第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82
〔五〕成長の終焉と政治閉塞
1960年以降、「逆走」のスピードダウンによる経済開発優先路線によってもたらされたいわゆる高度経済成長は、第四次中東戦争に伴う石油危機(第一次)を機に終焉した。その経済成長がマイナスに転じた1974年は、ちょうど時の田中角栄首相が不明朗な政治資金問題―いわゆる「田中金脈問題」―を指摘され、退陣した年でもあった。
先に述べたように、田中は60年代以降の経済開発優先路線を象徴する人物でもあり、「列島改造」を掲げ、全土を徹底的に開発の対象としていく野心的な政策プログラムを展開しようとしていたが、そうした路線が生み出した金権体質に自らが染まっていたのだった。
田中自らが主犯格となったロッキード事件は、その象徴的出来事であった。76年、前首相の逮捕という史上初の衝撃的なクライマックスを見ることになるこのアメリカ発の国際的な汚職事件は、しばしば日本側の捜査を主導した検察当局の果敢さを示す武勇談として記憶されているが、実際のところ、田中退陣後の与党・自民党内で激化していた権力闘争を強く反映していた。
当時、反田中の急先鋒は二代後に首相となる福田赳夫であったが、田中の後任首相には、党内の「裁定」により少数派閥を率いる三木武夫が就いた。三木は元来中道政党・国民協同党の流れを汲み、「クリーン」をもって任ずる人物であった。その三木が後任に就いて政治浄化を掲げるようになったことは、田中にとって明らかに不利な情勢であった。三木が田中逮捕にゴーサインを出したことが、検察の「果敢な」行動に道を開いたのである。
しかし、党内基盤の弱い三木内閣が長続きすることはなく、ロッキード事件後ほどなく退陣、後任には満を持して大蔵官僚出身の福田が就いた。福田は岸信介の流れを汲む党内右派の代表格と目されており、ここで久しく鈍化していた「逆走」の流れが再び本格化するかに思われたが、そうはならなかった。
その理由は様々考えられるが、一つにはロッキード事件後に国民の政治不信が高まり、それを背景として76年には党内の一部が離党して新党・新自由クラブを結成するなど、党分裂の兆しすら見えていたことがある。また田中逮捕後も勢力を維持していた田中支持派からの巻き返しも激しく、福田内閣は腰をすえて政権運営に当たる余裕がなかった。
結局、福田内閣も長続きせず、田中派の支持を受けた同じ大蔵官僚出身の大平正芳に首相の座を譲るが、大平内閣では党内抗争はいっそう激化した。80年には野党・社会党が提出した内閣不信任案に党内反大平派が欠席する形で事実上同調、可決させる事態となった。
これを受けて行われた解散・総選挙の渦中、大平首相は病気で急死した。結果的に、この選挙で自民党は大勝し、大平派の鈴木善幸が首相に就任して党内融和に努めることになるが、この頃から、離党した刑事被告人の身ながら田中角栄の隠然たる党内支配力が強まり、いわゆる「闇将軍」として首相の人選にも影響力を行使するようになった。
こうして、経済成長が終焉した74年以降は、79年の第二次石油ショックによる世界的不況にも直撃され、日本経済が下降期に入っていく中、政治的にも閉塞した状況が続く。80年代に入ると、ブルジョワ・ヘゲモニーは表面上強力に見えながらも、過去20年来の「逆走」鈍化の流れを転換し、体制引き締めを図るべき時機にさしかかっていた。