第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92
〔一〕右派・中曽根政権の登場
ロッキード事件後の政治・経済的閉塞状況を打開する体制引き締めの任務は、1982年に鈴木善幸首相の後任となった中曽根康弘に委ねられることとなった。
中曽根は戦前の天皇主権国家の内政・治安面の要であった旧内務官僚の出身であり、こうした出自の点でも、20年余りにわたって停滞していた「逆走」の流れを再活性化させるにはまことにふさわしい人物と言えた。
とはいえ、「闇将軍」田中角栄の影響力はなお絶大であり、党内少数派閥の長にすぎなかった中曽根の首相就任に当たっても田中の支持が決定的であったため、政権の支配人役たる内閣官房長官には田中系の後藤田正晴を起用する異例の配慮を示した。
しかし、その後藤田も中曽根とは肌合いが異なったとはいえ、旧内務官僚にして戦後は警察庁長官を歴任した警察官僚であったため、中曽根政権は結果的に旧内務省コンビが官邸を主導する形でスタートし、このことが「逆走」再活性化の上でも効いてくる。
中曽根は「逆走」のアクセルを再び踏み直すに当たって、「大統領型トップダウン」を掲げて官邸の主導性を追求し、特に内閣官房の強化を図った。この点でも50年代の「逆走」始動期のワンマン宰相・吉田茂型の政治手法の復活とも言えた。
中曽根はかねてからの確信的な改憲論者にして、防衛力増強論者でもあり、特に防衛政策に関しては防衛費をGNPの1パーセント枠に抑制する不文律をあっさりと撤廃し、その後の防衛力増強の流れに道を開いた。
また中曽根政権は旧内務官僚出身者を閣僚に多く擁する旧内務省系政権にふさわしく、治安管理の強化にも踏み出した。中曽根政権下では、政権発足直前の82年6月に反体制的な社会運動に対する治安取締り強化方針を打ち出した警察庁長官訓示を踏まえ、それらの団体・関係者に対する軽犯罪法まで動員した検挙が活発化した。
同時に、中曽根は「司法のオーバーラン」を口にして司法部の違憲審査権の積極行使を牽制し、70年代以降の「司法反動」をいっそう推進する構えを見せた。
中曽根はまた「戦後政治の総決算」を政権スローガンに掲げ、歴史認識の点でも、帝国主義的過去を相対化する歴史修正主義的な立場に立ち、閣僚の靖国神社公式参拝に関する政府の憲法解釈を緩め、85年8月15日には公式参拝に踏み切った。ただし、この行動に対して78年に国交を樹立した中国(中華人民共和国)が反発すると、中曽根は以後公式参拝を控えた。
こうした中曽根の右派的傾向は、親米を軸として内政においては「逆走」を推進していく事大主義的な親米保守の路線内にあった。実際、中曽根は当時のレーガン米大統領と親密な関係を築き、いわゆる新保守主義的な政策を共有し合いながら、日本を米国の「不沈空母」と規定して、軍事的にも対米協力を積極的に行う姿勢を示した。