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戦後日本史(連載第10回)

2013-07-03 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔三〕革新・革命運動の高揚と限界

 「逆走」のスピードダウンの意図せざる副産物として、60年代以降、左派の革新・革命運動の高揚という政治・社会現象が発現した。
 直接的には60年安保闘争を源として学生運動が活発化した。青年主体の運動によくありがちなように、学生運動は急進化して革命運動となった。その沸騰点は、世界的な学生運動の高揚が同時多発的に起きた68年であった。日本では69年初頭、急進的学生運動家らが東京大学安田講堂で機動隊と衝突した「安田講堂事件」に象徴された。
 しかし、大学進学率が低かった当時、大学生は中産階級以上の家庭から出た少数エリートにすぎず、学生運動は労働運動との結合がないまま、徒に急進的なスローガンを叫ぶ独善的な運動に走り、当局の力による鎮圧を招いた。
 そうした抑圧によっても刺激されたビジョンなき革命論は、爆破やハイジャックのような過激手法で社会不安を引き起こす派生的な過激集団を生み出し、一般民衆の支持・共感を得ることはできなかった。
 一方、60年代以降、地方自治体レベルでは社会党や共産党の支持を受けたいわゆる革新系首長を多く生み出した。67年に当選したマルクス経済学者出身の美濃部亮吉東京都知事はその象徴と言える存在であった。
 これら首長に率いられた革新自治体は国の政策よりも踏み込んだ福祉の充実や公害対策を訴え、一般民衆の支持・共感を得た。しかし一方で、こうした「革新勢力」は議会政治に順応して急進性を失い、資本主義を基本的に受容する社会民主主義的路線に収斂していった。日本共産党の穏健化もそうした流れの中にあった。
 こうした議会主義的な「革新勢力」の大衆的支持基盤となっていたのは労組であったが、日本の労組は占領期のGHQの政策転回以降、組織率が急落・低下傾向にあったことに加え、企業別の性格が強く、産別労組が未発達で横の連携がとりにくいうえ、労働界でも官公労組が指導的地位を占める官民格差が見られるなど、労働運動の広がりにも限界があった。
 それでも、当時最大の労組センターで社会党の支持基盤でもあった「日本労働組合総評議会」(総評)は、比較的高い団結力を示し、社会党を通じてブルジョワ・ヘゲモニーに対する主要な対抗勢力として無視できない影響力を発揮していた。
 このように、60年安保闘争で生じた「逆走」のスピードダウンがもたらした左派勢力の運動は60年代から70年半ばにかけていっとき高揚を見せるが、そこには後々退潮・瓦解の要因ともなる限界も内在していたのである。

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