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英国労働党史(連載第8回)

2014-09-29 | 〆英国労働党史

第4章 斜陽の時代

1:アトリーからウィルソンへ
 前回見たとおり、戦後最初の総選挙で圧勝したアトリー労働党は英国式半社会主義とも評すべき数々の新施策を打ち出し、51年の総選挙で再選を狙うが、意外にも保守党に惜敗した。この敗北の主要因は、得票数で上回っていた労働党が獲得議席数では僅差で保守党に逆転されるという技術的な理由によるものであった。
 ただ、この時の保守党が採った労働党政権による「革命」の基本的成果を全否定せず受容するというソフトランディング戦術も成功要因であった。おそらく、前回総選挙で労働党を圧勝させた有権者としても、このまま労働党が長期政権となった場合に生じるかもしれないさらなる「革命」の進展にいささか不安を抱いたのかもしれない。
 いずれにせよ、この選挙の結果、チャーチルが再び首相に返り咲き、55年の引退まで在任した。労働党は55年、59年の総選挙でも連敗し、13年にわたって野党暮らしとなる。
 この間、党勢が衰えた時の政党の常として、労働党内では左右両派の対立が激化していた。55年には戦中から戦後にかけて党の顔であったアトリーが退任し、指導部の空白も生じていたが、アトリーの後任の座を制したのは、経済官僚出身の右派ヒュー・ゲイツケルであった。
 ゲイツケルは現実主義的な右派で、失敗に終わったものの、30年後にトニー・ブレア党首の時代に実現する党の社会主義的綱領の改訂まで検討したが、この時代の労働党の右傾化は時期尚早で、保守党との差を縮小させ、選挙では不利な戦術であった。結局、ゲイツケル時代の労働党は政権に返り咲くことはなかった。63年、ゲイツケル急死を受けて後任に就いたのが、アトリー内閣で商業担当大臣などを歴任し、後に二度にわたり首相となるハロルド・ウィルソンであった。

2:ウィルソン時代
 ウィルソンが党首に就任した翌年の64年総選挙で、労働党は僅差ながら勝利し、13年ぶりに政権を奪回した。しかし与野党伯仲状態であったため、66年に解散総選挙に打って出て、今度は議席を積み増して安定多数を得るなど、ウィルソンは選挙戦術に長けていた。
 この時期、労働党が政権に返り咲いたのは、保守党の長期政権下で貿易赤字の拡大や通貨危機などの経済不振に加え、政治的スキャンダルも続き、有権者の保守党離れが起きたことにあろう。
 難しい時期に政権に就いたウィルソンであったが、彼のスタンスはリベラルな穏健左派であり、ウィルソン政権下では、死刑廃止や中絶解禁、同性愛行為の合法化などリベラルな社会改革が進められたほか、教育面では選別主義的でない普通教育制度や市民に開かれたオープン・ユニバーシティ制度の導入などが第一次ウィルソン政権の主要な成果である。
 ウィルソンは本来は穏健派で、社会主義政策の急進化には関心がなかったが、当面する経済不振に対処すべく、ウィルソン政権はインフレ抑制のための所得政策に加え、長期的な投資と経済成長の司令塔となる経済企画官庁として経済問題省を創設したほか、産業界への政府介入を強めるなど、介入主義的な経済政策に傾斜していった。また選択的雇用税やキャピタルゲイン税などの企業・富裕層をターゲットとした新税導入にも手を着けた。
 第一次ウィルソン政権はかつてのアトリー政権ほどではないものの、同じ6年間で多岐にわたる改革を実施し、それなりの成果も上げたが、70年総選挙では意外にも保守党に敗北、下野することとなった。
 この時の敗因は必ずしも定かでないが、新税導入や政府の経済介入強化が産業界から嫌忌された可能性や、財政難から緊縮財政政策を採らざるを得なくなり、64年の選挙公約の達成率が今一つであったことなどが考えられる。
 しかしウィルソンは下野後も引き続き党首の座にとどまり、74年総選挙で労働党が僅差で勝利すると、保守党の自由党との連立工作失敗を受けて、再び首相に返り咲いた。
 第二次ウィルソン政権では、英国型福祉国家の強化を課題とし、かねてより重視していた教育や医療、住宅への政府支出が増加され、最高所得税率の引き上げなど財源強化が図られた。しかし第二次政権では北アイルランド問題が先鋭化する中、76年、ウィルソンは突如辞任した。その理由については明確でないが、ガンや初期アルツハイマー病などの健康上の問題によると見られている。
 こうして、つごう8年にわたり首相を務め、アトリーに続いて戦後労働党の一時代を築いたウィルソンの時代は道半ばで終わった。この時期すでに、労働党は長い低迷期の始まりにさしかかっていたのだった。

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