置き土産の英国モデルには初めから反発を示していた。

その後の対処としては、香港でも共産党を組織し、立法会選挙に参加する方法と、中央政府の代理政党を通じて立法会を間接的に統制する方法の二つがあり得たところ、中国政府は後者を選択した。前者を選択して、もし共産党が惨敗することがあれば、体面を失うからであろう。

しばらくは、このような間接統治が機能していたが、近年、主として返還後に生まれた青年層を主体とする民主化運動の高揚に直面し、少なくとも政治制度面では公約の実質的な修正に踏み切ったものと見られる。

おそらく、中国政府としては「現状維持」公約の期限である返還50周年(2047年)を迎える前に、香港をシンガポールのような政治的に厳しく統制された資本主義都市として再編したい考えであろう。そうしておけば、50周年を待って現状を変更し、正式に共産党統治下に編入しやすくなるからである。

かくして、不当な植民地支配下で種をまかれた香港の民主主義が、正当な返還後、本土並みの全体主義へ移行しようとしているのである。ここには、歴史の皮肉な逆説がある。英国モデルの議会制を求める若い民主運動家にとっては、かれらが知らない英国植民地時代のほうがよかったということになりかねない。

ただ、共産党支配下の中国へ返還された以上、いつかこうなることは必然だったと冷めた見方をすることもできる。中共が、香港に「民主主義特区」を許すとは考えられない。そうした特別扱いは、本土にも民主化運動を伝染させることになりかねないからである。

一方、民主化運動にとっては冬の時代となるが、それはチャンスでもある。英国モデルが民主主義の到達点なのではない。立法会から締め出されることで、民衆会議のような新しい民主的対抗権力の創設への道も拓かれるからである。香港青年層の真剣さと柔軟さに期待したい。

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札幌地裁の革新性

2021-03-20 | 時評

1973年、札幌地方裁判所で国を狼狽させる一つの判決が下された。航空自衛隊基地の建設に反対する長沼町民が国を提訴し、自衛隊の憲法適合性が主要な争点となったいわゆる長沼事件で、地裁は「自衛隊は憲法第9条が禁ずる陸海空軍に該当し違憲である」と断じたのである。

自衛隊発足当初ならともかく、当時、すでに発足から20年近い時を経ており、自衛隊は「定着」しているはずだったところへ突然の違憲判決であるから、国にとっては青天の霹靂だった。

それから48年の時を経て、2021年3月、同じ札幌地裁で、また国を慌てさせる大胆な判決が下された。今度は、婚姻を異性間に限定する民法の規定の憲法適合性が争点となった事件で、「同性愛者間の婚姻を認めないのは差別にあたり、憲法14条に違反する」と断ずる判決が下された。

異性間婚姻は家族の根幹に関わる制度と認識され、保守政権にとっては譲ることのできない合憲的制度のはずであるから、今般の判決も霹靂であったろう。一個の下級審判決にもかかわらず、わざわざ自民党政務調査会長が「社会の混乱につながる」などと声明で批判したほどである。

ところで、冒頭の長沼判決は、国側によって直ちに控訴され、札幌高等裁判所は、一転して原告の請求を棄却しつつ、「高度に政治性のある国家行為は、極めて明白に違憲無効であると認められない限り、司法審査の範囲外にある」とする統治行為の理論を持ち出し、憲法審査を回避してしまった。最高裁判所も二審判決を支持しつつ、憲法問題には一切触れず結審した。

こうして一審札幌地裁の大胆な違憲判決は宙に浮いたまま、一介の下級審判決として忘れ去られることになった。それだけでは終わらず、一審の裁判長を務めた福島重雄判事はその後、一度も裁判長となることなく、地裁や家裁を転々とさせられた挙句、退官した。人事の性質上、明確な証拠はないが、自衛隊違憲判決も一つの理由とする左遷人事と見られる。

時を経て同じ札幌地裁で下された二つの判決は扱う問題も時代も異なるが、共に論争の的となる革新的な内容を持つ判決という点では共通性を持つ。ただし、原告住民の請求を認めたため、国側が控訴した長沼判決とは異なり、今回の同性婚判決では原告の国家賠償請求自体は棄却したため、原告側が控訴する形で高裁に持ち込まれる可能性がある。

その後の展開は予測がつかないが、地裁の革新的な判決を上級の高裁・最高裁が保守政権寄りの立場をとって覆してしまうことは日本ではよく見られることである。今回も同じ轍を踏むのだろうか。さらに、今般の判決に関わった武部知子裁判長の今後の処遇は?

「自由」と「民主」という二つの理念を党名に冠する党―欧州の文脈なら、それは中道リベラル政党と認識される―が1973年当時も、2021年現在も政権の座にある国で、そのようなことを懸念しなければならないのは、海外から見れば不可解と映ることだろう。

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アメリカン・ファシズムの中絶

2021-01-21 | 時評

トランプ大統領に同調し、昨年度の大統領選挙が「盗まれた」と主張するトランプ支持者による連邦議事堂乱入事件という珍騒動の余波が続く中、トランプが一期のみでとりあえずはおとなしくホワイトハウスを退去したことは、彼が体現したアメリカン・ファシズムが「中絶」されたことを意味している。

ここでの「中絶」には、二義ある。一つは、産出の阻止である。とはいえ、過去四年間でかなりの大きさに育ったファシズム胎児の掻爬となったため、母体であるアメリカ社会に大きな副作用も起こしている。乱入事件はそのハイライトと言ってよい。

いまだにバイデンを正当な新大統領と認めない者が、共和党支持者の多数を占める。このような選挙結果に対する認識をめぐる分断は、アメリカが誇ってきた選挙政治の終わりの始まりを象徴している。

もう一つの意味は、中断である。大統領自身がお別れビデオ・メッセージで、「我々の運動は始まったばかり」と意味深長に語ったように、2024年大統領選挙での返り咲きへ向けたトランプ復権運動は続く可能性がある。

その間、アメリカン・ファシズムはトランプとともにいったん下野し、民間でより組織化される可能性もあるだろう。今後、バイデン政権下でも、トランプ支持者の騒乱は続く恐れがある。それに対抗して、バイデン政権が警察的抑圧を強めれば、警察国家化がいっそう進展することにもなり、アメリカが誇る「自由」は侵食されていくだろう。

いずれにせよ、アメリカン・ファシズムはひとまず「中絶」されたことに変わりないが、なぜそうなったのか、トランプ大統領の再選失敗の要因や如何に。技術的な選挙戦術論を離れて、ファシズム運動の観点から振り返ると、要するに、トランプはヒトラーになり切れなかったということである。具体的には(以下、箇条文では主語の「トランプは」を省略)━

 共和党の精神的な乗っ取りには成功したが、組織的には完全に私物化できなかった。これは、一元的な党首と集権的な組織を持たず、政治クラブに近いアメリカ的な政党の特質のせいでもある。その点、議席もないマイナー政党に過ぎなかったナチ党を乗っ取ったヒトラーとは対照的。

 ナチス親衛隊のような忠実かつ有能な武装組織を創設しなかった。雑多な親衛集団による議事堂乱入のお粗末な失敗はそのせいであるが、これではまるで失敗に終わった初期ナチスのミュンヘン一揆のよう。ミュンヘン一揆はナチスの選挙参加方針以前の無謀な戦術だったが、トランプ親衛集団は大統領選挙での敗退後に一揆を起こすという勘違いをして自滅、今後、トランプ自身が扇動容疑で弾劾または刑事訴追もされかねないリスクを背負うことに。

 現行憲法の廃棄、少なくとも修正に踏み込まなかった。ワイマール憲法下の首相に就任した直後に共産主義者による議事堂放火テロ事件をでっちあげ、それを口実に非常事態令を敷き、民主的なワイマール憲法を廃棄、全権委任法を導入したヒトラーとは対照的に、独裁を許さない18世紀の三権分立憲法を保持したままであった。

 家族を頼らなかったヒトラーとは対照的に、長く携わった同族企業のやり方を持ち込み、娘夫婦や息子のような家族に頼ったため、才覚ある参謀も周囲に集まらなかった。

アメリカン・ファシズムの継続と復活があり得るかどうかは、さしあたり、有罪となれば大統領職を含む連邦公職就任権を剥奪される可能性のある二度目の上院弾劾裁判をトランプ前大統領が乗り切れるかどうかにかかる。

しかし、歴史上初となる弾劾が成立して、連邦公職就任権が剥奪されても、トランプ支持者をいっそう激高・結束させ、事実上の後継者となる「第二のトランプ」が、彼の家族を含めた周辺、あるいは外部からも現れる危険性はある。それほどに、アメリカン・ファシズムの土壌は大きく育っている。

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