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良心的裁判役拒否(連載第14回)

2011-12-09 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第7章 良心的拒否の基礎(続き)

(3)選択的拒否と全般的拒否
 良心的拒否が正面から認められるようになると、実際に拒否が認められる範囲はどこまでかという問題が生じてきます。とりわけ、ある特定の場合にだけ義務の遂行を拒否する「選択的拒否」の可否が問題となります。
 例えば、兵役の例では、侵略戦争への従軍は拒否する(他の戦争ならこの限りでない)とか、裁判役で言えば、今回与えられた事件での裁判員任務は拒否する(別事件ならこの限りでない)といったことが許されるかどうかです。
 このように特定の場合にだけ義務の遂行を拒否するという態度は、およそあらゆる場合に義務の遂行を拒否する「全般的拒否」よりも現実的で穏健なものと言えなくありません。そこで、このような選択的拒否をこそ保障すべきではないかとの考え方もあり得るところです。
 ところが、事はそう簡単ではないようです。このような選択的拒否で問題なのは、選択の基準が明確に立てられないことです。例えば、イラク戦争は侵略的だが、アフガニスタン戦争はそうではないと言い切れるでしょうか。こういう議論をしていると終わらなくなってしまう恐れもあります。
 まして裁判役の場合、A事件と別のB事件との違いをどこに見出したらよいでしょうか。一応、死刑相当事件とか冤罪事件といった線引きも考えられなくはありませんが、死刑相当か、また冤罪かといったことは、審理してみないとわからないことであって、事前にはっきりと識別できるものではありません。
 もっとも、死刑相当事件の場合、最高刑が死刑に係る事件かどうかで一応区別できますが、最高刑が死刑に係る事件だからといって死刑以外に選択肢が全くないわけではない以上(例外中の例外として、刑法81条の外患誘致罪は法定刑が死刑のみ)、この区別も相対的なものにすぎません。
 となると、選択的拒否を認めることは、拒否者による恣意的な対象選択を許す結果となりかねないため、むしろおよそ兵役なり裁判役なりをすべて拒否するという「全般的拒否」だけが認められるということになります。
 実際上、このような全般的拒否者であって初めて、その人の信念なり信仰なりが法的保護に値するほど強いものであることが確証され、その信条に反する義務の遂行を強制することの違法性も露わになると言えるでしょう。

(4)人を裁くなかれ
 良心に従い裁判役を全般的に拒否するというときに判断の規準となる規範は、「人を裁くなかれ」というものでしょう。
 この規範はキリスト者にとってはなじみの深いものと思われます。というのも、イエスの教えの中心はまさに「人を裁くなかれ」にあったと言って過言ではないからです。
 当時のユダヤ教では石打ちの刑(死刑)に相当する大罪とされた姦淫の罪を犯した女が連れてこられたとき、イエスが「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と呼びかけたところ、誰も投げる者なく、イエスは女に二度と罪を犯さないよう諭して帰らせたという『新約聖書』のエピソードはよく知られています。
 こうしたイエスの教えは「人はみな罪人である」といういわゆる原罪論と、それを基礎とした隣人愛の思想に由来するものでした。従って、キリスト者であれば、この教えに従って、裁判役を全般的に拒否することは困難ではないでしょう。
 しかし、「人を裁くなかれ」という規範は決してキリスト者だけの専売特許ではなく、非宗教的な信条としても十分に成り立つものと思われます。「原罪」という考え方に立つかどうかを問わず、隣人に対して法壇の高みから人を裁く資格があるほど崇高な人間は存在するのでしょうか。
 たしかに自分であれば絶対に犯すことはないだろうと思われるような犯罪を犯す人は存在するわけですが、しかしもし自分がその人と同じ境遇にいて、同じ状況に立たされたら絶対に同じことをしなかったと断言できるかどうか・・・。
 それを考えると、人を裁く資格が自分にあると確信できる人はほとんど存在しないのではないかとさえ思えてきます。このことは「人を裁く」ことを仕事としている職業裁判官についても言えることですから、この議論を延長していくと、司法制度ないし刑罰制度の存立可能性如何という問題に到達しますが、ここでは深入りしません。
 ともあれ、裁判員制度では「裁く」という要素が一段と強く現れるのは、理論編でも見たように、この制度が「犯罪との戦い」という法イデオロギーに立って重大犯罪に厳罰で対応するというコンセプトを強く帯びているからです。
 元来、事実認定・法令の適用・量刑と三段階ある刑事裁判作用のうち、刑罰の種類と量を決める量刑には「裁く」という要素が濃厚なのですが、裁判員制度の圧倒的な重点は、重大犯罪において一般国民が「健在な社会常識」なるものをもとに刑罰を下すという量刑の点にあるのですから、強烈に「裁く」制度なのです。
 これに対して、陪審制における陪審員の役割は基本的に否認事件での事実認定、それも細かな認定より有罪・無罪の結論を出すことにありますから、「裁く」という要素はゼロではないとしても、裁判員制度に比べればはるかに希薄であることはたしかであり、「人を裁くなかれ」という信条とも比較的両立しやすいと思われるのです。

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