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沖縄/北海道小史(連載第6回)

2014-01-03 | 〆沖縄/北海道小史

第三章 封建支配の進行(続)

【8】松前藩のアイヌ支配
 コシャマインの蜂起の鎮定以後、蠣崎氏は実力を伸ばし、安東氏に臣従しつつ道南地域の現地総督的な地位にのし上がっていく。特に信広の孫・義広の代には、再びアイヌの大規模な蜂起を鎮定して安東氏の信頼を強め、渡党第一人者としての地位を確立、その子の季広の代には安東氏をはじめとする有力家と縁戚関係を結び、もはや渡党にとどまらない戦国武将として自立化の動きを見せた。
 季広の子・慶広は戦国時代にあって豊臣秀吉、次いで徳川家康に巧みに取り入って渡島領主としての地位を認証され、松前と改姓した。この頃、本来の主家・安東氏は秋田に拠点を移し、長く分立していた二家を統合して秋田氏を名乗るようになっており、松前慶広は安東氏からも独立して道南の封建領主としての地位を確立する。
 家康が江戸幕府を開くと、慶広は家康から家臣として認められ、黒印状を得てアイヌ交易の独占権を獲得することに成功した。そのため、慶広をもって初代松前藩主に数えるが、この時点での松前氏の扱いはいまだ厳密には大名とは言えず、辺境の島主にすぎなかった。第5代藩主松前矩広の晩年になってようやく一万石格の大名に昇格するが、幕末になるまで無城の陣屋持ち大名であった。
 こうして成立した松前藩主・松前氏の役割は幕藩体制下の北辺の辺境領主というもので、実際北方防備の任務を持っていた。このことが、幕末、列強ロシアの接近に伴い、松前藩を政治的にも困難な立場に追い込んでいく伏線となる。
 一方、松前藩の物質的な基盤は挙げて商業、特にアイヌ交易に置かれた。これは渡党時代からの伝統であると同時に、当時の農業技術では米作が不可能であった北海道の地理的条件からして必然的なものでもあった。そのため、松前藩は自らも官船を出して交易を行うほか、家臣の知行も商場を与えて交易権を分与するという形で行われた点で、他に例を見ない独異な藩であった。言わば重商主義的な政策を採ったのである。
 18世紀以降は、交易権を与えられた請負商人の上納金(運上金)に依存する場所請負制が確立され、商業資本の発達が他藩に先駆けて促進された。この結果、アイヌは和人経営の漁場で労働者として使役されることも多くなった。
 藩は直接的な支配が及びにくいエゾ地のアイヌに対してはその政治的統合を阻止する分断政策で臨んだ。1669年のアイヌ族長シャクシャインの武装蜂起を鎮定して以降もアイヌに対しては服従強制と武断的な統制策を基本としたが、一方で藩財政の生命線であるアイヌ交易を維持するため、民族浄化・強制同化政策は避けたため、アイヌ社会の伝統は松前藩の支配下で長く保持される結果となった。  

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