第2章 初期労働党の成功
1:労働党誕生まで
労組合法化以降の労働組合は、議会政治への関与を希求するようになる。しかし選挙制度改革で選挙権の範囲は徐々に拡大されていたとはいえ、まだ完全な普通選挙制は導入されておらず、当初は既成二大政党のうちリベラルな自由党の地盤を借り受けるしかなかった。
そうした自由党に支援された労働系候補が初めて当選者を出したのは1874年総選挙であり、共に炭鉱労働者出身の2人の衆議院議員が誕生した。これに対し、自由党相乗り選挙に飽き足らないグループは独立労働党を立ち上げ、1895年総選挙で独自候補を立てるも、結果は惨敗であった。普通選挙制が未実現の状況では、自由党の枠を超えた労働党の議会進出には大きな壁があった。
独立労働党の党首はスコットランド生まれで炭鉱労働者出身のケア・ハーディであったが、彼は総選挙惨敗の結果を受け、より広範な左派勢力の結集を構想した。そうした中、1899年、労働組合会議(TUC)は独自の労働系候補者を支援する統一選挙組織結成を図り、翌年に労働代表委員会を立ち上げた。
この組織はまだ政党ではなく、先のフェビアン協会などの非労働系左派も参画した寄り合い所帯のグループであったため、単一の指導者はいなかったが、後に史上初の労働党政権を首相として率いることになるスコットランド人のラムゼイ・マクドナルドが書記に選出された。この体制で最初の選挙戦となった1900年総選挙では資金不足から15人の公認候補しか立てられなかったが、ケア・ハーディを含め2人が当選した。
転機となるのは、29人の当選者を出した1906年総選挙であった。躍進の要因は、その三年前、労働代表委員会と自由党との間で結んだ密約にあった。密約は30の選挙区で競合候補者を互いに出さないという内容で、これによって共倒れを防いだのだった。
この躍進を受け、労働代表委員会は正式の政党化を決定、ここに労働党が誕生する。初代党首にはハーディが就き、マクドナルドが党議員団長に就任した。
このように、草創期から現代に至っても労働党指導者にスコットランド出身者が少なくないのは、往年の独立国からイングランドの周縁地として従属的地位に置かれていたスコットランドでは労働者階級が早くから凝集していたことで、労働党の有力地盤を形成してきた事情による。
2:政権獲得への道
新生労働党にとって最初の選挙戦となった1910年1月の総選挙では議席を40に増やし、同年12月の総選挙でさらに2議席積み増した。こうして保守‐自由二大政党政に食い込む第三極として順調に成長していった労働党にとって最初の試練は、内部から発生した。それは折からの第一次世界大戦への参戦方針を巡る内紛であった。
マクドナルドやハーディらは反戦派であり、マクドナルドは14年に英国が参戦し、党主流派が参戦支持に回ると、党議員団長を辞任した。戦時中の労働党は08年にハーディの後任として党首に就任していたアーサー・ヘンダーソンが指導することとなり、彼は時のアスキス自由党内閣に入閣を果たした。史上初の労働党系大臣であった。この自由‐労働連立政権の経験は、党分裂の危機を招きながらも、後の労働党政権の予行演習となった。
労働党の強みの一つは、教条主義を排した初代党首ハーディの性格を反映し、大陸諸国の類似政党や共産党のように党内のイデオロギー対立に基因する分派抗争が少なく、柔軟性に富んでいることにあった。そのため大戦中の党内対立も、戦後すみやかに修復された。
党にとって政権獲得への地ならしとなったのは、18年の選挙法大改正であった。かつてのチャーティスト運動の主要な要求事項を実現したこの改正により、男子普通選挙制とともに一定条件を満たす30歳以上の女子にも選挙権が与えられたことで、有権者数は労働者階級にも飛躍的に拡大されたのである。
他方、戦時対応をめぐる対立から大戦後ロイド‐ジョージ派とアスキス派とに分裂していた自由党は22年総選挙で惨敗し、結果として労働党がついに142議席を獲得して保守党に次ぐ議会第二党かつ野党第一党に躍進したのである。これは英国史上の大転換点であり、以後、英国議会政治は200年続いた保守‐自由二大政党政から保守‐労働二大政党政へと変遷していくことになる。