第三章 女帝の時代
(1)近世帝国と女帝
②テューダー朝の姉妹女王
イングランドでは12世紀、ヘンリー1世の娘マティルダが女王になり損ねて以来、女王を輩出することはなかったが、16世紀のテューダー朝で初の女王を輩出した。
テューダー朝は、ウェールズの一貴族出身の創始者ヘンリー7世が前代の封建的な内戦ばら戦争を終結させ、その息子ヘンリー8世の時代を経てイングランドを中央集権国家に再編した王朝である。
ヘンリー8世はしばしば専制君主の象徴とみなされる強力な君主であったが、幼年でその後継者となった一人息子エドワード6世は病弱で、在位6年ほどで夭折した。ヘンリー8世には他に男子がなかったことから、後継問題に直面した。
ヘンリーは遺言をもって王位継承順をエドワードからエドワードの異母姉メアリー、エリザベスへと定めており、すでに女王の誕生を想定していたが、エドワード6世時代の実権者だったノーサンバランド公ジョン・ダドリーはこれを恣意的に変更し、自身の息子をエドワードの遠縁に当たるジェーン・グレイと結婚させたうえ、ジェーンを後継者とする旨の遺言をエドワードに強要した。
しかし、いよいよジェーンの即位が宣言された時、ヘンリー8世の長女メアリーとその支持勢力が決起し、これが民衆反乱に発展して、ジョン・ダドリーは失墜、息子やジェーンともども反逆罪で処刑された。
こうして一種の革命により王位に就いたのが、英国史上初の女王メアリー1世である。メアリーの生母は前回見たスペインのイサベル1世とフェルナンド2世の娘であり、従って母方を通じてスペイン両王の孫に当たる。その関係から、彼女は強固なカトリック教徒であった。このことは、父ヘンリー8世が強引に進めたイングランドの脱カトリック・国教会樹立の宗教改革に反したため、反発と政情不安を引き起こした。
カルロス1世の息子フェリペ2世を王配に迎えたメアリーはプロテスタント迫害政策を展開し、数百人のプロテスタントを火刑に処する弾圧を断行したため、「流血メアリー」の汚名を着ることになったが、メアリー自身は信念を持つ自立的な女性だったという評価もある。
メアリーはスペイン王となったフェリペとも別居状態のまま、世子を残さず治世5年余りで病没したため、続いてメアリーの異母妹エリザベスが即位した。英国史上でも女王が二代続くのは、これまでのところ、これが唯一の事例である。
エリザベスは父と愛人アン・ブーリンの間にできた婚外子であったため、姉メアリーからも憎まれ、不遇の少女時代を過ごしていたが、当時は支配階級女性としても異例の高い教養を有していた。
統治者としてのエリザベス1世は、姉とはすべてにおいて対照的であった。宗教的には国教会派と見られるが、姉とは異なり、宗教的信念を持たず、中道的な宗教政策を採ったことが、統治者としての成功につながった。
対外的にも、その出自から親スペインであった姉とは対照的に、私掠船を用いてスペインに対抗する海外進出を展開した。その結果が1588年のアルマダ会戦であるが、スペインの無敵艦隊を破って勝利したこの戦争は、次世紀以降、イングランドを帝国に押し上げる契機となった。
エリザベスは結婚を匂わせながら男性側近者を巧みに操る人身掌握術にも長けており、有能な男性側近者らに補佐されながら、カリスマ的支配者として君臨したエリザベスはルネサンス型女帝の集大成的な代表格と言える。
しかし、政情不安を警戒して生涯独身を通し、世子を残さなかった彼女をもってテューダー朝が終焉すると、以後、英国女王は名誉革命後にオランダから招聘されたウィリアム3世の共治女王となるステュアート朝メアリー2世まで途絶える。