2020年東京五輪の招致成功を誰よりも喜んだのは東京電力ではないだろうか。東京優勢が伝えられていた中で、「汚染水問題」発覚のため土壇場で落選していれば、東電が「A級戦犯」として非難の矢面に立たされかねなかったからである。
それにしても、原発事故から2年半を経てなお収束のめども立たないうえ、新たな大問題も発覚した中での東京開催というIOCの決定は大胆という以上に、鈍感ではないか。汚染水問題の影響はないという根拠抜きの安倍首相の口約束が最後の決め手となったとすれば、あまりに政治的である。
五輪選手は一般人以上に健康管理には気を使うはずであって、海外選手が原発問題をどう見ているのかは不明である。2020年時点での原発の状況によっては、少なからぬ出場辞退者が出る可能性もあろう。
それだけではない。東京招致は「安全」が評価されたとも言われるが、遠くない将来の首都直下大地震の可能性を警告してきたのは誰であろうか。ということは、2020年の五輪開催期間中に直下地震に襲われる可能性もあるわけで、安全などころか、いつ来るかわからない大地震の不安に怯えながらの五輪となる。
2020年東京五輪は福島原発の二次的事故の危険性と合わせて、原発プラス地震のダブル不安を抱えた史上最も不安な五輪になるのではなかろうか。
一方で、震災避難民は依然として約30万人に達する。中でも福島の原発避難民は帰還のめども立たず、離散状態にある。2020年までに整備すべきは五輪向け単発のハコモノではなく、こうした長期避難民の生活再建を支える社会保障制度、あるいは元来貧弱な社会保障制度一般である。
結局のところ、五輪招致に浮かれる人々は、生命/生活より金銭/栄冠という資本主義的価値観に支配されているのだ。かれらは五輪招致を批判する者は非国民扱いという雰囲気を作り出し、五輪熱で存在が忘れられることを懸念する避難民たちにすら「五輪招致成功は喜ばしいが・・・」と前置きせざるを得なくさせている。
このような者たちがこの国の支配層である間は、この国で安全に生命を保ち、安心して生活していくことなどは期待できない。執拗に招致成功の歓喜を反芻して観せるテレビを眺めながら、虚しさが胸に去来する日々が続く。