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戦後日本史(連載第20回)

2013-09-10 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔三〕大震災/サリン事件と統制強化

 村山自社連立政権は自民党・社会党双方の支持者から疎んじられ、総じて不人気であったが、同政権は90年代を象徴する二つの大きな天災事変に見舞われたことでも、ネガティブな記憶にとどめられている。
 そのうち1995年1月17日早朝に発生した阪神淡路大震災は6000人を超える死者を出した久々の大規模自然災害であった。この時、村山内閣は初動の災害救助対応に手間取り、批判を浴びた。
 続いて震災の衝撃冷めやらぬ同年3月20日に東京の営団地下鉄線内で朝の通勤ラッシュ時間帯に猛毒神経ガスのサリンが散布され、死者13人を含む数千人の死傷者を出した世界的にも未聞の大量殺傷事件は、大震災以上に社会を震撼させた。
 この事件は、前年6月に長野県松本市の住宅街で発生し、死者8人を出したサリン散布事件とともに、新興宗教団体・オウム真理教の組織的犯行と特定され、教祖をはじめとする教団幹部・信徒多数が逮捕・起訴された。
 20世紀も残すところあと5年という時期に起きたこの凶悪事件は、82年以降「逆走」の流れが再活性化し、93年からは加速化もしてきた状況下で、宗教的過激勢力に多くの高学歴者を含む青年たちが引き寄せられていた衝撃的な事実を社会に突きつけた。
 これは「逆走」鈍化期の青年たちを惹きつけた革新・革命運動がほぼ完全に退潮した一方で、脱政治化された青年たちが宗教へ傾斜し、容易に宗教反動勢力の走狗として異常な凶悪犯罪にまで走り得ることをも証明した出来事であった。
 村山内閣はこの大事件に際して、50年代の「逆コース」施策の象徴でもあり、制定時には社会党も反対に回った破壊活動防止法(破防法)の強制解散条項のオウム真理教への適用方針を打ち出したのであった。
 皮肉にも、破防法による団体強制解散はそれが本来主要なターゲットとしてきた共産党をはじめとする共産主義革命団体への適用例は一例もなく、適用されればオウム真理教が初例となるはずであったところ、政府(公安調査庁)の適用請求を受けて審査に当たった公安審査委員会は、請求棄却の決定を下したのだった。
 こうして一見政府内部で抑制が効いた形となった背景としては、一度でも強制解散が発動されれば先例となって累が及びかねない共産党やその他の市民団体が強力な適用反対キャンペーンを展開したという外部的要因が大きかったであろう。少なくとも、社会党に属する村山首相が表向き「慎重」姿勢を示す以上に破防法発動に異論を呈した形跡は見られなかった。
 結果的に棄却されたとはいえ、村山政権が初めて破防法に手をかけたことは、冷戦終結後その存在意義が揺らいでいた破防法所管官庁・公安調査庁を蘇生させるとともに、90年代末以降盗聴立法や刑法・少年法厳罰化など治安面での統制強化策が次々と打たれていく大きな契機となったことは間違いない。
 ちなみに「人にやさしい政治」を掲げた村山政権下、死刑執行も約1年半で8件行われた。社会党はかねて選挙公約でも死刑廃止を掲げていながら、ここでも自党の政策をあっさり取り下げて、死刑存置派の連立相手・自民党に歩調を合わせたのだった。
 結局、村山自社連立政権の“功績”は、治安面でも「逆走」の加速化をいっそう円滑に推し進めるための土台を築いたことにあっただろう。

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