ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

アウシュヴィッツ解放75周年に寄せて

2020-01-27 | 時評

ソ連軍がナチスのアウシュヴィッツ絶滅収容所を解放した1月27日は、2005年の国連総会決議以来、「国際ホロコースト記念日」に指定されている。本年は75周年の節目ということで、記念式典も盛大に行われたようである。

75周年と言えば三度の四半世紀が経過したことになり、解放当時20歳だった捕囚も95歳、生きて救出された人たちの多くがすでに物故している。アウシュヴィッツの記憶は希薄になり、その名は知っているが内容は知らない、その名さえも知らないという世代が欧州でも出てきている由。

そうした記憶の風化が定着していくと、アウシュヴィッツの再発という事態も空想ではなくなってくるだろう。欧米ではすでに新たな反ユダヤ主義の波が起きており、ユダヤ教会襲撃事件なども発生している。

憂慮すべき事態ではあるが、反ユダヤ主義をより包括的にみると、反セム主義(antisemitism)の一環ということになる。セムとは、ユダヤの言語であるヘブライ語のほか、アラビア語も含む言語学上の分類であるセム語族を指すが、単に反セム主義といったときは、反ユダヤ主義と同義で用いられることが多い。

しかし、近年の欧米社会の状況を見ると、中東・アフリカ等からのイスラーム教徒(ムスリム)移民の増大により、ムスリム人口が増加していく中、反イスラーム主義の風潮が強まっている。そうした風潮を反映して、欧州各国からアメリカのトランプ政権に至るまで、「反移民」を旗印にする政党・政権が伸張しているが、これら「反移民」の正体はほぼイコール反イスラーム主義である。

「欧米がイスラーム化される」といった不安扇動的な言説が流布され、ムスリム排斥の風潮も強まる中、欧州で最も懸念されるのは、反ユダヤ主義以上に反イスラーム主義の暴風かもしれない。アウシュヴィッツの手法は、ムスリムにも応用できるからである。

アウシュヴィッツの風化がさらに進めば、ムスリム絶滅政策を実行する狂信的な反移民政権が欧州に現前しないという保証はもはやできないだろう。その際、戦後のイスラエル建国問題を契機とするユダヤ人とムスリムの解決困難な対立から、かつてのホロコースト犠牲者であるユダヤ人もムスリム絶滅政策に反対しないという事態も想定される。

現在のところ、そうしたことは杞憂のように思えるかもしれないが、今後さらに四半世紀進んだアウシュヴィッツ100周年、さらにその先という長いスパンで見据えたときには、杞憂と言えなくなるだろう。

成長過程で知らず知らずして体得されていく各種の差別意識というものは、成長後にそれを除去しようとしても手遅れであり、幼少期からの反差別教育が不可欠であるが、現時点で、そうした反差別教育を体系的に取り入れ、成果を上げている国を寡聞にして知らない。

国際ホロコースト記念日のような象徴的なやり方も決して無用ではないが、それだけでは新たな「ムスリム・ホロコースト」を抑止することはできない。知識の教科学習だけでなく、否、それ以上に反差別教育の徹底を国際的な課題とすることが急務である。

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民衆デモの採点

2020-01-02 | 時評

前日「雑感」の中で、2010年代後半から20年代に持ち越される民衆デモの世界的な拡散が全般的な世界連続革命にまでつながる要素は乏しいと見る、と記したが、そのわけを簡潔に補足しておきたい。なぜ、そう見るか━。


①思想性を欠く

これら民衆デモはアナーキーで、とらえどころがない。といって、社会思想としてのアナーキズムに立脚しているわけでもなく、漠然と民主化やその他のスローガンを掲げるが、思想的にはほぼ無思想である。刹那的で展望性がないため、新たな社会へ変革するという革命的な展望に結びつかない。

②組織性を欠く

これら民衆デモは、たいていはSNSを通じて個人が自主的に参加している。このような個人単位の自由な結集には、民主的な面もある。しかし、革命の波動を起こすには、組織化が必要である。といっても、20世紀的な政党組織による必要はなく、よりしなやかな結合体としての組織がふさわしい。

③対抗性を欠く

これら民衆デモは、たしかに当局と「対峙」はしているが、対峙することが目的と化し、公式政府と併存する民衆の権力―対抗権力―の形成に至っていない。このことは、組織性を欠くこととも関連している。対抗性を欠いたままの「対峙」では、単なる暴動に退行する恐れが大である。

④民際性を欠く

これら民衆デモは、一国ないしは一地域単位で展開されており、国境を越えて相互に連帯していない。そのため、世界的な革命の波動に発展しない。SNSは理論上「世界とつながる」はずであるが、実際上は言語の多様性という壁に阻害されている。これは、SNSの技術的な限界でもある。


なお、民衆デモとは別筋だが、エコロジーの思想に基づき、緩やかな組織をもって、民際的に展開されている青少年の反気候変動デモは、上掲四つの点で、③対抗性を除けば、ある程度の水準に達しているように思われる。

そのために、かえって背後でかれらを操る成人の個人や団体が潜んでいるかのように疑われやすい。背後関係はともかく、気候変動の悪影響を集中的に受けるのは21世紀後半期まで生存していく青少年世代であるから、かれらが運動の前面に出ることには必然性がある。

ただ、かれらも現状では、各国政府により真剣な気候変動対策を訴えるといった請願運動に終始しており、根本的な社会革命を推進する運動としては未熟な、まさに青少年の運動にとどまっている。かれらが成熟した後、どのような方向に進んでいくのか注視したい。

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「ロジャヴァ民主制」を守れ

2019-10-10 | 時評

9日からトルコが侵攻を開始したシリア北東部―ロジャヴァ―は、シリア内戦中に、過激勢力「イスラム国」を駆逐したクルド人勢力が占領し、シリア領にとどまりつつ事実上の独立状態に近い自治を行なっている地域である。この自治域は現時点で、シリア北東部全域に拡大している。

統治主体はクルド人武装勢力でありながら、この地域の統治は軍政ではなく、直接民主主義・両性平等・民族的/宗教的寛容・持続可能性という先進的な理念に基づく実験的な民主制によって行なわれている。

統治の基本単位は政府ではなく、地域(カントン)のコミュニティであり、議席の40パーセントを女性に割り当てる一種の民衆会議をもって行なわれる。この会議は、中央の最高委員会から干渉を受けず、行政管理・経済管理の全権を任され、最高委員会は主として外交に専従する。

経済は市場経済要素を認めるが、労働者協同組合制度や集団農業の試みも取り込んだ混合経済体制によっている。司法に関しても、処罰より和解に重点を置く修復的司法を取り入れた先進的な制度を試行している。

片やトルコは、エルドアン長期政権の下、全体主義ファシズムの様相を呈するような状態にある。国内少数民族クルド人への迫害はエルドアン政権以前からの“伝統”だが、近年はトルコ民族主義も台頭し、地中海の大国だった旧オスマン帝国への郷愁も見られる。

今回の侵攻作戦で、トルコはシリアのクルド人勢力をテロリストと決め付けたうえ、国境地帯を「テロリストの回廊」と命名し、シリア人勢力を駆逐し、トルコ国内のシリア難民を帰還させる「安全地帯」を設定するために侵攻したと主張するが、テロ対策や難民帰還にかこつけた領土拡張への底意も感じられる。

そもそも「安全地帯」を他国領土内に勝手に設けるなど、国際法上もあり得ない侵略であり、シリア難民の「帰還」という理由付けも、人道上の対応というより、安全地帯という名の「征服地」に追放・隔離するという手の込んだ手法と言える。

もっとも、トルコがシリアのクルド人勢力をテロリスト呼ばわりするのは、ロジャヴァ民主制の制度設計の理念が、トルコのクルド人政治犯(終身受刑者)で、かつてはトルコ内のクルド人政党で武装活動を展開したオジャラン氏の影響を受けているためかもしれない。そうしたつながりから、ロジャヴァのクルド人勢力をテロ組織とみなすのだろうが、それは偏った見方である。

ロジャヴァのクルド人勢力はむしろ暴虐なイスラム・ファシスト勢力のイスラム国と戦い、その拠点ラッカを奪回した功績がある。イスラム国掃討に当たり同盟関係にあったアメリカが国境地帯から軍を撤退させたことで、トルコに侵攻のゴーサインを出す形となったのだ。アメリカン・ファシズムの傾向を強めるトランプ政権との間で何らかの外交的密約があった可能性も否定できない。*実際のところ、トルコは昨年の段階で、アメリカの言質を取り、シリア北部の一部地域を先行的に侵攻・占領しており、その延長線上に今般侵攻作戦がある。

結果、トルコ・ファシズムがシリア領に侵攻し、ロジャヴァ民主制を攻撃している。新たなクルド人難民も、数十万に及ぶ可能性が指摘される。ところが、日頃は反ファシズムと民主主義の擁護を標榜する欧州や国連の批判も腰が引けている。

欧米メディアも国際法上は明らかな侵攻作戦を侵略(invasion)と呼ばず、「侵入」(incursion)・「進出」(advance)などとぼかしている。従来から、欧米ご推奨の議会制とは異なるロジャヴァ民主制に理解も関心を持たずほとんど報道してこなかったため、クルド人勢力=テロリストというトルコのプロパガンダと一部共振してしまう状況にあるように見える。

とはいえ、軍事的には兵力60万のトルコが圧倒的優位にあり、少なくとも国境近接域の征服は時間の問題となろう。国連も機能しないなら、民間での国際連帯により、議会制に代わる新たな民主主義への架け橋となるかもしれないロジャヴァの民主的実験を守らなければならない。

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「従米」と「制韓」の関係

2019-09-01 | 時評

近代以降の日韓関係を日本側から大きく見ると、明治維新後の「征韓」の時代から、その実現としての併合・植民地化の時代、戦後・脱植民地化後の経済援助と日本資本進出の互恵関係で結ばれた「親韓」の時代を経て、現在は、「制韓」の時代に入ったと言えそうである。

昨年8月、韓国大法院(最高裁)が元徴用工に対する日本企業の賠償責任を認める判決を下したことへの事実上の報復措置として、先月、日本政府が韓国を貿易上の優遇対象国から除外する経済制裁を課したのは、「制韓」政策の一つのハイライトである。

今回は、韓国政府ではなく、韓国司法の判断であり、しかも原告の元徴用工と企業間の民事訴訟への判決である。民事訴訟の結果に政府が口を挟むのは不当な民事介入であり、特定の民間企業の立場を擁護しようとしている点では中立性をも損ねている。

十歩譲ってその点に目をつぶるとしても、自らが訴訟当事者ではない外国の司法判断にまで日本政府が異議を挟むのは、まさに相手国の司法府まで制御したい日本側の「制韓」の意志の表れである。

「征韓」と「制韓」は同音異義語であるが、前者が文字通り韓国を征服することであるのに対し、後者は韓国を征服しないまでも、日本側優位に制御することを意味している。この背景には、韓国が日本の援助対象国を脱し、自立的な新興国、さらには新興先進国として成長し、従来は封印していた慰安婦や徴用工の問題を正面から主張し、清算を求めるようになったことへの日本側の反発がある。

これは、まるで成長して生意気なことを言うようになった子どもに当惑し、何とか言うことをきかせようと必死な親の姿と似ている。しかし、やはり相手の成長を正面から見据える必要がある。それができないのは、日本自身が対米関係では従属の道を選択しているからである。

アメリカに頭が上がらない分、韓国には強気な対応をしたい。韓国もまた、軍事的な面では日本以上にアメリカの従属下にある者同士だからである。両国の盟主であるアメリカは両国間を仲裁する立場だったが、「アメリカ・ファースト」のトランプ政権はそうした外部のことに関心を持たないので、仲裁役も不在となっている。

しかし、韓国側も政府レベルで日本に賠償を求めているのではなく、個人レベルでの民事賠償請求であって、なおかつ、「親韓」の時代には、日本政府自身が1965年日韓基本条約上、個人の賠償請求権は否定されないと解釈していた以上、それを今になって翻すことは、信義にもとる。

他方、韓国側も経済制裁への対抗措置として、先月末、日韓両国間で軍事機密情報を共同で保護する主旨の日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を通告してくるなど、反発を強めているが、このような報復合戦が生産的な結果を産むとは思えない。

現在、アメリカが仲裁役として機能しない以上は、まず日本側が「制韓論」を取り下げて、成長し新興先進国となった韓国との対等的な関係性を改めて構築するほかはない。さしあたりは、政府が当事者とならない民事訴訟にまで介入するような態度を取らないことである。

 

[追記]
2021年1月8日、韓国のソウル中央地裁は、韓国人の元慰安婦が日本政府を相手に損害賠償を求めていた裁判で、原告側の訴えを全面的に認め、日本政府に1人当たり1億ウォン(約950万円)を賠償するよう命じる判決を言い渡した。
この判決は、徴用工判決とは異なり、日本政府を当事者とする裁判の判決だけに、国家が外国の民事裁判において被告とされることを免除する「主権免除」との関連で、法的に機微な問題を含んでいることはたしかである。
しかし、あくまでも下級審の地裁判決である。そのうえ、日本も批准している国連裁判権免除条約では、身体の傷害を引き起こした国家の活動に関しては主権免除を認めないとする条項が定められている。いたずらに反発するのではなく、控訴したうえで上級審の司法判断を待つべきものである。

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EU―ファシズム防壁の危機

2019-05-30 | 時評

2019年の欧州議会選挙は、加盟各国で伸張する反移民≒反イスラーム、反EUを掲げる国家主義諸政党が欧州議会でも伸張するかどうかが焦点であった。開票結果は表面上、中道保守系と社民主義系の二大勢力がいずれも後退しつつ、辛うじて相対的な二大勢力は保持するという微妙なものであった。

焦点の国家主義諸政党の中核会派は「諸国民と自由の欧州」(ENF)と見られているところ、このグループはプラス22議席と伸張したものの、勢力としては第6位にとどまった。しかし、国家主義勢力にはもう一つ「自由と直接民主主義の欧州」(EFDD)という二番手会派が後ろに控えており、こちらもプラス13議席と伸張した。

この二つの勢力を足し合わせると112議席となり、新議会第3位の勢力である。つまり、国家主義勢力が三桁の議席を持つ第三極にのし上がったわけである。この両勢力は有権者を欺く擬態として「自由」を冠しているが、その本質は白人優越の自国第一ファースティズムであり、ファースティズムとはファシズムの現代的表象としてのネオ・ファシズムへの連絡通路である。

これらの勢力はつとに欧州議会内に一定の地歩を築いてはいたが、反ファシズムを旗印とする欧州連合でこうした勢力が決定力を持つことは従来、困難であった。欧州では、欧州連合がファシズム防壁としての役割を果たしてきたのである。

しかし、ついに国家主義勢力が第三極として台頭したことで、ファシズム防壁としての欧州連合に危険信号がともったことになる。このことは、物事を中和化する妥協をこととしてきた「中道保守主義」と「社会民主主義」という互いに相似形化した二種の「中道」勢力の限界を明瞭に示している。

「中道」に失望した有権者を惹きつけた国家主義勢力が今後いっそう伸張して欧州議会の過半数を制するようなことになれば、欧州連合の解体ないしは換骨奪胎によって、防壁は無効化される事態もあり得ることだろう。

そうなれば東西ヨーロッパにまたがる「欧州拡大ファシズム連合」という戦前ファシズムでも見られなかった悪夢となる。そこまで進むかどうかは予断不許だが、欧州旧ファシズムの打倒から来年で75年。当時を体験した世代も少なくなり、ファシズムへの免疫を持たない戦後世代が多数を占める欧州人がファシズムの免疫を再び持つには、もう一度ファシズムを体験するしかないのかもしれない。

ちなみに、アメリカにおけるファシズム防壁は合衆国憲法とその下での古典的三権分立体制であるが、これを超憲法的な統治手法で解体しようとしているのがトランプ大統領である。ここでも、憲法という防壁が侵食にさらされている。

また戦前の擬似ファシズム軍国体制を解体した戦後日本でもアメリカが手を入れた戦後憲法がファシズム防壁となってきたが、こちらも国粋主義改憲勢力の議会制覇により大きく揺らいでいることは周知のとおりである。

欧州、米国、日本とそれぞれの仕方で築いてきたはずの諸国のファシズム防壁が揺らぐ時代である。これらすべてで防壁が決壊すれば、地球全域にネオ・ファシズムが拡散するだろう。その先にはどんな世界が待っているのか、このような問いもSF文学任せにできなくなりつつある。

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「逆走」確立のファンファーレ

2019-05-01 | 時評

元号制度を墨守する日本では、好むと好まざるとにかかわらず、歴史的時間は元号と西暦の二つのモードにより二重に区切られることになる。そこで、今般の改元は、元号モードでの新時代のスタートとなる。問題はどのような時代のスタートかである。

複数案から選択された「令和」については、一部で「違和感」も表明されているが、その焦点は「令」の字にあるようである。これが命令的な意味合いを持つため、「令和」は「和を令する」といった権威主義的な意味合いを帯びるという「違和感」である。

ただ、典拠とされた万葉集の該当箇所「初春の令月にして、気淑く風和らぐ」で使われた「令」は命令の意ではなく、「めでたい」を意味する特殊な用法であるし、「和」も「和をもって尊しとなす」の「和」ではなく、そよ風の形容である。典拠どおりに読めば、「めでたく、やわらか」といった趣意となる。

これなら権威主義とは無縁のようだが、天皇の治世と結合された元号は文学的な表現ではなく、そこに何らかの政治的な含意が込められた一種の暗号であるからして、典拠から採取した二文字を選択的に組み合わせることにより、典拠の原意からは離れていくものである。

そういう目で「令和」を読み解くなら、今般改元ではこれまで漢籍に典拠を求めてきた慣例を初めて破り、国書に典拠を求めるという政権の国粋主義的な指向が強く働いたことに鑑み、他案を押して選択された「令和」は典拠の文学的な趣意を離れ、やはり「違和感」が表明するような権威主義的意味合いが暗示されていると読むこともあながち飛躍ではないだろう。

一方で、二つ前の「昭和」の「和」が早くも復活したことからみて、ここには昭和時代―とりわけ明治憲法時代の昭和前期―をめでたき時代―そのような暗示で「令和」を読むこともできよう―として懐古する復古主義的な意図も感じ取れる。このことは、近代内閣史上最長となることがほぼ確実な安倍政権が集大成として目論む改憲とも点線でつながるように思える。

その点、与党自民党は昨年、新たにいわゆる「改憲4項目」を提示し、2020年からの実施を目論んでいるが、これは前文まで根底から書き換える実質的な憲法廃棄の企てをいったん取り下げ(取り消してはいない)、改憲派野党との合意も睨み合わせ、さしあたり4項目に絞り込む部分改憲の形を取ったものである。

まだ正式に国会全体の改憲発議案となっていないばかりか、連立第一党単独での私案にすぎないことから、4項目を逐一論評することは控えるが、自衛隊の憲法明記、非常事態措置、教育費扶助/私学助成の飴をちらつかせた教育の国家管理、道州制に道を開く地方集権制、参議院の与党支配に道を開く都道府県代表制に集約される改憲提案は、いずれも政府権力の増強に資する項目に照準を当てていることは明らかである。

このような部分改憲が、野党が断片化し、対抗力を喪失した巨大与党主導の体制で実現すれば、まさに和を令し、異を排する全体主義的な一党集中体制を確立することに寄与するだろう。そして、それを皮切りに、いずれは悲願の全面改憲へと進む道も開かれるだろう。

筆者はつとに、戦後日本の歩みを時代を逆にたどって戦前期に戻っていく「逆走の70年」として把握した戦後日本史論を公表しているが、「令和時代」は、そうした逆走路線の確立期となるのではと予測している。悲観的な予測だが、令和改元は逆走路線が確立される時代のファンファーレに聞こえる。

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移民不要社会への転換

2019-03-17 | 時評

15日にニュージーランドで発生したモスクでの銃乱射大量殺傷事件は、これまで平和な楽園的イメージでとらえられていた国での出来事だけに、世界に衝撃を与えている。もっとも、犯人はオーストラリア国籍者ということで、外部からの攻撃とみなすこともでき、今後の捜査の進展を見る必要はある。

とはいえ、全体に平和なイメージのオセアニアという大きなくくりで見れば、この圏域にもアジア・中東等からのイスラム教徒移民の増加が目立ってきているとともに、それに対する白人至上主義者らの反発も強まっていることが窺える。

移民は先史時代以来、人類が反復してきた営為であり、人類の歴史とは移民の歴史とも言えるわけだが、21世紀になって世界的な問題となってきている大量移民の波が20世紀以前の移民と異なるのは、貧困や迫害を理由とする以上に、豊かさを要因としているという逆説的な事実である。

実際、主要な移民送出国となっているアジア・アフリカ諸国にも、20世紀末以降、資本主義的市場経済の発達により、急成長している諸国が少なくない。それにもかかわらず、移民の波が絶えないのは、稼げない者は置き去りにする資本主義が本質的に持つ「置いてけ掘り経済」の性格により、経済発展から取り残された人々の移民志向が高まっているせいである。

つまり、本国で極貧・飢餓状態にあるわけではないが、十分な収入の得られる職に就けず、より良い機会を求めて先発資本主義諸国へ移住しようとする人々の波である。

本来、人間は自身が生まれ育った場所で充足して生きていけるならば、そこから海を越えてまで移住しようとは欲しない。郷里で充足できないから、移民志向が生じる。裏を返せば、充足して生きられる社会は、移民不要社会である。隣国同士がすぐ見えるところにあり、鶏や犬の鳴き声が互いに聞こえるようであっても、民衆は老いて死ぬまで、互いに往来することもないという『老子』の「小国寡民」は、移民不要社会の文学的理想郷である。

そのような移民不要社会への現実的な転換は、「途上国援助」ではなくして、そもそも資本主義の揚棄を通じて、環境的な持続可能性をも考慮した共産主義計画経済を実現することによってしか成し得ないだろう。

しかし、それは一朝一夕に達成できることではないとすれば、それまでの間の暫定施策として何ができるかを考究することも必要である。

その際、伝統的な「難民」の概念を離れ、移民を「機会移民」と「避難移民」の二種に分けることである。機会移民とはまさにチャンスを求めて移住してくる人々であるが、このような移民は移民受入国側の雇用政策・人口政策上調整が必要であるので、無限に受け入れることはできず、政策的な枠を設け、家族呼び寄せも制限する。

それに対して、避難移民は故国での何らかの危難を逃れて移住してくる人々であり、優先的保護の必要性が高い移民である。このような移民は難民の厳密な要件に該当しなくとも、難民に準じた保護を与える必要があり、家族呼び寄せの権利も保障しなければならない。

こうした避難移民の受け入れが特定諸国の集中的負担とならないよう、避難移民保護条約のような国際条約を制定して、受け入れ余力のある世界各国がそれぞれ応分に受け入れの義務を負うような国際施策を実行すべきである。

しかし、繰り返せば、このような施策はあくまでも暫定的なものにとどまるのであり、究極的には移民不要社会への転換を目指すべきことに変わりない。それが大量殺傷事件のような悲劇と、このような悲劇を餌に台頭してくるファシズムとを根本から撲滅する策である。

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アメリカン・ファシズム足踏み

2018-11-08 | 時評

現在、アメリカ合衆国は一つの歴史的な社会実験の渦中にある。それは、古典的な三権分立テーゼに忠実な現行合衆国憲法下で、どこまで全体主義ファシズムが可能なのかどうかという壮大な二律背反的実験である。

先般実施されたいわゆる中間選挙の結果次第では、本稿タイトルも「アメリカン・ファシズム着々」となるはずであったところ、結果は、上院で与党・共和党が議席を伸ばして多数派を維持するも、下院では野党・民主党が多数派を奪回するといういわゆる「ねじれ国会」の見込みとなったため、「着々」とは行かなくなった。

本来、典型的なファシズムを完成させるためには、国家指導者への徹底した権力集中と、それを可能とする翼賛的政治マシンの役割を果たす政治組織(政党の形でなくともよい)とを必要とする。その点、トランプ大統領は就任以来、自身の主張によれば憲法修正すら可能とする万能の大統領令を多発して、議会を迂回した政策執行を常套としてきた。

政治マシンに関しても、150年以上の歴史を持つ愛称Grand Old Partyの共和党をほぼ乗っ取る形で、大統領の意のままに動く事実上の「トランプ党」に変質させることに成功しつつある。元来、アメリカの政党は組織力が弱く、政治クラブ的な性格が強いため、与党側から内的に大統領権力を牽制することが難しい構造にあることも、追い風である。

従来、オバマ前政権下で起きていた共和党の上下両院制覇の結果が引き継がれていたため、トランプ政権下最初の今般中間選挙で共和党が連勝すれば、アメリカン・ファシズムは「着々」となるはずであった。しかし、そうはならなかった。「ねじれ」という微妙な結果は、アメリカ有権者がトランプ政権におずおずとながら「待った」をかけたことを意味している。

とはいえ、「アメリカン・ファシズム阻止」とも言い切れない。「ねじれ」の結果、上院は共和党が引き続き握る限り、下院を制した民主党にできることは限られている。その点、アメリカ下院には優越権がなく、伝家の宝刀たる大統領弾劾に関しても訴追権しかないなど、弾劾裁判権を保持する上院の方が権限が強いことはマイナスとなる。

表向き「勝利」宣言を発したトランプ政権が、「ねじれ国会」体制という現実の中でどう出るかはまだわからない。現行憲法上、大統領に議会解散権はないため、意に沿わない下院を解散することは憲法上できないはずだが、大統領令で憲法修正も可能とする大統領の主張によれば、大統領令によって憲法を修正したうえ、下院を解散・封鎖するという強権措置も視野に入れているのかもしれない。

いずれにせよ、次期大統領選挙年である2020年に向け、"President Trump"が"Führer Trump"へと飛躍し、そのまま再選へとつながるのか、それとも"President Trump"のまま凋み、一期で去るのかの分かれ道であることに変わりない。

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21世紀独裁者は選挙がお好き

2018-08-12 | 時評

かつて独裁者と言えば、クーデターのような不法な手段で政権を奪取して最高権力の座に就き、一度も選挙をしないまま、もしくは野党を排除した出来レースの茶番選挙によって長期間居座るということが普通だったが、21世紀の独裁者はもはや違う。

昨今の独裁者たちは以前はあれほど回避していた選挙を好むようになっている。固有名詞は挙げないが、このところ、世界中で選挙によって長期政権を維持する独裁者が増えている。この様変わりはどういうわけだろうか。

その秘密は新興国・途上国でも発達し始めているネット情報社会にある。かつては新聞・テレビくらいしかなかった選挙メディアがインターネットにより急速に拡大され、選挙過程で有権者を惑わすような情報操作が容易になったことが大きいであろう。

アメリカで疑惑が持たれているように、外国政府が選挙過程に情報操作介入し、選挙結果に影響を及ぼすことさえ可能になっているのであるから、自国内での情報操作くらい朝飯前のことである。

こうして形式上は合法的に虚構された選挙で当選を重ねれば、強い「民意」を得たことになり、むしろクーデター等の不法手段で政権に就いた場合以上に、「民意」に基づいて堂々と恣意的な権力行使が可能となるという点で、選挙は独裁体制を助ける。

筆者はかねて「議会制ファシズム」という概念矛盾的な用語を提示してきたが、「ファシズム」に限らず、様々なイデオロギーを帯びた「選挙制独裁主義」という政治手法が現実のものとなっている。裁判官でさえ選挙する選挙王国のアメリカにおいてすら、その傾向が増してきているありさまである。

しかし教科書的には、現在でも公職選挙こそ民主主義の最大の象徴と記され、そう信じられているから、「選挙制独裁主義」は概念矛盾であり、選挙がお好きな独裁者への批判は歯切れの悪いものとなる。

このあたりで、長く奉じられてきた「選挙信仰」に見切りをつけるべき時なのではなかろうか。選挙は民主主義を保障するものではない。それどころか、ネット情報社会にあっては、情報操作によって独裁者に「民意」のお墨付きを与えてしまう危険がますます高まっているのである。

その点、筆者はかねてより代議員免許制に基づく抽選制(くじ引き)を提唱してきた。抽選は遊戯のように見えて、実は誰からも異論の出ない最も公正な選出方法である。選挙制度への代替案として、真剣な論議の対象となることを期待したい。

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熱波禍から計画経済へ!

2018-08-05 | 時評

世界中で熱波の被害が広がっている。「禍」と冠するべき明らかな異常気象であり、しかも自然的な要因のみならず、人為的な要因を抜きにしては想定し難い異常さである。

異常気象の被害は、貧困層や一般労働者階層に集中して生じやすいとも言われる。たしかに、海面上昇や洪水は一般的に高台の一等地に住む傾向の強い富裕層には及びにくい被害かもしれない。そうした意味では、気候変動にも階級的な側面は認められる。

しかし、熱波の被害は階級的に「平等」である。もっとも、冷房完備の邸宅・移動手段を利用しやすい富裕層は、熱波からの自衛上有利な立場にあるとも言えるが、年齢や既往歴などを考慮すれば必ずしも決定的な有利さではない。

この期に及べば、党派を超えて環境破壊的な市場経済からの決別を考えてもよいものだが、そうした議論はいまだに低調である。美しい理念と詳細な環境政策を標榜する先進的な環境諸政党も、相変わらず「市場経済と環境保護の両立」という予定調和論でお茶を濁し続けているようである。

他方、世界最大級の二酸化炭素排出国アメリカでは、気候変動の用語すら検閲削除しようとする強硬な反環境主義政権が出現し、大衆の喝采を浴びている有様である。

熱波に斃れても、最期の瞬間まで金銭的利益を追求したいホモ・サピエンスの動物的な衝動なのであろうか。しかし、ホモ・サピエンスが文字どおり「知恵あるヒト」ならば、市場経済はその本質上、環境的に持続可能でないという現実にそろそろ目覚めてもよい頃である。

そうして熱波を自然からの警告ビームと受け止め、改めて環境的に持続可能な計画経済の可能性を探ることである。標語的に言えば、熱波禍から計画経済へ!である。

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朝鮮戦争終結に向けて

2018-06-13 | 時評

12日に行なわれた「歴史的な」米朝/朝米首脳会談については、その準備不足と内容希薄に見える点について批判も根強いが、何はともあれ、1948年の朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)建国以来、初めて両首脳が直接に顔を合わせたことの意義は過小評価できない。

こうしたことが可能となったのは、トランプ大統領の「ハンバーガーを食いながら朝鮮首脳と会談する」という事実上の公約に加え、イデオロギーや国情こそ異なれ、両国首脳の独裁的なトップダウン手法が奇妙に合致したことによるところが大きい。

他方で、会談の曖昧な「成果」に関する懸念にも一理以上ある。最も懸念されるのは、会談が両国間限りでの相互不可侵条約的な「成果」に終わることである。これは、第二次世界大戦前の独ソ不可侵条約のように、毛色の異なる独裁者に率いられた両大国が互いの権益を承認し合うことに終始し、結局のところ合意破棄・開戦を避けられなかった歴史を思い起こさせる。

こたびの首脳会談では、「朝鮮半島非核化」という多義的な解釈の余地を残す大雑把な枠組み合意がなされたにとどまっており、たしかに具体的な内容に乏しい。その点では初めの半歩にすぎず、さらに数回は首脳会談を重ね、その間に実務者協議を通じて、そもそもの緊張要因である朝鮮戦争の完全終結をもたらさなければならない。

冷戦終結から30年を経過してもなお冷戦の氷が固く張っている唯一の場所が朝鮮半島及び日本を含めた周辺地域である。この異常を正すには、半世紀以上も「休戦」という半端な状態が続く朝鮮戦争を終結させる必要がある。トランプ大統領がいささか性急に示唆した在韓米軍の撤退も、朝鮮戦争終結あって始めて現実性を帯びるだろう。

トランプはヒトラーに匹敵するほどの煽動政治家だが、ヒトラーとは異なり、積極的な対外侵略には消極で、得意の標語「アメリカ・ファースト」に象徴されるように、むしろ内向きの愛国主義=自国優先主義=ファースティズムのイデオロギーに基づき、世界各地からの米軍の引き上げを志向していることは、朝鮮戦争終結にとっては追い風となる。

しかし、朝鮮戦争を完全に終結させるためには、二国間協議では足りず、韓国及び朝鮮戦争の交戦当事者である国連も交えた包括的な多国間協議が必要である。ここではファースティズムの手法は妥当せず、インターナショナリズムを活性化させなければならない。

トランプをノーベル平和賞に推薦する政治的動きが見られるが、取り巻きによるお追従ではなく、真に平和賞に値するのは朝鮮戦争終結がトランプ政権下で成った場合のことである。その場合もいいとこ取りの単独受賞ではなく、南北朝鮮首脳(プラス国連)と分かち合う同時受賞が国際平和の道である。

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イタリアにファースティスト政権誕生

2018-06-02 | 時評

イタリアで1日、成立の運びとなった五つ星運動と同盟(北部同盟)の連立政権は、イタリア戦後史を大きく変える陣容となった。五つ星と同盟は共に大衆迎合的なポピュリスト政党として近年急速に台頭してきた新興政党である。

従来のイタリアは長く保守政党を軸とした連立政権が続いた後、強力な万年野党・共産党の実質的な解体を受け、中道左派と中道右派の二大政党(勢力)政へ移行していたところ、両者の近接によりイデオロギー対立が解消される一方、中道的な政治の八方美人的限界を露呈していた。

そこへ、急増する移民に対する排斥策と反EU論を引っさげて現れたのが、ポピュリスト政党である。もっとも、五つ星は表面上、直接民主主義や環境主義を打ち出すなど、緑の党に似せた進歩主義を装い、左派政党的な色彩を出していたが、より右派色の強い同盟と連立を組んだことで、その正体が明らかとなった。

こうした反移民・反EU政党は、大衆迎合=ポピュリズムを手段としつつ、自国(民)優先主義=ファースティズムを共通イデオロギーとしている。ファースティズムは表面上、労働市場における自国民優先や国家主権の回復を謳うが、根底には人種/民族差別主義と強い国民国家の構築を願望する国家主義を秘めている。

人種差別と国家主義の結合は、ファシズムの特徴でもある。結局、ファースティズムとはファシズムの現代版=ネオ・ファシズムの土台となり得る政治潮流にほかならないのだ。歴史を振り返れば、戦前のオールド・ファシズム潮流の発信源も、ほぼ百年前のイタリアだった。

もっとも、今般のファースティスト連立政権には、ファシスト党の直系政党とも言える「イタリアの兄弟」は参加しておらず、旧ファシスト党とは別系統の流派である。だからと言って、この政権はファシストとは無関係と油断してはならない。二つの流れは地下でつながっているからである。

現状は毛色になお相違あるファースティスト政党同士の連立という不安定さを残しているせいか、政権トップの首相には無所属で政治経験なしの大学教授を据えるという妙策を採った。この首相は両党の仲介人にすぎず、権力は当面、両党が分有するだろう。

その点では、一般的にかつてのムッソリーニのような独裁者が指導する一元支配体制を取るファシスト体制にはまだ遠い。しかし、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇、二度目は喜劇として」とは、マルクスの名言である。

イタリアのオールド・ファシズムは敗戦による体制崩壊と首領ムッソリーニの殺害という悲劇に終わったが、ネオ・ファシズムはどんな喜劇を見せるのであろうか。五つ星運動の共同創立者がコメディアンであることも、すでに喜劇の始まりを予感させる。

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マルクスは銅像を望まない

2018-05-06 | 時評

中国政府がカール・マルクス生誕200年を記念して、彼の郷里であるドイツのトリーア市にマルクスの銅像を贈呈したことが地元で紛議を呼んでいる。マルクスに関してはドイツでも賛否が絶えないだけに、予見された事態ではあるが、筆者はマルクスの銅像には賛成しかねる。

しかし、その理由は地元反対者が掲げる「マルクスは数百万人もの共産主義の犠牲者に対する間接的な責任がある」というようなことではない。このような理由付けは、冷戦時代の反共プロパガンダと何も変わらず、マルクスを読まずして否定する反共主義者の決まり文句に過ぎない。

反共主義者が憎むべき「共産主義」だと信じ込んでいるものがいかに共産主義にあらざるものかは当ブログが折に触れて論じてきたところであるし、かれらが主として念頭に置く旧ソ連体制(及びその亜流体制)がマルクスの理論からの離反の産物であることもつとに論証したので繰り返さない(拙稿参照)。

マルクスの銅像に反対すべき理由は、マルクス自身そのような偶像化を望まないはずだからというものである。マルクスは、偶像化に象徴されるような教条主義から最も遠い思想家であった。そのことは、彼のほとんど常に断片的かつ未完成ゆえにそこから教条を抽出することは困難な著作群に少しでも触れればわかることである。

マルクスは生前、一部の人の間でしか知られないマイナーな思想家であった。彼を偶像に仕立てたのは後世の人々であり、特にソ連共産党であった。中国共産党もその一つであるが、現在の中国共産党はマルクスからほど遠い資本主義街道を驀進中である。ある意味では、現代中国にとって、マルクスはもはや銅像として飾られるべき歴史上の人物に過ぎないのかもしれない。

ソ連共産党が奉じていたマルクスの偶像はその体制解体とともに砕け散ったが、約30年の時を経て、今度はマルクスが事実上用済みとなった中国共産党の手によって再建されたうえ、郷里に送還されたと象徴的に解釈することができるかもしれない。

いずれにせよ、マルクス生誕200周年になすべきことは、マルクスの偶像化ではなく、マルクスの再読解を通じて彼の思想を改めて真の共産主義社会構築の一助として咀嚼することである。それは、マルクスを正しく埋葬し直すことでもあるのである。

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トランプ政権一年と新冷戦宣言

2018-01-31 | 時評

今月19日に米国防総省が公表した今後数年の優先課題を示す新たな国防戦略では、中国とロシアについて、自国の権威主義モデルに沿った世界の構築を目指す「修正主義国家」と規定し、過去十数年の間、米国が優先課題としてきた対テロ戦争から両国との対抗に重点を移すとした。

トランプ政権発足1年の節目前日に公表され、トランプ大統領による初の合衆国現状演説(一般教書)にも取り込まれたこの「新戦略」は、米国の21世紀第二四半世紀へ向けた新たな世界戦略を示したものと言えるであろう。

その特徴として、「競合国」と名指す中露両国の現状を「修正主義」と規定していることが注目される。「修正主義」とは、かつてマルクス主義内部で、その教条から離反しようとする一切の主義を非難する文脈で用いられた用語であったが、それを反マルクス主義総本山の米国政府が公式文書で用いるとは驚きである。

たしかに、現時点での中国は政治的には共産党体制を固守しながら、経済的には党の管理下で市場経済化と実質的な資本主義路線が定着、毛沢東時代であれば、間違いなく「修正主義」と断じられる道を歩んでいる。一方、ソ連解体後のロシアは共産党体制を清算した後、プーチン大統領率いる旧ソ連保安機関を出自とする諜報官僚集団が前面に出て、やはり国家管理の強い資本主義体制を構築しようとしている。

両体制に共通するものがあるとすれば、マルクス主義の修正よりも、むしろ資本主義の修正であろう。すなわち国家管理の強いタイプの資本主義―国家資本主義―というモデルを共有していると言える。その上部構造は両国で異なっているが、権威主義的な集権体制―筆者はこれを現代的な管理ファシズムと規定する―という限りでは近似している(拙稿1拙稿2参照)。

実際、近年の中国とロシアは、国際社会で共同歩調をとることが多い。とはいえ、現時点では経済力で明らかに優位に立つ中国がロシアに主導権を譲る可能性はないし、他方でロシアも中国に従属する意思はなく、両者の関係性は微妙である。その意味で、中と露の間には/記号を挿入しておく必要があろう。

こうした中/露に「対抗」して、再び大国間の競争的な世界を構築しようという米国新戦略の発想は、21世紀における新たな冷戦宣言と呼んでもよい意義を持つことになるだろう。世界の流極化のなかで、米国の絶対的優位性が示せない中、時間軸を再び冷戦時代に戻して覇権を取り戻そうという懐古主義の悲哀も感じられる。

しかし、旧冷戦時代とは異なり、新冷戦にあって、米国はもはや「自由」の守護者を主張することはできないだろう。なぜなら、米国トランプ政権も発足から一年、議会対応に苦慮しながらも、移民排斥や白人優越主義の活性化では着実な“実績”を上げ、自由の女神を色褪せさせているからである。

トランプ政権発足前の拙稿で予見したアメリカン・ファシズムの性格はまだ顕著化していないが、大統領が自身の「宣伝大臣」を務め、議会を通さない大統領令を濫発するトランプ政権の権威主義的性格は、歴代どの米政権よりも濃厚である。

とすると、中/露vs.米の新冷戦とは、権威主義vs.自由主義の対抗関係ではなく、権威主義―ひいては管理ファシズム―同士の内輪もめ的な内戦的対抗関係ということに帰着しそうである。この偏向した対抗関係の終着点が奈辺にあるのかはまだ不透明である。

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「首都」固定概念の超克

2017-12-08 | 時評

トランプ米政権が、エルサレムをイスラエル首都として公式に認知するという禁断策に手を付けたことで、中東の火に油を注ぐ結果を引き起こしている。もっとも、対立と分断の火種を作り出し、戦争を大衆動員の手段とすることはファシスト体制の定番であるから、今回の決定はトランプ政権のファッショ的性格をまた一つ露にしたものと言える。

しかしここではファシズム云々ではなく、全く別の角度から問題を評してみたい。それは、そもそも「首都」なんて必要ない!ということである。「首都」とは国家権力の中枢が集中している都市を指すが、それは根本的に中央集権国家の所産である。国家という化け物には頭と尾の区別が不可欠で、頭の部分が首都となるのだ。

もっとも、国家も分権化が進むと首都も分散されていく傾向にある。実際、ドイツのように、立法/行政と司法が別の都市に分散されていたり、南アフリカ共和国のように、立法・行政・司法の三権がそれぞれ三つの都市に分散されている例すら出てきており、「首都」の概念は相対化されつつある。

中央集権制の強いイスラエルの場合は、立法・行政・司法すべてをエルサレムに集中させているため、そうした「現実」を考慮して「首都」と認知するというのがトランプ政権の口実である。実際のところは、「分離壁」によるアパルトヘイト政策を推進する現イスラエルへの親近感が禁断決定の背後にあるに違いない。

しかし、エルサレムは中東生まれのユダヤ・キリスト・イスラームの三大宗派すべてが「聖地」とみなす聖都としての意義を担っており、単に一国家の首都をどこに置くかという問題を越えた複雑さを有するため、「首都」の概念は宗教戦争を内包している。むしろ、中東三大宗派の共同聖地というより高次の現実を考慮し、三大宗派の「共同聖都」と認定するほうがよほど賢策であろう。

2009年には、スウェーデンがエルサレムをイスラエル・パレスティナの共同首都とするよう求める折衷案を提案したが、エルサレムを永遠の首都とみなすイスラエルの強い反発・抗議にさらされた。「首都」概念に固執する限り、この問題はパレスティナ紛争とともに永遠に未解決であろう。

「首都」概念の最終的な超克は、国家という観念の揚棄によってのみ可能である。すなわち、領域圏の概念である。領域圏には民衆代表機関―民衆会議―の所在地としての代表都市はあっても、「首都」概念は存在しないからである。エルサレムであれば、例えばイスラエル‐パレスティナ合同領域圏の代表都市として止揚され得る。

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