第四部 現代型ファシズムの諸相
2‐6:カンボジアの場合
カンボジアは1953年以来の独立国であるが、その歴史はインドシナ戦争とそれに続く長い内戦を経て大きく二分されている。現カンボジアは内戦終結後の国連暫定統治を経て再編された新生カンボジアである。
この新体制は形式上立憲君主制であるが、その下でほぼ一貫してフン・セン首相の権威主義的統治が続いている。フン・センの政治的履歴は、それ自体がカンボジア現代史の反映である。
彼は元来、70年代のカンボジアで大量虐殺を断行したクメール・ルージュ(カンプチア共産党)のゲリラ部隊下士官だったが、同勢力の政権掌握後の大粛清を恐れて脱走し、ベトナムへ亡命、そこで反クメール・ルージュ派のカンプチア救国民族統一戦線に合流する。ここから、フン・センの政治家人生が始まる。
彼は同戦線で若手幹部としてすぐに頭角を現し、79年、ベトナム軍の侵攻により、同戦線を中核に樹立された新政権・カンプチア人民共和国の外相に抜擢される。さらに85年、フン・センは32歳で当時世界最年少の首相に就任する。
この体制の支配政党・人民革命党は当時マルクス‐レーニン主義を標榜し、ベトナムの傀儡政党の性格が強かったが、89年のベトナム軍撤退を経て、カンボジア和平が成立した91年、党はマルクス‐レーニン主義を放棄し、人民党へと改称した。
人民党のトップは、改称前はヘン・サムリン、改称後は2015年に至るまでチェア・シムという長老政治家が務めていたが、いずれも名目的な立場にとどまり、事実上は内戦中から一貫して首相の座にあるフン・センが指導していた。
人民党は93年の制憲議会選挙で王党派のフンシンペック党に敗れ、第二党となる。ところが、フン・センは辞職を拒否し、妥協策として第二首相の肩書きで政権内にとどまった。しかし、全権の奪回を狙うフン・センは97年、事実上のクーデターでフンシンペック党を追い落とし、翌年には単独首相に返り咲いて以降、改めて同党との連立政権の形で、実質的な人民党独裁体制を確立した。
この体制は93年憲法で復活した王制(立憲君主制)の下で形式上多党制形態を採りつつも、内戦中から構築された人民党の支配網とフン・センの権威を利用して全体主義的な社会統制を図る管理ファシズムの性格が濃厚となっている。この点では、新生カンボジアの管理ファシズム体制も、前々回及び前回見た一部の旧ソ連諸国やエリトリアと同様、マルクス主義からの転換という経緯をたどっていると言えるだろう。
このフン・セン新体制下では長期の内戦からの復興と外資導入による経済開発が推進され、近年は高い経済成長を示しており、開発ファシズムの性格をも帯び始めている。その点、リー・クアン・ユー首相時代のシンガポールと類似した側面も認められる。
ただし、人民党はメディアや軍を完全に掌握する一方で、議会では圧倒的な議席を独占してこなかったことから、その支配力には一定の制約がある。2013年の総選挙で、野党カンボジア救国党が人民党と拮抗する勢力にまで躍進したことは、その象徴である。
この人民党の党勢後退は通算で約30年に及ぶフン・セン指導体制の抑圧と腐敗に対する市民の批判を背景としていると見られるが、フン・セン自身は74歳になる2026年までは権力の座にとどまる旨を公言していることから、今後の動向が注視される。
[追記]
救国党は2017年、党首の逮捕に続き、フン・セン政権の最高裁判所から解散命令を受け、解党された。結果、有力野党不在で実施された2018年総選挙では、人民党が全議席の8割近くを得る圧勝となった。これにより今後、議会制ファシズムの性格が強まることが見込まれる。