生活保護受給者が過去最高を更新し続ける中、各地で一家丸ごと餓死するようなケースが続発している。こうした事象の背景に、生活保護制度自体が本質的に抱える問題性があることはほとんど議論されていない。
従来、生活保護制度をめぐっては、財政難を理由とする自治体の「水際作戦」によって申請自体を拒否され、受給できないという運用上の問題点が指摘されてきた。これは行政による権利妨害であり、憲法訴訟にも発展する。
しかし、昨今生じている問題は、申請すれば受給できる可能性の高い世帯が申請しないまま餓死してしまうケースだ。なぜこのような問題が生じるのか。
それは、生活保護という現行制度が旧式の救貧法(poor law)の性格を脱していないことから、受給することに負い目や屈辱感を生じさせるためである。この感情は一種の自己差別であるが、そうした自己差別は周囲や社会全般からの生活保護受給者に対する差別的白眼視に由来するものでもある。
一部の不正受給事例を槍玉にあげ、“生活保護に寄生する怠け者”を攻撃する一部保守系政治家・評論家らの差別的言動も、正当に受給しようとする者に萎縮効果を与えているであろう。
こうした問題の本質的な解決のためには、生活保護という悪制―あえてそう言おう―を廃止して、新たな制度に移行することである。
すなわち救貧という発想をやめ、一般福祉(general welfare)としての「社会連帯給付金制度」を創設するのである。要するに、“哀れな貧困者”を救うのではなく、人間の生活保障という点ではまことに不安定・不合理な経済システムである(!)資本主義が続く限り、誰もが直面し得る困窮事態への社会的な備えとしての制度の創設である。
その概略を覚書的に記してみると━
*一定期間継続して無収入(もしくはそれに近い僅収入)の見込みが高ければ、誰でも受給を認める。反面、申請に当たっての親族援助の問い合わせと資産調査、さらに受給開始後の生活統制はしない。
*受給期間は原則1年とし、1年ごとに受給の必要がなくなるまで更新する。申請と更新に当たっては、年齢や職歴、病歴等に照らした客観的な稼得可能性を審査し、稼得の「努力」という主観的要素は重視しない。また、求職活動・職業訓練の強制もしない。
*受給額は法定最低賃金で計算した月額の一括給付を原則とし、世帯人員や年齢、未成年子の有無・人数等を考慮して適宜加算する。ただし、日本の現行最賃は低すぎるので、これを適正額まで引き上げることが前提である。一方、医療費・教育費など使途を定めた恩恵的給付はしない。
このような制度であれば、財政的制約の中でも広く要受給者をカバーし、かつ受給者の負い目感情を緩和することができるであろう。こうした制度こそ、「絆」の真の表現ではないか。それなくして言葉だけの「絆」をいくら口にしても空虚である。