ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

人類史概略(連載第7回)

2013-09-04 | 〆人類史之概略

第3章 農耕革命と共同社会(続き)

共同社会の成立
 現生人類は長き狩猟採集生活の中で、家族を核とした原初的な社会を形成するようになっていたとはいえ、それはいまだ流動性の高い群集団にすぎず、共同社会と呼び得るような段階には達していなかった。より固定的で持続的な共同社会が形成されるようになるのは、やはり農耕の開始以後のことであった。
 原始農耕は雨水を利用して作物を自然の成長に任せる乾地粗放農法であったから、初期農耕民は定住民というより耕作地を転々とする流民のようなものであったと考えられるが、農耕技術が進歩し始めると、定住集落も生まれるようになった。
 そうした初期集落の代表例として、シリア地方のテル·アブ·フレイラ遺跡(現在はダム湖に水没)がよく知られている。この遺跡は農耕開始以前の狩猟採集生活から中断をはさんで農耕生活へ移行する過程をフォローできる点でも、基準的な遺跡として重要である。
 その発掘結果によると、この遺跡の元住民はせいぜい200人程度と小規模で、集約的な大規模集落が形成される以前の初期共同社会のありようを示している。
 こうした初期農村の形成も西アジアが先駆的であったのは、この地域では粘土を利用した日干しレンガ造りの家屋の建設が容易であったことに加え、一度放棄された集落の上に丘状に新たな集落を形成するテルという形で集落のリユースもしやすいことがあっただろう。

原始共産制仮説
 こうした初期農村共同体の社会編制がいわゆる原始共産主義と呼ばれるものに照応していたかどうかについて、考古学的証拠は明確に語らない。従ってそれは仮説にとどまるが、初期農村遺跡にはさほど顕著な階級差が認められず、比較的平等な社会編制を持っていたと推定することは不合理でない。
 原始農村共同体は自給自足がぎりぎり成り立つ状態で、余剰生産力は望めなかったから、分業も未発達で、階級差を生じる要素は乏しかったと見られる。先のテル・アブ・フレイラ遺跡でも住民の遺骨に粉引きの重労働の痕跡が残されていたことは、平等な労働習慣の存在を示唆する。
 交易は農耕に先行して始まっていたとはいえ、貨幣の発明前は大量反復的な交易すなわち商業活動も開始されておらず、階級差の要因となる富の蓄積もまだ考えられなかった。
 一方、初期農村共同体が母権制社会であったかどうかについても、考古学的証拠は語ることができない。しかし、農耕では女性の役割が大きく、豊饒のイメージもまとう女性が神格化されていたことは、各地の地母神信仰に看て取ることができる。
 家父長制ならぬ家母長制が基本であったかどうかは別としても、先史農村共同体における女性は現代資本主義社会における女性よりも高い地位を保持していたとみなす余地は十分にあるだろう。

コメント