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英国労働党史(連載第9回)

2014-09-30 | 〆英国労働党史

第4章 斜陽の時代

3:「英国病」の正体
 ウィルソン首相の突然の辞任を受けて、後任首相に就いたのは、ウィルソン内閣で財務、内務、外務の要職をすべて経験したベテランのジェームズ・キャラハンであった。
 キャラハンが就任した76年は、戦後英国にとって最も苦境の年となった。半社会主義政策の柱である産業国有化は戦後直後の経済復興には効果を持ったが、次第に国際競争力の低下や資本の海外流出、技術革新の遅れなど負の側面を露呈するようになり、輸入超過の貿易赤字の要因となった。
 そうした構造的な問題が生じていたところへ、70年代のオイルショックが重なり、不況プラス物価上昇という典型的なスタグフレーションの症状も出始めた。税収減による財政赤字が頂点に達し、76年には財政破綻を来たした。
 他方、労働党が二大政党の一つとして確立される中で、最大支持基盤の労組の対抗力は増していた。特に経済不振の70年代はストライキが頻発した時期で、中でもキャラハン政権末期の78年から79年に起きた医療職を含む公共部門労組による大規模スト―通称「不満の冬」―は革命とまではいかなかったが、社会を麻痺状態に陥れる重大な効果を持った。
 こうしたことの結果、英国経済は戦後最大の危機を迎えることになったのであるが、この時期、米国や高度経済成長を経た日本などでも程度の差はあれ、同様の現象は起きていたにもかかわらず、とりわけ英国が注目されて「英国病」とまで名指されたのは、資本主義体制を維持しながら、基幹産業部門を国有化し、政府の広範な経済介入を認める半社会主義体制のゆえであった。
 こうした英国モデルは、主として戦後のアトリー、ウィルソンの両労働党政権の時代に整備されたものではあったが、二大政党の一方として対抗する保守党も、選挙対策上こうした英国モデルの骨格はおおむね維持する穏健な政策を採る傾向にあった。
 結局のところ、「英国病」の正体は、こうした労働党・保守党間の接近(コンヴァージェンス)の結果生じた中途半端な混合経済体制の症候と言える。

4:新保守主義「革命」
 「不満の冬」の79年に行なわれた総選挙では、こうした「英国病」の克服が大きな争点となった。野党保守党は史上初めての女性党首マーガレット・サッチャーを擁して対抗した。この時のサッチャー保守党は従来の穏健路線を改め、本来の保守主義に原点回帰するような公約を引っさげていた。
 結果は、保守党の政権奪回であった。勝因として広告会社をも動員した技術的な選挙戦もあったが、社会的な影響の大きかった「不満の冬」に対する労働者層をも含む大衆の不満も後押ししたことは間違いない。英国史上初の女性首相が女性参政権の確立に貢献した労働党ではなく、保守党から誕生したのも皮肉なことであった。
 こうして成立したサッチャー保守党政権は結果的に10年以上に及ぶことになる長期政権の中で、「サッチャリズム」の名で知られる一連の保守回帰政策を断行していくが、その最終目標は半社会主義英国モデルの解体にあった。
 それは労働法改正を通じた労組の封じ込めに始まり、国有企業の民営化、規制緩和、財政均衡、金融引き締め、法と秩序など、サッチャー政権退陣後の90年代以降に改めて「新自由主義」として世界に拡散した政策パッケージの先駆けであった。
 このような全否定政策は、英国経済を再び資本主義的に再構築し、経済成長を取り戻すことに成功したが、失業者はかえって増加し、財政再建も進まないなど、その政策効果は限定的であり、格差拡大、社会の荒廃などのマイナス効果も生じさせていたにもかかわらず、80年代の労働党は有権者を引きつける有効な対抗戦略を打ち出せないまま党勢は衰退し、92年総選挙まで連敗を重ねた。
 結局、労働党は97年総選挙で圧勝して政権を奪還するまで、戦後最長となる18年間にわたり野党暮らしを余儀なくされることになる。英国病の「主犯」とされた戦後労働党にとっては、長い斜陽の時代であった。

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