集団的安保法の成立から、明日で一か月を迎えるが、近年は物事が忘れられるのも速く、一か月前の出来事はすでに「歴史」なのか、早くも風化しつつあるように見える。
この間、共産党による「国民連合政府」構想や、議決の瑕疵を争う憲法訴訟などなど様々な事後闘争の提唱が試みられているも、世間での反応はいまひとつのようである。
「国民連合政府」の問題性は以前の記事でも述べたが、憲法訴訟という法廷闘争も見込み薄である。たしかに集団的安保法はその内容及び成立過程ともに違憲性は強いが、政治追随姿勢の強い日本の司法部がすでに成立したいくつもの集合的法律を違憲と断じて覆すとは思えない。
日本は現代立憲体制では標準装備となっている憲法裁判所の制度もいまだ持たないので、成立した法律の違憲性のみを理由とする訴訟を起こすことが出来ないことも、法廷闘争には不利である。
となると、今後は成立した集団的安保法の運用のウォッチが最も重要な民主的対抗手段となる。政府は集団的自衛権の行使が「限定」されていることを特大強調して、合憲性を説明した。
たしかに「存立危機事態」を厳格解釈する限り、これに該当するような事態は事実上発生しないだろう。つまり、集団的安保法は存在するも発動されないことをもって「合憲性」が確保されるものである。
ただ、拡大的な後方支援を可能とする「重要影響事態」はより緩やかであいまいなだけに、どちらかと言えば、こちらのほうが現実的に発動されやすいと思われるので、警戒が必要であろう。
いずれにせよ、政府は「限定性」を説得材料とした以上、それが方便的な嘘でない限り、安易に法を発動しないはずである。野党勢力はそうした「限定」の公約を政府が守り通すかどうかウォッチしていくことが役目となる。
この程度の地味な仕事ですら、巨大与党体制の下、断片化した現存野党勢力にとっては大仕事であるが、それさえも実行できないようでは、すでに仮死状態の日本の議会政治は本当の最期を迎えるだろう。