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戦後ファシズム史(連載第19回)

2016-02-15 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

5:ザイールの民族ファシズム
 アフリカ大陸は、多数の部族に分かれた部族主義の伝統が強く、統一国家の形成自体が困難であるうえ、その国家を絶対化し、国民の全体主義的統合を図るファシズムはなおいっそう定着しにくい。また、反植民地主義からマルクス‐レーニン主義を含む社会主義に傾斜する体制が多かったことも、アフリカにおけるファシズムの希少性に影響したであろう。
 そうした中で、ザイール(現コンゴ民主共和国)はファシズム体制が30年以上続いた例外である。それを可能としたのも、やはり冷戦という世界情勢であった。ザイールはベルギーによる植民地支配の後、1960年にコンゴとして独立したが、その直後、南部が分離独立の動きを示し、ベルギーや国連の介入を招く動乱に陥った。
 このコンゴ動乱はアフリカにおける統一国家形成の難しさを露呈するものであると当時に、統一国家の維持を口実にアフリカにもファシズムが成立し得る可能性を示す出来事でもあった。それを証明した人物は、内戦の過程を通じて台頭したジョゼフ‐デジレ・モブトゥである。
 モブトゥは当初、ベルギー統治時代の実質的な現地軍であるベルギー公共軍で士官を務めた後、いったんジャーナリストに転身するが、独立直後、当時の政府により国軍参謀総長に抜擢され、政府軍の構築で重要な役割を果たすことになった。
 彼はそのような新政府軍最高実力者の立場を利用して、1960年と65年の二度にわたり軍事クーデターを起こして権力の座に上り詰める。一度目のクーデター時は翌年に民政移管を実現したが、二度目のクーデターで自ら大統領に就任して以降は97年の政権崩壊までほぼ自動的に多選を重ね、一貫して独裁権力を手放さなかった。
 モブトゥは先述のように軍出身とはいえ、訓練された真の職業的キャリア軍人とは言えず、どちらかと言えば文民に近かった。そのため、彼の支配体制も他のアフリカ諸国でしばしば見られた単純な軍事独裁政権ではなく、いちおう文民政権の体裁を持っていた。
 その際、基軸的な政治マシンとなったのが、67年にモブトゥによって設立された革命人民運動である。そのイデオロギーは中央集権と全体主義的国家統制という旧ファシズムに近いものであったが、アフリカ的な特徴として「真正さ」という標語によって象徴される民族主義が基調にあった。
 このイデオロギーは71年に国名を「ザイール」に改めて以降、「ザイール化」とも呼ばれ、地名や人名の「ザイール化」が強制された。実際、ベルギー風の首都レオポルドヴィルはキンシャサに改称され、モブトゥ自身の出生名ジョゼフ‐デジレもモブトゥ・セセ・セコに改名している。
 革命人民運動は、90年にやむなく複数政党制を導入するまで独裁政党であったが、全国民が出生により自動的に党員となるという徹底ぶりであり、単なる政党を超えた全体主義的政治動員機構として機能した。
 こうした特異な体制の持続を可能としたのが、モブトゥの一貫した反共親米姿勢である。彼は最初のクーデター当時、親ソに傾斜していた当時の実力者パトリス・ルムンバ首相の排除・処刑に加担したように、終始反共主義者を演じていた。そのため、冷戦時代の只中にあって、モブトゥ体制はアフリカにおける反共の砦とみなされ、旧宗主国ベルギーを筆頭とする西側からの経済援助が流れ込んだが、モブトゥはそれらの多くを私的に着服し、巨額の個人資産を形成していた。
 こうしたクレプトクラシー(窃盗政治)は程度の差はあれ、アフリカ諸国の独裁政権にはしばしば見られる共通した悪弊であり、必ずしもモブトゥ体制固有の特徴ではないが、モブトゥのそれは国家経済を破綻に追い込むほど常軌を逸していたため、その徹底した個人崇拝政治とともにしばしば戯画的に注目されたのであった。
 冷戦終結後、「砦」の役割も終焉し、内外から民主化圧力が高まると、モブトゥは90年に複数政党制移行を受け入れるが、大統領の座を手放すことはなかった。しかし、晩年に癌を患い、強権統治に陰りが見えてきた中、96年以降、反政府勢力が武装蜂起、97年には全土の大半が反政府勢力に制圧される中、モブトゥは辞任・亡命に追い込まれた。癌もすでに末期と見え、同年中に亡命・療養先のモロッコで死去した。
 こうして30年以上に及んだモブトゥ体制は、新たな内戦の中で終焉し、以後、再び改称されたコンゴ民主共和国を混迷に陥れる。結局のところ、モブトゥ体制も冷戦時代に林立した反共ファシズムのアフリカ版であり、冷戦終結を経て米国‐旧西側陣営にとっての存在価値が消滅した時点で、用済みとされたのである。

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