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貨幣経済史黒書(連載第27回)

2019-11-03 | 〆貨幣経済史黒書

File26:日本の昭和/平成バブル景気

 ニクソンショックとオイルショックという1970年代前半の二つの人為的な「ショック」は、戦後日本の高度成長を正式に終焉させたが、それで一気に日本経済が凋落したわけではなかった。70年代の打ち続くオイルショックを何とか乗り切ると、1980年代半ば過ぎから、急激な膨張的好景気を示したのである。  
 その契機となったのは、1985年9月のいわゆる「プラザ合意」にあったということで論者の見解は一致している。その合意内容は「基軸通貨ドルに対して、参加各国の通貨を一律10乃至12パーセント幅で切り上げ、そのために 参加各国は外国為替市場で協調介入を実施する」というものであった。  
 これも、ニクソンショックと同様、アメリカ主導の人為的な政策変更であり、その狙いはドル安へ誘導してアメリカの輸出競争力を高め、宿弊である貿易赤字を解消することにあった。ただし、ニクソンショックとは異なり、今回は一方的でなく、日本を含む主要5か国合意という形式をとったが、アメリカ以外の4か国に異論を挟む余地はなかった。  
 この急激な円安=ドル高政策により、ニクソンショック以来の円高=ドル安に歯止めがかかる一方、今度は円高による輸出減により日本の国内景気は一気に落ち込み、円高不況に入った。とりわけ輸出を生命線とする製造業での倒産が深刻化した。  
 これに対し、日本銀行はこうした場合のマニュアルである金融緩和措置を導入せず、1年ほどは公定歩合据え置き、無担保コールレートの引き上げという引き締め策を採ったうえで、緩和に転じるという奇策を選択した。  
 このような二段階的な措置は、インフレ率の低下局面での利下げ期待という市場の反応を招き、名目金利の先行的低下とそれによるいわゆる貨幣錯覚による投資ブームを誘発したと分析される。こうして実体経済から乖離して株式や不動産の資産価格が高騰するバブル景気の局面が導かれた。  
 ちなみに、人々が貨幣の実質的価値でなく名目的価値に基いて経済的な意志決定をする貨幣錯覚という現象は、「貨幣の中立性」なる非現実な仮定に基づいた古典派経済学的な概念である。貨幣そのものがそれ自体には使用価値を持たない名目的な交換価値の表象であることからすれば、「錯覚」こそが貨幣経済本来の姿なのである。  
 従って、錯覚的バブル景気は貨幣経済の歴史には付き物であるが、日本の昭和/平成バブル景気が特異なのは、その急激さと極端さにおいてである。過熱する市況の中、法人企業は証券・不動産投資、海外投資、リゾート開発に狂奔し、個人も名目上の賃金上昇を背景に株式投機や海外旅行などの贅沢な余暇活動に走った。  
 政府もまた、折からの貿易摩擦解消のための内需拡大という対米公約実施のため、オイルショック以来の緊縮財政を転換し、積極的な公共投資の拡大に踏み切ったことから内需が刺激され、官製バブルのような現象も起きた。  
 こうした狂奔ぶりには、錯覚された好景気を共有する多幸症的な集団心理が強く働いた可能性もあり、その全容は理論経済学的な分析だけでは解明できず、行動経済学のような新しい行動科学的な経済理論の助けも必要かもしれない。  
 一方、見かけ上の饗宴の影で、地上げのような暗黒の顔を見せたのが、昭和/平成バブル好景気である。地価の異常高騰を背景に都市再開発のブームが起き、不動産会社から委託を受けた仕事人的な闇業者が暗躍し、借地人を暴力的に追い出す地上げは、生存権という基本権を侵害する最悪のバブル事象であった。  
 地価高騰は結果的に住宅の取得を困難にするが、同時に住宅高騰をも誘発し、住宅の購入がいっそう困難になるという形で、居住権全般が危機にさらされたことは、昭和/平成バブル景気時代の暗黒面と言えるであろう。  
 昭和/平成バブル景気は、平成初年の1989年12月29日に、日経株価平均が現時点でもいまだ破られていない38957円の最高値を記録した頃が絶頂期と言えた。より大きな目で見ても、昭和/平成バブル景気時代の日本は、戦後日本の貨幣経済史上絶頂期を画したと言えよう。  
 しかし、その影では規律を欠いた際限のない投機・投資ブームと銀行の放漫融資を招き、不良資産・債権の山が築かれ、バブルが始まったとされる1986年からバブル晩期の90年にかけて、法人企業は年平均約140兆円、家計も25兆円という空前規模で金融負債を蓄積していた。バブル景気は、砂上に高くそびえる楼閣だったのだ。

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近代革命の社会力学(連載補遺4)

2019-11-03 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(4)ベルナドッテ朝と立憲君主制
 立憲革命後に王位に就いたカール13世はすでに高齢で、病弱でもあったうえに、継嗣もなかったため、王位継承問題が直ちに浮上した。もっとも、王統断絶を契機に共和制へ移行する選択もあり得たが、1809年革命を主導した革命派は立憲君主制の支持者であり、共和制は想定されていなかった。
 ここで、スウェーデン議会は稀に見る奇策に打って出る。王統が断絶した場合、通常、他国の王族を招聘することが欧州君主制の慣例であったところ、議会はナポレオン麾下のジャン‐バティスト・ベルナドット元帥を次期国王たる王太子として招聘したのである。
 ベルナドットはフランスの下級法律家の息子で、中産階級平民の出にすぎず、本人自身も認めていたとおり、本来なら一国の君主になる資格はなかった。そのような人物にスウェーデン革命派が白羽の矢を立てた理由は種々考えられるが、革命派に軍人が多かったこと、ナポレオンのフランスを知悉する人物が望ましかったこと、さらにスウェーデン語を解さない外国人の平民出自君主なら立憲君主制が確立しやすいと目論まれたことなどが考えられる。
 ナポレオンもこの奇策に呆れつつ承諾したため、ベルナドットは1810年、カール13世の養子となり、スウェーデン流にカール・ヨハン・ベルナドッテを改名したうえ、摂政王太子に就任、カール13世指揮挙後の1818年にカール14世ヨハンとして即位し、今日まで続くベルナドッテ朝の始祖に納まったのである。
 カール14世ヨハンの治世は彼が死去した1844年まで26年に及んだが、この間、欧州では第一次連続革命、彼の故国フランスでも七月革命を経験する激動の時代であった。そうした中、カール14世は保守的なスタンスを取り、故国での七月革命には否定的であった。
 革命派が密かに期待していた立憲君主制の確立は、カール14世の保守思想や彼自身に統治者としての手腕があったことからも、目論見通りにはいかず、14世存命中は絶対君主制とまではいかないまでも、国王親政によるかなり権威主義的かつ啓蒙的な立憲君主制の展開となった。
 その点、カール14世が摂政王太子時代の1814年にデンマークから割譲させたノルウェーは、同年、当時の欧州では最も先進的な憲法を制定して独立を目指した。この動きはスウェーデン軍の力で抑圧されたが、その後もノルウェーはスウェーデンとの同君連合の枠組み内で、憲法を盾にしばしばカール14世と衝突するのであった。
 この時代のノルウェーは欧州の他国に先駆けて中産階級の形成が進んでおり、依然として貴族制を残すスウェーデンの保守的な階級社会との不調和が生じていたところ、貴族制の廃止をめぐってカール14世と衝突した末、14世にこれを認めさせたのである。
 結局のところ、スウェーデンにおける立憲君主制はカール14世を継いだ息子オスカル1世のより自由主義的な統治の下で最初の進展を見せ、以後、歴代ベルナドッテ朝君主の治下で、革命を経ることなく、漸進的に確立されていくこととなった。そこには、平民出自王朝たるベルナドッテ朝の柔軟性が寄与していたかもしれない。

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