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戦後ファシズム史(連載第21回)

2016-02-17 | 〆戦後ファシズム史

第二部 冷戦と反共ファシズム

7:トーゴの権威ファシズム
 西アフリカのフランス語圏独立諸国では、社会主義を標榜し、ないしそれに傾斜する体制が多く現出した中で、小国トーゴには反共ファシズムの性格を持つ体制が現われた。その中心人物は1967年から2005年まで大統領の座にあったニャシンベ・エヤデマである。
 独立初期のトーゴでは共に南部出身でブラジル人の血を引くオリンピオ独立初代大統領とポーランド系ドイツ人の血を引く自治政府時代の初代首相グルニツキが政治的に対立し、これに南北の部族対立が絡み、政情不安が恒常化していた。
 そうした状況下、フランス外国人部隊出身の職業軍人で、独立したばかりのトーゴ政府軍の士官として台頭していたエヤデマは63年のクーデターでオリンピオを殺害してグルニツキを擁立すると、今度は67年の再クーデターでグルニツキを追放、自ら政権を掌握した。このような二段階のクーデターで頂点に上り詰めたやり方は、ザイールのモブトゥとも類似する。
 政権に就いたエヤデマは反共かつ親仏・西側の路線を堅持し、国内的には南北融和を追求した。79年までは軍事政権の形態を維持したが、同年の形式的な大統領選挙で民選大統領に就任して以降は、文民政権の外形をまとった。
 その際、政治マシンとなったのが独裁政党トーゴ人民大会議である。この政党はアフリカ民族主義を綱領とし、エヤデマ政権はザイールのモブトゥ政権と同様に人名や地名のアフリカ化を実行したが、事実上はエヤデマの翼賛団体であり、イデオロギー的にはモブトゥの支配政党以上に内容希薄であった。
 そのため、79年の「民政移管」後のエヤデマ体制は実質上軍事政権の偽装的延長と解することも可能だが、一応「民政」の体裁を整え、後で述べるようにエヤデマ死後に息子への世襲さえ実現したことから見ると、軍事政権時代の擬似ファシズムから一種の権威ファシズム体制へ移行したものとみなしてよいかもしれない。
 エヤデマは反共を標榜していたが、実のところトーゴにおける共産主義者の活動は不活発で、エヤデマの二人の前任者も共産主義者ではなかった。エヤデマ体制ではしばしば反政府派への弾圧が行なわれたが、たいていは「オリンピオ派の陰謀」を名分としており、反仏的だったオリンピオ派残党の影響力排除と南北融和が独裁の口実となっていたものと思われる。
 しかし、冷戦時代のエヤデマ体制は東のモブトゥ体制と同様、西側によって擁護され、その人権侵害は黙視されていた。冷戦終結がこの状況を変え、内外の民主化圧力が強まるが、この先、エヤデマのサバイバル戦術はモブトゥを含むアフリカのどの独裁者よりも勝っていた。
 彼は91年にひとまず複数政党制を認めるものの、権力基盤である軍・警察を巧みに使いながら、93年、98年、世紀をまたいで2003年と三度の大統領選を制し、05年の急死まで政権維持に成功するのである。
 05年のエヤデマの死は権力の空白をもたらしたが、忠実な軍部は憲法の規定に反して大統領の息子で閣僚のフォール・ニャシンベを後継大統領に擁立した。しかし、この一種の反憲法クーデターに国際社会の非難と制裁圧力が向けられる中、フォール・ニャシンベはいったん辞任、同年の出直し大統領選で当選を果たし、正式に大統領に就任した。彼はその後も当選を重ね、現在三期目を務めている。
 この間の大統領選挙の合法性については疑問がつきまとっているが、フォール・ニャシンベは父が遺した権力基盤に支えられ、安定した政権を維持している。この世襲体制の性格をどう評価するかは難しいが、文民テクノクラート出身のフォール・ニャシンベ体制がさらに長期化するなら、現代型の管理ファシズムの性格を帯びる可能性があるだろう。

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