第二部 冷戦と反共ファシズム
6:ウガンダの擬似ファシズム
アフリカにおける反共ファシズム体制の中でも、とりわけ反人道性が際立ったのは、ウガンダのアミン政権である。この政権は1971年から79年までの比較的短命な政権であったが、その間に当時1千万人程度の人口で最大推定50万人とも言われる犠牲者を出した。
政権の主イディ・アミンは英国植民地軍の兵士から叩き上げた職業軍人であり、1962年のウガンダ独立後は、新政府軍の将校として順調な昇進を重ね、独立指導者で初代首相となったミルトン・オボテに重用されて、国軍総司令官にまで栄進した。
オボテは社会主義的な志向を持ち、アミンの手を借りて66年に大統領に就任すると、強権を発動して英国資本の国有化政策などを断行し始めたことから、旧宗主国英国をはじめとする西側陣営の警戒を招いていた。そこへオボテとアミンの個人的な亀裂が加わり、71年、オボテの外遊中を狙ったアミンが軍事クーデターで政権を奪取した。
このクーデターは当初、アミンの本性を知らない英国や西独、イスラエルといった西側陣営からは好意的に受け止められ、またオボテ政権の強権統治からの解放を期待した国民からも歓迎されたが、かれらは間もなく裏切られることになる。
アミンはクーデターの一週間後には一方的に大統領就任を宣言し、以後79年に政権が崩壊するまで政党は創設せず、軍事政権の形態を維持したため、アミン政権の本質は軍政による擬似ファシズムであった。実際のところ、アミンは生粋の軍人で、思想性は希薄であったが、彼は個人的にヒトラーを崇拝していたとされ、実際ヒトラーばりの民族浄化政策を断行したため、政策上はナチズムに近い様相を呈したのも事実である。
アミンは自身が属するイスラーム教徒の部族を優遇する一方で、オボテを支持する部族など他部族に対する大量虐殺を実行し始めたうえ、政権掌握の翌年には、「経済戦争」と命名した民族迫害政策に着手する。「経済戦争」とは当時のウガンダ経済界で重きをなしていたインド系を中心とするアジア人の追放政策であり、かれらの経済的権益を剥奪することが狙いであった。この政策によって、数万人のアジア系住民が亡命を余儀なくされた。
こうしたアミンの暴政に西側が重大な懸念を示すと、アミンはそれまでの親西側の態度を豹変させ、72年にはイスラエルの軍事顧問団を追放、カダフィ独裁下のリビアやソ連、東独などの東側陣営に急接近を図る。こうした露骨な日和見主義はアミン政権の延命を保証すると同時に、政権の命脈を縮める要因でもあった。
政権中期の76年に起きたパレスティナとドイツの過激派の合同グループによるエールフランス機乗っ取り事件は、アミン政権崩壊の第一歩となった。イスラエルで服役中のパレスティナ人活動家の釈放を要求する犯人グループが強制着陸させたウガンダのエンテベ空港に立てこもったこの事件で、大統領として空港を管理する立場のアミンは人質救出に当たるどころか犯人を擁護するという前代未聞の対応をとった。
事件はイスラエル軍特殊部隊の強行突入作戦で解決されたが、イスラエルの軍事行動はウガンダの主権を侵害していたことから、アミンは国連安保理の招集を求めたが、犯人を擁護したアミン政権にも非があったため、この要求は却下された。
事件の翌年にはすでに関係が悪化していた英国とも断交したが、この事件の前後からアミンはソ連の援助を受けて軍事力の増強を図っており、このことは隣国ケニアとの緊張関係も強めていた。
国内的にも、暴政の中で放置された経済の崩壊が国民生活を圧迫しており、粛清を恐れた閣僚の亡命も相次ぎ、アミン政権は内部崩壊の兆しを見せ始めていた。政権政党も組織されていなかったため、頼みは増強された軍だけであったが、その軍も実のところ外国人傭兵で水増しされていた。
そうした中、78年末に蜂起した反乱軍が隣国タンザニアへ逃げ込んだことを口実に、アミンはタンザニア侵略を図ったが、これに対してタンザニア軍が反撃、反アミンの武装勢力も合流して、戦争となった。アミンはリビアの支援を受けて抗戦したが、傭兵の多いウガンダ軍からは離脱者が続出し、79年4月、アミン政権はついに崩壊した。アミンはリビア経由で最終的にサウジアラビアに亡命、2003年に客死するまでそこで過ごした。
アミンは人肉食の噂が立つほどの暴政で同時代の国際的注目を集め、今日に至るまで悪夢として記憶されているが、彼の最大の特異性は通常、人種差別の犠牲者であるアフリカ黒人でありながら、対抗的に人種差別的な政策を大々的に展開した点にあったと言える。
なお、アミン政権崩壊後のウガンダではオボテの帰還・復権と再度の失権を経て、86年以降、旧反政府勢力を基盤とする管理主義的な特徴を伴った現代型の真正ファシズム体制が確立され、現在まで長期政権を維持しているが、これについては後に再言する。