ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

おばあちゃんの挑発的卒業旅行

2022-08-06 | 時評

NATOが中国を仮想敵と見定めたのに続き、今度はアメリカのナンシー・ペロシ下院議長の訪台により、中国が台湾への軍事的威嚇を強めたことで、第二次冷戦はいよいよ本格化したと見てよいであろう。

それにしてもなぜ、この時期に米下院議長の訪台なのか。

大統領継承順位第二位の下院議長によるこの時期の訪台が「一つの中国」テーゼに固執する中国を刺激し、緊張を高めることを理解していなかったとすれば、あまりに外交音痴であるし、理解しながらあえて訪台したとすれば政治的な挑発行動である。

ワシントンの古株で政治に長けたペロシ氏にとって名誉な推測は後者であるから、後者の前提に立って改めて今般訪台の狙いを我流に推測すると━

御年82歳のペロシ氏は来年の退任が見込まれているため、言わば「卒業旅行」として訪台を選んだように見える。物議を醸し、世界の注目を集めるからである。職業政治家は注目を引くためならどんなことでもするものだ。

一方、御年79歳のバイデン米大統領も支持率低迷が続き、今年11月予定の下院中間選挙では与党民主党の劣勢が予想されていることもあり、民主党の下院議長をあえて台湾に送り込み、中国を挑発して緊張を高める一種の瀬戸際政策で政権浮揚を図ろうという政治的打算も窺える。

立法・行政双方のトップ老人の思惑が一致しての「卒業旅行」となった―。そのように見立てることができる。第二次冷戦を回避するどころか、助長することで個人の実績作りや政権浮揚に利用する。党派政治家の考えそうなことである。

当然ながら、西側では中国の軍事的威嚇を非難する合唱が起きているが、挑発による場合は挑発した側が第一次的な責めを負う。現実に台湾海峡で軍事衝突が起きれば、それは「おばあちゃんの挑発的卒業旅行」が招いたことになる。

しかし、今や西側は衝突を望んでいるようにすら見える。日本も例外でなく、「台湾有事」は故・安倍氏が進めた安保法制の最初の発動事例となり得るので、手ぐすね引いて待っているかのようである。

「おばあちゃんの挑発的卒業旅行」は、平和を希求する世界民衆にとっては、迷惑極まる旅行であった。

 

[付記]
日本共産党が中国の台湾への軍事的威嚇を非難するのは理解できるが(参照声明)、それがペロシ氏の挑発的訪台を契機としていることを批判しないのは片面的であり、日本を含む西側諸国の公式立場と径庭ないものである。

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松本清張没後30周年

2022-08-04 | 時評

今日で、作家・松本清張没後30周年である。30年と言えば一世代であるから、清張もすでに一世代前の昭和の作家ということになるが、依然として主要作の文庫本が広く流通し、清張作品をベースとするドラマなども制作されているところを見ると、没後一世代を経ても息長く読み継がれている稀有の作家である。

筆者もかつて清張文学を愛読した時期があったが、その頃は娯楽小説的に上滑りな読みをしていたように思える。今、改めて読み直してみると、清張は戦後日本で最高のリアリズム文学の生産者ではなかったかと感じる。

リアリズムといってもいわゆるプロレタリア文学とは明確な一線を画した、階級横断的な普遍性と娯楽性も備えた「反骨リアリズム」といったものである。あえて欠点―見方によっては長所―を言えば、リアル過ぎて耽美さゼロ、砂を噛むような文体になることが多い点だろうか。

松本文学は時事的あるいは歴史的な社会問題に切り込む社会批判(時に風刺)を伴った啓発性と娯楽性とを兼ね備えている点でも稀有と言える。通常、小説に啓発性を持たせれば文章は説教調となり、娯楽性を追求すれば啓発性は脇に置かざるを得ず、両要素の両立は困難なはずだからである。

その意味で清張を「推理作家」とみなすのは、正確と思えない。まして「ミステリー作家」ではない。「社会派推理作家」という呼び方もあるようだが、清張作品はそのジャンルが広汎かつ総合的であり、いちおう推理小説に分類できる作品であっても、そこには何らかの社会批判が込められており、単なる推理小説以上のものである。

清張作品が描く舞台は清張全盛期の昭和30乃至40年代が中心だが、その舞台は昭和中期の懐かしくもまだ貧困が遍在していた時代の香りを放つと同時に、主題的には今日性を失っていない。没後30年を経ても多くの作品がまだ読み継がれ、TVドラマ化も続いてきたゆえんであろう。

稀有の作家であり、昭和の文豪―文豪と呼び得る最後の一人かもしれない―に含めてよい存在である。従って、清張の推理小説ジャンルの部分的な継承作家はあっても、歴史小説やノンフィクション作品をも含めた真の継承者と呼び得る日本語作家はこれまでのところ存在しない。

海外に取材し、外国を舞台にした作品も少なくなく、広い国際的視野を備えていた点でも、日本語作家としては稀有の存在であり、海外でももっと翻訳紹介される価値があるだろう。その文体は平明かつ論理的であるため、英語をはじめ日本語と系統を異にする外語への翻訳はそう困難ではないはずである。

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ガンマン合衆国の「正義」とは?

2022-08-03 | 時評

アメリカのバイデン大統領が1日、9.11事件を計画実行したとされる国際テロ組織アル・カーイダの二代目指導者アイマン・ザワヒリ容疑者を殺害したことを公表した(作戦実行は先月31日)。

2011年5月に当時のオバマ政権が実行した初代指導者ウサマ・ビン・ラディン容疑者の殺害ほど話題にならない二番煎じではあったが、組織の二代の指導者をいずれも殺害したことは、政権が代わっても変わらぬアメリカという国の本質を示す出来事と言える。

どちらの殺害に際しても、両大統領は「正義がなされた」と豪語してみせた。容疑者として国際手配されていた人物を殺害することが「正義」であるというのは理解し難いロジックであるが(オバマが憲法学者でもあることを考えれば猶更)、これがガンマン国家アメリカの対処法なのである。

無法の開拓時代が遠い過去となっても、アメリカでは悪人をその場で殺すことは正義であるから、国内で凶悪犯を警察官が現場で射殺するのと同様の感覚で、凶悪な国際テロリストを殺しても、何ら批判は受けない。

実際、アル‐カーイダの両指導者はテロ犯罪の被疑者として国際手配されていたからには、本来なら捜査機関が身柄を拘束したうえで、法廷に起訴すべき存在であるはずのところ、アメリカが軍やCIAなどの軍事・諜報機関主導の作戦で臨むのは、初めから逮捕でなく、殺害を狙っているからにほかならない。

要するに、裁判なしの処刑に等しいことであり、端的に言えば暗殺である。そうしたやり方を「正義」として正当化するのは、まさにテロ行為を「正義」と呼ぶ組織と相似形の発想によるものである。無法行為も国家機関が実行すれば合法になるという手品は存在しない。他のテロ組織に対しても同様の作戦を展開し続けるアメリカも、暗殺作戦のアル・カーイダ(=大本営)と化している。

もちろん、相手は重武装しており、逮捕に抵抗し応戦してくる可能性が高く、そもそも生け捕りにすることは技術的に至難であるという理屈にも一理とは言わず半理くらいはあろうが、組織の頂点にいた人物を殺害してしまえば、9.11のような空前規模のテロ犯罪がどのように計画・実行されたのかが永遠の謎となってしまう。

9.11事件をめぐってはいまだにアメリカによる自作自演説のような陰謀論が流布されているが、陰謀論の多くは政府が真相究明に消極的な事件・事変をめぐって生じる。二人の首謀容疑者を相次いで殺害した9.11事件はその典型例であり、おそらくこの先、永遠に陰謀論が生き続けるだろう。

真実を闇に葬るアメリカのガンマン的手法を正すには、国際社会が暗殺作戦を黙認することなく、批判し、抗議することである。それなくしては、アメリカが自浄的に自らの習慣を正すことはないだろう。

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国葬考

2022-07-23 | 時評

政府が安倍元首相の「国葬」を打ち出したことで、その是非をめぐる論争が激しくなっている。しかし、安倍氏が国葬に値するかどうかを議論しても不毛である。支持者にとって安倍氏は最後に国葬に付された吉田茂に匹敵する偉人なのであろうし、反対者にとっては安倍こそ日本社会を引き裂いた元凶とされているからである。そうした人物観の対立がそのまま論争に投影されているにすぎない。

国葬そのものは世界の多くの国で元首や元首級の人物あるいは国民的英雄のような私人に対してすら行われることもある代表的な国家儀礼であるから、安倍国葬も海外では奇異とは思われないだろう。

とはいえ、国葬という古めかしい制度が55年ぶりに持ち出されてきたことで、当惑と反発が広がっているのだろう。たしかに、吉田国葬を最後に一例も国葬が存在しない以上、慣例として確立されておらず、むしろ総理大臣経験者でも国葬には付さない慣例を破って、なぜ国葬を復活させるかの説明を政府において尽くす必要はある。

また、国葬が弔意の強制とならないためにも、学校その他の社会団体に対して、国葬当日に弔意を表明するよう政府が公式にも非公式にも指示・要請するようなことはないということを確約する必要がある。

日本でもかつて国葬は国葬令に基づくれっきとした国家儀礼であったが、戦後の1947年に廃止されている。その理由は定かでないが、戦後憲法の政教分離原則との抵触が考慮されたらしい。もっとも、国葬を無宗教で執行するなら憲法違反とならない可能性もあり、決定的理由とも言えない。

そもそも国葬とは「国家的功績」が認められた特定の国民を国家の費用により葬儀に付する特権的な葬礼であり、法の下の平等の精神にもとる古色蒼然たる制度である。それは元来、〝崩御〟した君主を送る葬礼が君主以外にも拡大されたもので、法の下の平等を基調とする現代には相応しくない風習と言える。

とはいえ、為政者のような公人の場合、親族が主宰する私的な葬儀とは別に、公的な葬儀を営むことはあってもよいだろう。安倍氏にもそうした「公葬」を執り行うことにまで反対する人はそう多くないだろう。

もし、安倍氏に「公葬」を執り行うとすれば、何と言っても長く総裁を務めた自由民主党に、一貫した連立相手の公明党、そして今や裏与党と言ってもよい与党浸透団体・日本会議の三者による合同葬が最もふさわしい(取り沙汰されている統一教会改名団体も、ゆかりがあるなら名を連ねてはいかがだろう)。

それにしても、国葬が持ち出されたうえは、その続編として、霊廟や神社の建立提案もあり得るのではないかとさえ、冗談抜きで想定したくなるような空気である。それについて容喙するつもりはないが、「安倍霊廟/神社」の建立はもはや政府でなく、支持者有志の手と金で行わなければならない。あるいは、かねてより改憲派が敵視する政教分離原則を廃棄した改憲後に政府が行うか、である。

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〝民主主義への挑戦〟ではない

2022-07-09 | 時評

(独裁者以外の)政治家が襲撃される事件が発生した際における非難の国際的な決まり文句ともなっているのが、〝民主主義への挑戦〟なるレトリック(類似レトリックを含む)である。先般の安倍元首相射殺事件に際しても、各種声明に見られたところである。

実際に民主主義を否定するという動機を被疑者が供述しているならともかくであるが、今回の被疑者は現時点での報道による限り、個人的な怨恨を供述しているようである。だとすると、これは政治的な暗殺でもなく、怨恨殺人で、標的が元首相という大物だっただけということになる。

そのような怨恨事案を〝民主主義への挑戦〟と表現するのは、意図的な拡大解釈、フレームアップである。そうしたフレームアップによって起こり得ることの一つは、前記事でも記したように、刑事司法の原則を排除する対テロ立法のような抑圧的治安法規の制定である。

こうした抑圧的な立法は〝自由〟を重視するはずの欧米諸国でも、すでに現れている。それは、欧米で21世紀に入って続発した国内テロ事件を背景としているので、ある程度の立法理由はあるが、日本ではそうした事案の発生はなく、今般の事件もテロではない。

日本の場合、そこまで便乗的に進むかはわからないが、前記事でも例示したような国家要人の殺人に通常の殺人より重罰を科する刑法改正、あるいは警備の失策という「反省」に基づき、政治演説会周辺での過剰警備による大量拘束など法執行面での抑圧強化の可能性はある。

そもそも〝民主主義への挑戦〟を精力的に展開されていたのは故人だったのではないだろうか。実際、安倍政権は公安警備系警察官僚OBを内閣官房の中枢に長期間据え置き、人事を通じて官界全般に睨みを利かせつつ、官邸中心、国会軽視、対メディア圧力など非民主的な手法を用いて、憲政史上最長という記録的な政権となったのである。

そうした〝挑戦〟によりすっかり力を削がれ、断片化された野党や委縮させられたメディアまでが〝民主主義への挑戦〟レトリックを揃って使っていたのでは(使っていない党や社にはお詫びを)、情けない。

政治的テロの範疇には到底入りそうにない今般の事件の政治的な利用に加担させられないためにも、政権与党の部外者は事件のフレームアップに手を貸すべきではないと考えるが、近年の同調主義の風潮からして、もはや確信は持てない。

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今後起こるべきでないこと

2022-07-09 | 時評

8日に発生した安倍元首相射殺事件を契機に今後起こり得るけれども起こるべきでないと思うことを箇条列記しておきたい。


一 事件関連の報道洪水が起こり、今後何か月にもわたって他の重要問題に関する報道がかき消され、あるいは脇に追いやられること。

一 事件を機に安倍氏が美化され、長期に及んだ安倍政権時代の政策や不祥事に対する批判的検証が自粛・封印され、あるいは批判的検証がタブー化されること。

一 支持者の間で安倍氏が神格化され、故人の遺志の継承という名分から改憲勢力が大同団結し、故人が望んでいた方向での改憲発議が急速に推進されること。

一 〝民主主義への挑戦〟等のレトリックに基づき、事件に便乗する形で、国家要人の殺人を重罰化する刑法改正や適正手続き原則を排除した新たな治安対策法の制定などの抑圧的な治安管理政策が打ち出されること。

一 〝法秩序への挑戦〟等のレトリックに基づき、法の峻厳さを示すためとして行われる別事件の確定死刑囚への見せしめ的な死刑執行。*[追記]7月26日、秋葉原路上殺傷事件(2008年)の死刑囚への死刑が執行されたのは、白昼街頭での犯行であったことの部分的類似性などから、見せしめ執行の可能性がある。

一 被害者の特殊な地位が政治的に配慮され、被害者の名声にも関わる犯行経緯・動機などの詳細が秘匿され、あるいは歪曲されたまま、憎悪感情を背景に形式的な司法手続き(裁判員裁判)により拙速に死刑が科せられること。

一 警備態勢の不備・失策等の技術的な観点からの糾弾により、関係者の「引責自殺」が誘引されること。

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NATOの第二次冷戦開始宣言

2022-06-30 | 時評

・・・・中国がロシアと結び、NATOを通じた米欧と対峙し、米欧対中露という対立構図が現れると、本格的な第二の冷戦となりかねない。

2013年の拙連載『世界歴史鳥瞰』中の記事において、冷戦終結後の世界が同盟主超大国の消滅により、枢軸を失い流極化していく状況を踏まえつつ、このように記したことがあった。

29日のNATO首脳宣言(以下、宣言)がロシアを最大脅威と断じて主敵に定め、さらに副次的に中国を国際秩序への挑戦者と指弾したのは、まさに如上の「第二の冷戦」―第二次冷戦―の開始宣言と言ってよいものであった。ただし、拙稿では、如上箇所に先立って、次のようにも指摘していた。

ロシアは一時的ないし個別的にアメリカと関係悪化に陥ることはあっても、もはやアメリカとの間に根本的な対立を抱えていないのに対し、米中間では南北朝鮮や中台関係のほか、中国の軍備増強やアジア太平洋地域での領土拡張策などをめぐって根本的な対立の芽があり、中国の軍事力のいっそうの伸長いかんでは、かつての米ソ対立と類似の状況が生じる恐れはある。

この点、今般の宣言では、ロシアが主敵と断じられており、筆者が読み違えたようにも見える。しかし、ロシアが主敵とみなされたのは、言うまでもなく当面のウクライナ侵略戦争を念頭においてのことであるのに対し、副次的に言及された中国はまさにNATOが体現する西側国際秩序への挑戦者と名指されたことで、むしろこの宣言の重心は対中国の冷戦布告にあると読むことも可能である。

そうした意味において、今般の宣言は単なるロシア非難声明のようなものとは質が異なり、まさに中国を新たな東側盟主とみなしての冷戦開始宣言の性質を潜在的に持つものである。こうして開始される第二次冷戦はしかし、第一次冷戦の単純な焼き直しとはならないだろう。

第一に、ここにはもはや資本主義vs共産主義の体制イデオロギー対立は存在していない。現ロシアは共産党支配国家ではないし、中国も共産党支配下で「社会主義市場経済」≒共産党が指導する資本主義の道を行っているからである。―自由主義vs全体主義の対立軸は設定できそうに見えるが、西側の「自由」もテロ対策・コロナ対策等々の名の下に損なわれており、相対的な差にすぎない。

第二に、東西が経済的にも分断され、独自の国際分業と相互援助でまかなっていた東側社会主義陣営が国際市場に参入していなかった第一次冷戦当時とは異なり、第一次冷戦終結後の30余年でグローバル化された資本主義のネットワークが第二次冷戦による分断により損なわれるなら、資本主義総体にとって打撃となる。―すでに生じているグローバルな燃料価格高騰、食糧危機はその最初の兆候である。

第三に、第一次冷戦当時の米国とソヴィエトのような圧倒的な盟主国家が存在しておらず、「流極化」状況は変わらないことである。米国も欧州連合の成立以降、西側盟主の地位を失っている一方、中国も経済大国ではあるが、自身を盟主とする同盟体を擁していない。―ただし、既存の「上海協力機構」が今後、軍事同盟として確立された場合には、旧ワルシャワ条約機構に近い同盟体となる可能性はある。

如上の第二点目は特に重要な相違であり、第二次冷戦はNATO首脳らが奉じる資本主義を瓦解に追い込むリスクを負うことになる。それを知らずして第二次冷戦にのめり込むのは、まさに自ら墓穴を掘るようなものである。

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「自由平等美国」の終わりの始まり

2022-06-25 | 時評

アメリカ合衆国最高裁判所が24日、半世紀前に確立されたはずの妊娠中絶の権利を認める判例を覆し、憲法上妊娠中絶の権利は保障されていないとする新判断を六判事の多数意見として示したことは、単に「保守化」といった言葉だけでは語りつくせない意味があるように思われる。

わずか6人の判事の判断によって半世紀間認められてきた憲法上の権利を剥奪できてしまうアメリカの強力すぎる司法制度は、半世紀前には立法では解決のつかなかった妊娠中絶の権利を保障することにも寄与したのであるから、まさにアメリカ市民の生殺与奪を握る両刃の刃である。

医療的妊娠中絶(いわゆる人工妊娠中絶:この用語の問題性については拙稿参照)は、女性にとっての人生決定の自由という意味があるが、そればかりでなく、産科医療が発達した時代にあっても決して絶対安泰とは言えない妊娠・出産という身体的・精神的負担を女性にだけ強制しないという平等理念とも結ばれた自由平等理念の象徴である。

そのような理念を承認したのがちょうど半世紀前のいわゆるロウ対ウェイド判決であったわけであり、これは当時まだ少なからぬ諸国で妊娠中絶が犯罪とされていた時代にあって、米国の先進的な自由平等を示した判決でもあった。

このような確立判例のクーデター的転覆は、トランプ前政権によって送り込まれた超保守派判事の参加により実現されたことであり、それは南部の保守派州を中心に広がっている新たな政治反動の大きな成功例とも言える。

半世紀という一時代にわたって維持されてきた著名判決が覆されたことで、次に転覆の標的となり得るのは、1954年に出された人種平等判決である。ブラウン判決として知られるこの判決は、それ以前「分離すれども平等」という理屈により教育その他の公共サービスにおける人種隔離を正当化してきた状況を正し、人種平等理念を司法上確立した画期的判決であった。

これも単に平等というだけでなく、有色人種が等しく公共サービスを受ける自由を保障したという意味では、やはり自由と平等が結ばれた自由平等理念の象徴であり、人種差別が世界でまだある種の「常識」でさえあった時代に米国の先進性を示した判決であった。

しかし、この判決もまた、19世紀の奴隷解放後、それに代わる人種隔離政策を続けていた南部保守州にとっては打撃であり、不満怨嗟の種となってきた確立判例であって、転覆が待望されているものである。もしこれが覆されれば、南部は司法府から人種隔離政策再開のゴーサインを賜ることになる。

ロウ対ウェイド判決の転覆はこうした自由平等の美国(米国の中国式漢字表記)の終わりの始まりとなるかもしれない。それは同時に、中絶賛成州と反対州の対立を招き、南北戦争以来の連邦分裂の危機を惹起する可能性を秘めている。その意味では、いささか性急な予測ながら、アメリカ合衆国の崩壊の始まりでもあるかもしれない。

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「敵基地反撃論」の真剣度

2022-04-30 | 時評

ロシアのウクライナ侵攻を契機に、与党筋から「敵基地攻撃論」が再び浮上してきている。ロシア問題を利用した便乗的議論だという批判もあるが、ミサイル発射を常態化している北朝鮮、ある意味において北朝鮮化してしまったロシアを近隣に持つとなれば、国防政策の見直し論は自然で、必ずしも「便乗」とは言い切れまい。

しかし、文字通りに敵基地攻撃を認めれば、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めた憲法9条に抵触するので、与党は「敵基地反撃」と言い換えて、憲法をすり抜けようとしているようである。

戦後日本の国防政策は「自衛隊」に始まり、「必要最小限の武力」、「周辺事態」、「武力攻撃事態」等々、憲法9条と同居させるためのオブラートに包まれた言葉使いで成り立ってきたが、ここにもう一つのオブラート「反撃」が加わろうとしているようである。しかし、今度のオブラートは出来が良くなく、穴が開いているように見える。

元来の「敵基地攻撃論」とは、敵からの攻撃が迫っている状況下で、その攻撃の出どころとなる敵基地を先制攻撃して敵の攻撃を未然に阻止するという趣意のはずであるから、それを「反撃」と言い換えても、オブラートとしては穴が開いていて、中身が漏れ出してしまう。

文字通りの「反撃」とは、敵の第一撃を受けたうえで、それに対する反対攻撃を意味するはずであるから、第一撃は抑止できない。せいぜい、第二撃以上を抑止する自衛権行使としての「反撃」―連続攻撃を阻止するためには意味があるかもしれない―である。

もしも、第一撃自体を抑止するための武力行使ならば、それは先制的自衛行動となる。しかし、先制的自衛とはある種の開き直りの論であって、自衛の名による先制攻撃そのものである。このような行動が憲法9条に反することは間違いない。

結局のところ、憲法9条とどうにか同居できるのは、如上の第二撃以上を抑止するための反撃のみであろう。しかし、その場合、第二撃以上の出どころとなる敵基地を正確に特定できるかどうかという問題が残る。

もしその特定を誤り、無関係の基地その他の施設に「反撃」するなら、それは相手方にとっては誤爆では済まず、日本による事実上の宣戦布告と受け取られるであろう。そうなれば、まさに9条が禁ずる戦争への突入である。論者らがそうした真剣な認識を持っていないならば、まさに便乗的議論であるとの批判が的中することになろう。

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領土(域)の共有

2022-04-07 | 時評

主権国家が最も苦手としていることがあるとすれば、それは領土の確定である。主権という排他的支配観念を保持する限り、領土は単一の国家の排他的支配領域であって、一つの領土が複数の国家に属することはあり得ない。領土はシェアできないのである。

そのことが最も明瞭な形で問題となったのが、ソ連邦解体後に旧ソ連邦領内で多発した民族紛争である。その点、ソ連体制は15の構成共和国のみならず、各共和国内の多くの少数民族にも形だけの自治共和国を与え、それらを全部まとめてソ連邦という単一の連邦主権国家に編入するという形で技術的に民族問題を「解決」していた。

一見して巧みな解決法であり、実際、ソ連邦が持続していた間は、深刻な民族紛争は抑えられていた。しかし、この「解決」は見かけだけのものであったことが、ソ連邦解体後に続々と露呈していった。「ソ連の平和(パクス・ソヴィエティカ)」は所詮、ソ連邦の事実上の支配国ロシアの覇権に組み込まれていた限りでの「平和」に過ぎなかったのだ。

目下最大の国際問題となっているロシアのウクライナ侵攻の背景にも、こうした見せかけのパクス・ソヴィエティカの崩壊が関わっている。そのことは、当初、首都キエフを落とす構えも見せていたロシアがウクライナ東部地域の占領に焦点を絞ってきた(と見られる)ことで、一層鮮明になった。

この地域は、すでに先行してロシア領に編入されたクリミアほどではないが、少数派ながらロシア系住民が比較的多く、ロシアへの帰属を求める人々も少なくないことから、分離独立運動が発生している。ロシアはこの運動を支持するという大義名分で東部の占領を目論んでいる。

対するウクライナも、主権国家として東部地域のロシア編入―実質的な領土の割譲―を容認するわけにいかないので、徹底抗戦するであろう。領土の割譲は、主権国家にとって最悪の屈辱だからである。
 
こうした領土紛争はウクライナに限らず、歴史上世界中で起きてきた戦争原因の第一位であり、特に主権国家概念が確立された近代における戦争の実質はすべて領土紛争であると言って過言でない。

こうした領土をめぐる対立を止揚する方法は、主権国家概念の揚棄をおいて他にはない。その点、筆者の年来の提唱にかかる「領域圏」という概念は、主権という排他的概念によらないので、一定の領域のシェアも可能である。

例えば、ウクライナ東部であれば、これをロシアとウクライナ双方の共有領域とすることも可能となる。その場合、いずれの法令によって統治するかという問題は残る。

その点、法的にはいずれか一方の領域圏に属しつつ、もう一方の領域圏には代議機関にオブザーバ参加し、その政策決定に一定の影響力を行使するという方法が単純明快ではあるが、この場合、法的にいずれの領域圏に属するかをめぐって紛争が生じる恐れは排除できない。

それを避けるには、いささか技巧に走るきらいはあるが、例えばロシア系住民とウクライナ系住民で別々の代議機関を持ち、前者はロシア法、後者はウクライナ法に従うといった属人的統治を行うことも不可能ではない。

このように、主権国家という西欧近代の固定観念から解き放たれることによって、新たな平和の形が見えてくるのである。これは、地球規模での恒久平和という空想を現実に変えることのできる思考上の大革命である。

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NATO解散こそ究極の解

2022-03-06 | 時評

ロシアのウクライナ侵攻作戦が長期化の様相を見せる中、改めてNATO(北大西洋条約機構)の存在理由が問われている。

そもそも、今回の侵攻作戦自体、NATOが北大西洋から遠く離れた東欧圏まで浸食的に拡大してきたことに対するロシア側の危機感を背景としている。NATOの敵方同盟で旧ソ連を盟主としたワルシャワ条約機構の旧加盟諸国も軒並みNATO入りしていく中、既に加盟済みのバルト三国に加え、ウクライナのような旧ソ連邦構成国にまでNATOが手を伸ばし、ウクライナもそれに乗ろうとしていることへのロシア側からの反作用である。

また、そうした拡大NATOがもたらす安全保障上の脅威は、プーチンのような「強力」な指導者の存在をロシア国民が容認・支持し、ひいてはロシア史上でも有数の長期政権化する可能性の担保となっているという国内的な政治効果も生じさせている。

一方、NATOは集団的安保同盟であるはずのところ、目下、ロシアの侵攻に対して軍事的に反応しようとする気配はなく、かえってウクライナ側が要望するロシア空軍機の飛行禁止区域の設定を拒否するなど、交戦を回避する姿勢が強い。ウクライナは条約未加盟であるから集団的自衛権発動の要件は満たさないとはいえ、NATOのあり方が鋭く問われるだろう。

もちろん、ロシアとNATO軍の間での「欧州大戦」に発展することが最適の解決法とは言えないので、一触即発の飛行禁止区域の設定を求め、NATOを戦争に巻き込もうとするかのようなウクライナ側の策にも疑問の余地はある。

さしあたっては、ウクライナがNATO加盟の方針を撤回し、中立宣言をすればロシアの侵攻作戦を中止できる望みはあり、戦争に伴う人道危機の拡大を当面短期的に防ぐにはその方策しかないであろうが、それでは本質的・恒久的な解決にはならない。

より究極的な解決法は、冷戦時代の遺物であるNATOの解散である。そもそも相方のワルシャワ条約機構が消滅した以上、NATOの存在理由も失効したはずであるのに未だに残されているどころか、2000年代以降いっそう拡大されてきたのはなぜか。

それはプーチン政権下で再興し始めたロシアへの包囲網であるとともに、そうした対ロシア防備を超えた「NATO帝国」―その帝冠を被るのは、むろんアメリカ―の構築という新たな米欧諸国の覇権戦略が隠されているからにほかなるまい。経済的にはいまだ成長途上であるウクライナを含む東欧の旧社会主義圏は米欧資本主義諸国にとっては潜在魅力的な市場の草刈場であるから、安保同盟の餌を広くまきたいわけであろう。

ということから、NATOの解散など論外とされるであろうが、そうであればこそ、それがウクライナ危機を終わらせる究極の解となるのである。


[蛇足1]
NATOの解散により安全保障上の脅威そのものが丸ごと消失すれば、強権的なプーチン体制の存在理由も薄れ、かえって民主化を求めるロシア民衆の革命により打倒される可能性さえも生じてくるだろう。

[蛇足2]
よりいっそう究極的には、ロシアをも包摂した最広域の「汎ヨーロッパ‐シベリア域圏」を形成できれば、欧州の恒久平和が確立するであろうが、これは拙見である「世界共同体」の論域に入るので、時評にはふさわしくなかろう。

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「ロシア第三帝国」の儚い夢

2022-03-03 | 時評

ウクライナ国境に軍隊を並べていたロシアが侵攻に踏み切り、しかも首都まで落とす気配を見せていることにより、以前の記事で想定した三つの可能性のうち、「ウクライナの回収」を狙っていることがほぼ明らかとなった。

古典的な軍事侵略であるが、しかし、これはかつての欧米列強―現在はNATOの仮面を被っている―が実行し、日本も追随したような強国が領土を拡張するための侵略ではなく、むしろ、ソ連邦解体後におけるNATOの東方拡大という攻勢に対する追い込まれ侵略の性格が強い。

その点では、第一次大戦の敗北後、厳しい国際的封じ込めにさらされていたドイツが、ナチス政権下で劣勢挽回・反転攻勢のために断行した侵略行動に近い面がある。ドイツ第三帝国の構築を目指したヒトラーになぞらえれば、プーチンは「ロシア第三帝国」―ソ連邦を実質上「ロシア第二帝国」と見た場合―の構築を夢見ているのかもしれない。

しかし、それは簡単でない。まず軍事‐経済総力の相違点が大きい。ナチスドイツは短期間で経済復興を果たしつつ、世界有数の軍備を整えたうえで近隣諸国の侵略に乗り出したが、現ロシアの軍事‐経済総力は決して世界最強レベルとは言えない。

もっとも、軍事的には「腐っても鯛」でソ連時代の遺産はあるが、末期でも400万超に達した旧ソ連軍に対し、現ロシア軍は90万と見る影もない。軍事的な強度は必ずしも兵員数で決まるわけではないとはいえ、征服戦争においては数は大いにものを言う。

すでに、西側では、ウクライナ軍の想定以上の抵抗もあってロシアは短期決戦に失敗し、長期戦に持ち込むしかなくなっているとの分析も出ている。最終的には征服しても、外人傭兵まで動員したウクライナ側のゲリラ的抗戦が続けば、ロシア側にもかなりの犠牲が出ることは避け難い。

さらに、経済的には、アメリカの罠にはまった面もある。アメリカがロシアの侵攻確実性を吹聴してきたことに煽られ、釣り出されて早まった侵略行動に出たとも解釈できるからである。これにより、アメリカはかえってロシア経済に打撃となる最強度の経済制裁を科す権利を得たことになる。

そこは今やロシアの後ろ盾のようになった中国の助け舟で乗り切ることができたとしても、中国の援助にすがって体制を維持していくなら、ロシアは第三帝国どころか、事実上中国の保護国化することになる。

真意をぼかしつつ国境地帯での軍事的威嚇にとどめておいたほうが、ロシアにとってメリットは大きかったはずである。プーチンは西側では巧妙な政略家として畏れられつつ過大評価されてきたが、やはり彼の本分は政治家より官僚、中でも元鞘の諜報官が適職だったということになるかもしれない。

もっとも、西側が「武器」にしようとしている経済制裁で体制崩壊を導くことは至難である。そうした外からもたらされた国難はかえって国内的には結束を固め、権力基盤を強化することになりかねないことは、クウェートを侵略したイラクのサダム・フセイン体制がその後10年以上も延命された過去の事例からも明らかである。


[追記]
ウクライナの想定を超える反撃にあい、かなりの損失を被ったロシアは、東部の親ロシア勢力を支援し、東部地域を部分占領する方針に切り替えた模様である。「作戦第一段階の完了」と情宣しているが、実態は当初狙った「ウクライナの回収」を当面断念したことを示唆している。

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「新冷戦ゲーム」は止めよ

2022-01-26 | 時評

米欧露首脳らによるウクライナをめぐる軍事的な緊張ゲームが熱を帯びてきている。ウクライナを獲物のように奪い合う政治ゲームでもあり、2年越しのコロナ対策に飽きてきた首脳らの火遊びの様相である。

ゲームとはいえ、ウクライナが獲物となるには理由がある。現状、ウクライナは(バルト三国及びジョージアを除く)旧ソ連邦構成諸国が加盟し、ロシアの同盟体とも言える独立国家共同体(CIS)には加盟せず、西側軍事同盟体の北大西洋条約機構(NATO)にも未加盟という宙摺り状態にあるため、ロシアと米欧とで奪い合いになっているからである。

緊張の発端がロシアの軍事的示威行動にあることは明らかであるが、その意図として、ウクライナのNATO加盟を阻止するだけの狙いなのか(そうだとすると全面侵攻の必要はない)、旧ソ連領土で歴史的にはロシア国家発祥の地でもあるウクライナを「回収」したいのか(そうだとすると全面侵攻もあり得る)、ロシア帰属を望むロシア系住民が多いウクライナ東部地域を併合するつもりなのか(そうだとすると東部のみの一部侵攻にとどまる)、狡猾なロシア政権がどうとも取れる素振りで揺さぶっているため、現時点では読み切れない。

いずれにせよ、状況としては、1968年、旧ソ連が望まない「改革」を潰すために断行したチェコスロバキア軍事侵攻と似てきたが、その再現にはならない。当時のソ連が侵略を正当化する「制限主権論」のよりどころとしたワルシャワ条約機構はすでに消滅して久しく、CISは英連邦に近い親睦的・儀礼的な連合体にすぎない。

他方、ワルシャワ機構に対抗していたNATOも冷戦時代の遺物である。冷戦終結・ソ連邦解体後もロシア対策で温存されてきたが、アメリカと肩を並べる欧州連合(EU)が形成された現在、冷戦時代のようにアメリカの旗の下に一致団結することは、もはやない。アメリカとEUを脱退したばかりのイギリスが前のめりになっている状態である。

それでも、米(英)露首脳は、時代錯誤を承知で冷戦を再現したいようだ。それが各自、陰りや動揺の見える政権基盤の強化につながると見ているからである。

その点、米大統領バイデンは民主党員にしか支持されておらず、今なお2020年大統領選挙を不正と信じる党員が多い共和党からは、不正選挙で地位を詐取した大統領僭称者とみなされている状況。EU脱退で名を上げた英首相ジョンソンもロックダウン違反パーティーを官邸で開催していたことが発覚し、政権存続が危うい状況。露大統領プーチンは技術的な意味では安定した基盤を持つ長期執権者であるが、生命まで付け狙う露骨な野党弾圧策は国内でも批判にさらされている状況。ついでに、ウクライナのゼレンスキー大統領は近年多いポピュリストとして、ロシアの尾をあえて踏む形でゲームに一枚噛んで、大衆的支持をつなぎとめようとしているフシもある。

タイトルには「ゲームを止めよ」と書いたが、新冷戦ゲームの主要なプレーヤーたちは、いずれもこのタイミングで緊張感を高めることにメリットを見出している以上、少なくとも米露いずれかで政策変更を伴う政権交代があるまで、今後もやめてくれないだろう。

しかし、この種の政治的火遊びが思わぬ大火に転じて犠牲となるのは、いつでも庶民である。軍事訓練に動員されているウクライナ市民の時代錯誤的な映像は痛ましい。訓練が訓練で終わることを願うほかない。

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ソヴィエト連邦解体30周年に寄せて

2021-12-26 | 時評

1991年12月26日、それまで米国と並んで二大超大国として世界に君臨してきたソヴィエト連邦が解体されて、ちょうど30周年である。遡ること10年前の20周年―当ブログの開設年でもあった―にも、筆者は本時評欄で記銘の小論をものしたことがある。

20周年は単なる節目の一つに過ぎなかったが、30周年と言えば、一世代の経過を意味する。この間、ロシアをはじめとする旧ソ連圏でも、また全世界においても、旧ソ連時代を知る人は減少し、解体時には幼少だった世代や解体後に生まれた世代、すなわち「旧ソ連を歴史としてしか(としてさえ?)知らない世代」が育ってきている。

それでも、なお旧ソ連時代の記憶が残っている現時点では、ソ連は歴史上の失敗国家とみなされて、顧みられることもほとんどなく、忘却された状態となっている。用語チェックが厳しいはずのメディアの報道でさえ、ソヴィエトと言うべき文脈でロシアと誤称することも時に見られるほどである。

しかし、30周年という一世代の節目は、旧ソ連に対するノスタルジーを排した客観的な回顧―「懐古」でなく―の最大の好機である。なぜなら、二世代近くを経過する50周年では回顧するに遠くなりすぎるからである。「懐古」ならぬ「回顧」であるには、旧ソ連社会を構造的に特徴づけた二大基軸に関して、21世紀の新たな観点から再発見する作業が必要となる。

旧ソ連社会を構造的に特徴づけた二大基軸とは、計画経済と、まさにソヴィエトの名称由来でもある会議体民主主義であったから、この二本柱が回顧=再発見の二大対象ということになる。残念なことに、旧ソ連はこの二本柱を自ら活かすことができず、構造的に失敗したわけである。

そのうち、土台構造を成す計画経済は、旧ソ連式の経済開発一辺倒の視点ではなく、新たに地球環境保全、生態学的な持続可能性の視点からの再発見を待っている。

ソ連邦解体以降の過去30年、資本主義が絶対的テーゼとして世界に拡散する中、社会主義標榜国も一斉に資本主義に適応化していく過程で、地球環境危機の加速化が進んできた。

もはや資本主義経済と環境保全の両立などと言ってはいられない状況に追い込まれている。さらに追い打ちをかけているのが、なお出口の見えない感染症パンデミックである。これも、温暖化した環境に適応し、夏季や温暖な冬季にも構わず蔓延する温暖化適応ウイルスの誕生が一因となっている。

他方、上部構造を成す会議体民主主義は、旧ソ連式の一党支配制によって骨抜きにされることなく、真の民主主義を確立するうえでの再発見を待っている。

これまたソ連邦解体以降の世界で、疑問の余地なく民主主義の標準とみなされてきた選挙議会制が堕落し、議会は社会の革新を阻止する政治的保守装置として退化、ひいては世界の主要国の議会が扇動的かつ反動的な自国第一主義のポピュリスト勢力に占拠されつつある。

党派対立に明け暮れる議会はその諸祖国でも機能しておらず、地球環境問題はもちろん、日常的な課題に対してすら、まともな討議を通じた解決を導くことができず、民衆の信頼を失っているところである。そのことは、民主主義標榜国でも議会軽視の大衆扇動型独裁者が選挙を通じて出現する可能性を作り出している。

そうしたことから、次の重要な節目となるソ連邦解体50周年に向けては、経済開発でなく、環境保全を第一目的とする計画経済及び政党支配によらず、かつ選挙という方法にもよらない会議体民主主義の理論構築と制度設計が課題となる。

・・・とぶち上げたところで、50周年を迎える2041年の世界が実際どうなっているのか、予断は許さない。その頃には、当ブログはもはや存在しないだろうし、筆者が存命しているかもわからないが、現状が惰性的に継続しているなら、世界はより破綻に近づいているだろう。

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民事弾圧を許した「憲法の番人」

2021-12-06 | 時評

NHKが映らないテレビの所有者であっても、NHKとの受信契約・受信料支払の義務がある━。そんなトンデモ判決を今月2日、「憲法の番人」たる最高裁判所が発した。

放送法はNHKの放送を受信できるテレビの設置者にはNHKとの受信契約締結の義務があると規定しているところ、この事件の原告はNHKの放送信号を減衰するフィルターを組み込んだ特殊なテレビを購入・所有していたが、最高裁はフィルターを外すなどすれば受信できると認定した二審高裁判決を支持したのである。

不覚にも知らずにいたのだが、最高裁は2017年の段階で、NHKとの受信契約を法的義務とみなし、NHKからの契約申し込みを承諾しない相手に対して、NHKは裁判に訴えて承諾を命ずる判決を得て契約を強制的に成立させることができるという強硬な判決を発していた。今般判決は、これをさらに拡大し、技術的にNHKを受信できなくしたテレビの所有者であっても契約義務ありと判断したものである。

これらの司法判断によって、NHKは、当面受信できなくてもテレビを技術的に受信可能な状態に工作させたうえで強制的に受信契約を結ばせることまで可能となったわけである。このようなむたいな理屈が近年NHKが値下げして契約率向上を狙う衛星契約にも拡大されれば、問題はいっそう深刻化する。

これは、受信料の強制徴収という経済問題にとどまらず、NHKと強制的に契約させることにより、どの媒体を通じて情報を取得するかに関する市民の選択権を奪う権利をNHKに与えたことになるという点で、広い意味での言論の自由に関わる問題である。

現行法上、NHKとの契約拒否者に対して刑事罰を科する規定はさすがに存在しないが、民事訴訟を提起して市民を法廷紛争に巻き込むこともある種の懲罰的対応であって、これはNHK拒否者に対する民事弾圧である。このようなことを容認する「憲法の番人」は人権泥棒に加担していると言っても過言でない。

しかし翻って、それほどにNHK受信料制度を護持したければ、「契約」法理に固執せず―契約は自由が原則であって、「強制契約」はブラックジョーク的な概念矛盾である―、受信料を一種の税金として実際に税金とともに付加徴収すればよいのである。

だが、そこまでするなら、7年前の拙稿で提唱した通り、いっそのこと、日本放送協会:NHKを完全なる日本国営放送:NKHに再編すればよかろう。そうすれば、受信料制度は廃止され、文字通り税金で運営される御用放送局となり、政府与党は堂々と放送内容を統制できるようにもなる。

しかし、政府与党があえてそうしようとない理由も想像はつく。全国50を超す放送局、1万人を超す職員を抱える巨大メディアを国営化すれば、高額とされる職員給与も含め、すべて国庫負担となるからである(増税の口実には使える)。

NHK拒否者を民事弾圧してでも、国民から強制徴収した受信料に支えられた公共放送という名の御用メディアを維持するほうが経済的と打算されているのである。


[追記]
2022年6月、NHKとの受信契約を拒否する者からも割増金を徴収するなど、受信料制度を強化した改正(悪)放送法が成立した。こうした懲罰的割増制度の導入により、民事弾圧性はいよいよ強まった言える。

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