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農民の世界歴史(連載第30回)

2017-02-06 | 〆農民の世界歴史

第8章 社会主義革命と農民

(3)ロシア革命と農民

 帝政ロシア末期の革命運動体は農民に基盤を置こうとする社会革命党(ナロードニキ)と都市部の労働者に基盤を置く社会民主労働者党(後の共産党)の二大グループに収斂されていくが、後者の指導者として台頭するのが、レーニンである。
 レーニンは近代ロシアの革命家の中で、ナロードニキを経由することのなかった最初の世代と言われる(レーニンの兄はナロードニキ系活動家として皇帝暗殺謀議に関与したとされ、処刑されている)。とはいえ、当時なおロシア民衆の大多数を占めていた農民の存在を無視しての社会革命はあり得ない情勢であった。
 そこで、レーニンも早くから貧農を労働者とともに革命主体に加える「労農同盟」テーゼを打ち出し、貧農への情宣にも力を入れていた。しかし、これは草創期のナロードニキのように「民衆の中へ」入り込んでいくのではなく、外部からの呼びかけにより、いまだ資本主義的工業化が不十分なロシアにあって、早期のプロレタリア革命を実現しようというレーニン独自の革命戦略にほかならなかった。
 一方、当の農民たちもかつてのように一揆的な抗議行動を繰り出すばかりにはとどまっていなかった。帝政が打倒された1917年2月革命後は、多くの覚醒した農民がソヴィエト(民衆会議)に参加し、土地改革に消極的なブルジョワ革命政府を突き上げ、一部は地主館を襲撃し、地主所有地の自主的な分配という革命的な直接行動にも出ていた。
 実際、レーニンが政権を掌握した1917年10月革命は農民蜂起を内包しており、農民も大いに下支えしていたのだが、農民とレーニン政権との関係は微妙かつ警戒的なものであった。その点を意識してか、初期のレーニン政権は本来の綱領である土地国有化を棚上げし、当面は地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を指示している。
 しかし、まがりなりにも農民を代表していた社会革命党が排除され、反革命派の蜂起と外国の干渉による内戦・干渉戦が勃発すると、レーニンは農村に戦時穀物徴発令を発した。これを機に、農民層は反革命に転ずる。かれらは再び、帝政時代のように一揆的な抗議行動で徴発政策に反発した。
 1922年まで続いたロシア内/干渉戦は、ロシア農村に容易に修復し難い打撃を与えた。耕地面積は戦前の60パーセント程度まで減少・荒廃し、農業生産高も同40パーセントを割り込む有様であった。これに対し、レーニン政権は復興政策として「新経済政策」(ネップ)を打ち出し、農民に現物税を課しつつ、市場での穀物取引を認めた。
 これはレーニン自身「国家資本主義」と規定したように、国家が管理統制する市場経済であり、最大の狙いは農産物の供給不足を回復することにあったが、自身の食糧にも事欠く農民は安価で穀物を市場に流すはずはなく、所期の成果は上がらなかった。
 結局、農民とソ連共産党政権は良好な関係を築けないまま、レーニンは1924年に早世する。後を継いだのが古参幹部のヨシフ・スターリンであった。スターリン治下で農村生活は激変することになるが、その新局面については節を改めて見ることにする。

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