第一章 古代国家と女性
(3)古代東アジアの女権
④朝鮮の例外女王
中国大陸と接しているため、中国文化及び世界観の強い影響を受ける位置にあった朝鮮の諸王朝もまた女権忌避の風潮が強かったが、例外的に新羅だけは7世紀に二人、と9世紀に一人の女王を輩出しており、この三女王が最終の李氏朝鮮王朝まで含めた全王朝史上における女王のすべてである。
新羅三女王最初の善徳女王は実父で先代の26代真平王の長女または次女とされるが、真平王に男子継承者がなかったことから王位を継承し、史上初の女王となったとされる。
この点、朝鮮半島南東部の小国から発展した新羅は血統に基づく身分制度(骨品制)が際立って厳格であり、王位継承者となるのは両親ともに王族に属する聖骨と呼ばれる最高位階級の者に限られた。真平王の死に際して、おそらく聖骨の者が他に存命していなかっため、伝統に反して女王の登位となったものと考えられる。
ちなみに善徳女王には即位後、軍事的な勝利にも寄与したとされる独特の予知能力があったとも伝えられており、そうしたシャーマン的要素が女王即位の合意形成をもたらしたとも言われる。
いずれにせよ、632年に朝鮮史上初の女王となった善徳の置かれた状況は厳しかった。当時はまだ新羅と百済、高句麗が鼎立する三国時代の末期であり、しかも百済が高句麗と同盟して新羅に攻勢をかけていたため、新羅は孤立していた。
これに対して、新羅が頼った唐は女王の存在に否定的で、軍事的支援の条件として女王の廃位を求めてきたことから、そうした内政干渉に甘んじようとする親唐派と、拒否しようとする反唐派の対立が激化し、親唐派がクーデターに決起する。これは短期間で鎮圧されるも、善徳女王は鎮圧軍の陣中で没した。
興味深いのは、この後、続いて真徳女王が擁立されたことである。善徳女王には王配があったが、子はなかったようで、真徳女王は善徳女王の祖父の従姉妹に当たる遠縁であり、その王位継承は善徳以上に異例的である。
真徳女王は親唐派を打倒した反唐派によって擁立されたが、外交上は唐との同盟形成に努め、648年に羅唐同盟の締結に成功する。これに伴い、内政面でも従来貴族の連合的な性格が強かった守旧的な国制を改め、唐制にならった中央集権的な国政改革を推進した。
善徳女王の治世15年に対し、真徳女王は7年と短かったが、その間、内政外交に手腕を発揮し、間もなく新羅が唐との同盟関係を利用して百済・高句麗を相次いで滅ぼし、新羅の朝鮮半島統一を実現する足場を築いた実績を持つ。
真徳女王は生涯独身と見られ、その後は男性親族が王位を継ぎ、以後女王は長く途絶える。三人目にしてかつ朝鮮最後の女王となる真聖女王は統一新羅末期の887年に即位した。その父は48代景文王であり、二人の兄が相次いで王位に就いた後を継いだ。在位1年で没した次兄定康王に嗣子なく、聡明な妹が王にふさわしいとの先王の遺言に基づいて即位したとされる。
しかし、真聖女王は兄の遺言に反して淫乱・暗愚で、複数の愛人に官職を与えて国政を壟断させたため、すでに衰退期にあった国はいっそう乱れ、反乱が続発したその10年の治世で新羅は事実上分裂してしまった。彼女は897年、自らの不徳を認めたうえ、甥に当たる長兄の庶子に譲位し、引退した。こうして、真聖の諡号にもかかわらず不徳だった女王は真徳女王とは対照的に、新羅の滅亡(935年)を準備したのであった。
真聖女王を最後に朝鮮史上女王は二度と再び現われることはなかった。ただし、高麗王朝及び李氏朝鮮王朝では太后(大妃)が中国式の垂簾聴政を行なった例がいくつか見られるも、もとよりそれらは正式の女王ではない。
補説:朝鮮の宦官制度
中国王朝の影響が強い朝鮮諸王朝も、宦官の制度を備えていたとされるが、古代王朝期における宦官制度の具体的詳細は不明である。記録上は新羅の42代興徳王は王妃と死別した後、慣例に従って継室を迎えることをせず、後宮女官も近づけず、宦官だけを身近に置いたとされる。これは後宮の宦官を転用したものか、あるいは後代の宦官=内侍制度の前身であるのか定かではないが、上述のように真徳女王時代の改革以来、唐制を導入した中で、宦官の制度も活用されるようになったのかもしれない。しかし宦官が組織化された高麗王朝・李氏朝鮮王朝期を含め、朝鮮では、中国におけるように宦官が政治的な権勢を持って専横を働くような事例はほとんど見られなかった。