第二部 冷戦と反共ファシズム
4‐5:タイの反共軍政時代
冷戦期における反共ファシズムは、戦後の米国が東における勢力圏として想定してきたアジアにも及んだ。先行して扱った南ベトナムはその最も初期の例であるが、インドシナ半島にもまたがるタイの反共軍政も歴史が古く、しかも長期間に及んだ。
タイでは、第一部でも見たように、戦前から戦後にかけてすでに反共擬似ファシズムの性格を帯びたピブーンの独裁体制が見られたが、元来は立憲革命派であり、ある程度民主化への展望も持っていたピブーンが1957年の軍事クーデターで失墜した後には、明瞭な反共軍事政権が立ち現われた。
57年クーデターの首謀者は、元来ピブーンに重用されながら不正選挙を機に袂を分かったサリット・タナラット将軍であった。ただ、健康問題を抱えていた彼は直ちに首相とならず、短期間の傀儡政権を経て、58年にCIAの後援のもと、再クーデターを起こして首相に就いた。
サリットは単純明快な反共主義者であり、共産党やその支持者への弾圧を強化するとともに、超法規的かつ残酷な方法で刑法犯を見せしめにするなど、強権的な社会統制を導入した。同時に、インドシナにまたがる地政学的位置を最大限利用し、米国の後ろ盾を得て、上からの経済開発を推進した。戦後タイの経済成長は、タイ史上最も苛烈と評されるサリット軍政の時代に始まったと言える。
しかし、持病のあったサリットは63年に急死、後任にはタノーム・キッティカチョーン将軍が副首相から昇格した。タノームは、57年のクーデターに参加し、58年には短期間首相も務めたサリット側近であり、タノーム政権は前政権の延長にすぎなかった。
ただ、前任者と違っていたのは、タノームは健康で、政権維持に長けており、69年の総選挙をはさんで73年まで10年間首相の座を譲らなかったことである。この間、インドシナではベトナム戦争(及びカンボジア・ラオスにも及ぶインドシナ包括戦争)が進行しており、これにタノーム政権が全面的に反共・米国側で協力したことも、政権長期化の外的要因となった。
しかし、軍政の長期化は政治腐敗と人権抑圧への不満を呼ぶとともに、インフレの亢進といった経済状況の悪化も重なり、73年、空前規模の民衆デモが流血化する最中(血の日曜日事件)、タノームは辞任、国外亡命に追い込まれた。
この後、いったん民政移管されたが、民主主義の歴史がほとんどないタイでは、民政は長続きしなかった。76年にタノーム元首相が強行帰国したことへの大学生の抗議集会に治安当局が流血介入し(血の水曜日事件)、翌77年以降再び軍政の復活を許すこととなった。
しかし、新たな軍事政権を率いたクリアンサク・チャマナン首相は政権に執着せず、80年に退任、新たにプレーム・ティンスーラーノン国防相が首相に昇格した。プレームは軍人ながら穏健で、国王ラーマ9世の厚い信任の下、漸進的な民主化を推進した。
プレーム政権も軍事政権の範疇に含まれるが、閣内には文民も取り込み、定期的な総選挙も実施したため、「半民主主義」とも評される軍民融合政権の性格を持った。従って、プレームの退役をはさみ88年まで続いた政権は反共擬似ファシズムではなく、むしろ長期間かけて反共擬似ファシズムから脱却する民主化移行政権と位置づけるほうが正確であろう。
こうして、タイの反共擬似ファシズムは冷戦末期88年の完全な民政移管をもっていちおう終了するのであるが、長い軍政時代に政治的な実力と経済的利権を蓄えた軍部の力はそがれておらず、冷戦終結後も今日に至るまで、激しい党派対立を繰り返す政党政治に介入する形でたびたびクーデターを起こし、軍事政権を形成する慣行は続いている。