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続・持続可能的計画経済論(連載第7回)

2019-11-02 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第1章 環境と経済の関係性

(6)非貨幣経済の経済理論  
 伝統的な経済理論は、市場理論であろうと、計画理論であろうと、みな貨幣経済を前提として構想されてきた。これは、貨幣という交換手段の発明以来、人間の経済活動が貨幣を軸に展開されるようになってきたことからして、必然的なことであった。  
 一方、非貨幣経済は、貨幣経済が普及していない「未開」の民族の慣習を研究する人類学(経済人類学)の課題とされてきた。そうした古来の慣習は興味深いものではあっても、「文明」社会に持ち込めるものではない。  
 その結果、歴史上旧ソ連で本格的に開始された計画経済においても、貨幣経済を維持することを前提とする経済計画が追求された。そこでは、物やサービスを貨幣と交換するという商品形態が少なくとも消費財に関しては維持され、経済計画の主体となる国家がその財源を重点分野に投資するという貨幣による財政運営も従来どおりであった。
 そうした点では資本主義と大差ないが、異なっていたのは自由市場を公式には認めず―闇市場は違法ながら、潜在していた―、あらゆる物資を経済計画に従い、公定価格でコントロールしようとしたことである。
 しかし、貨幣という手段は元来、自由な物々交換取引の中から交換を簡便・敏速・大量的に反復・継続するために「発明」されたものであるから、本質的に自由市場を前提とする交換媒体である。それを計画経済にも当てはめようとすることには、ほぼ「物理的な」と形容してよい無理があった。  
 また、過去幾多の革命が目指した財産の均等(均産)という究極命題も、貨幣経済を維持する限り、夢想に終わるだろう。常に自己に有利な取引を成立させ、利益を得ようと奮戦する経済主体の競争場である自由市場から生まれた貨幣を社会の全成員に均等に分配するということは、不可能事だからである。  
 実のところ、計画経済とは本来、貨幣交換を前提としない経済システムである。貨幣交換に基づく市場を持たないからこそ、生産・流通を規整する全体計画を必要とするのだと言ってもよい。その意味で、計画経済の理論は必然的に非貨幣経済の経済理論となる。  
 とりわけ、経済を環境内部化することを目指す「生態学上持続可能的計画経済(持続可能的計画経済)」は、貨幣経済とは馴染まないだろう。というのも、そこでの計画の大枠を規定する環境規準はその性質上、貨幣価値に換算することができないからである。  
 そうすると、ここからは従来の経済理論にとってほとんど未知の領域となる。しかし、真の計画経済理論を確立するためには、従来の経済理論の前提を大転換し、非貨幣経済の経済理論を構築し直さなければならない。  
 そこでは、例えば、生産総量を貨幣価値に換算して計測するGDP(国内総生産)や、GDPの上昇率を指標とする「経済成長」のような概念は廃棄される。それに代わって、生産総量は現実の生産物量をもって計測され、「経済成長」ではなく、現実の生活者の視点に立った「生活の質」が重視されるだろう。
 もっとも、生産物量の上昇率をもって「経済成長」の新たな指標とすることは理論上可能だが、厳正な環境規準に導かれる計画経済において、その絶え間ない上昇を是とする「経済成長」は経済が環境を突き破る恐れのある危険な概念となる。
 それに代わり、現実の生活者の栄養状態や健康状態、平均寿命や子どもの死亡率、居住環境、労働・余暇時間などの諸指標により総合評価された「生活の質」の向上がドメスティックな経済状態の重要な判断基準とされるのである。

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近代革命の社会力学(連載補遺3)

2019-11-02 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(3)対ロシア敗戦から革命へ
 グスタフ4世は、父王グスタフ3世が復刻した絶対君主制の忠実な継承者として、1796年の親政開始後も、身分制議会を招集することなく統治しようとしたため、議会招集を必要とする戴冠式を1804年まで延期していた。同年に財政難に対処する必要が生じて、ようやく議会を初招集したが、それも渋々とであった。
 4世は対外政策に関しても父王の反フランス革命の方針を継承し、対仏大同盟に積極的に参加したが、大同盟軍がナポレオンのフランス軍に敗北したことで、目算が狂い始めた。とりわけ、同盟国だった帝政ロシアとの間で軋轢を生じた。
 その後、勃発する対ロシア戦争の詳細な経緯は本連載の趣旨を外れるので省略するが、この戦争はスウェーデンの敗北に終わり、フィンランド領とオーランド諸島をロシアに割譲させられることとなった。その結果、スウェーデンは父王の時代に再興したバルト海帝国としての地位を喪失したのである。
 父王グスタフ3世の復刻絶対君主制に存外な国民的支持があった理由として、「自由の時代」にいったん喪失したバルト海帝国としての地位を復活させたことがあったため、グスタフ4世がこれを喪失したことは、絶対君主制における体制の危機に直結した。
 破綻の時は、すぐに到来した。対ロシア戦争敗北から間を置かず、1809年3月、ゲオルク・アドラースパーレやカール・セデルストロームといった中堅の貴族将校らが電撃的なクーデターを敢行し、グスタフ4世を宮殿で拘束するという極めて直接的なやり方で革命を成功させた。
 手法としては軍事クーデターであったが、「1809年の男たち」と通称される革命集団はグスタフ3世の宮廷クーデター以来、権勢を喪失していた貴族階級に属しており、絶対君主制の廃止と新たな統治法(憲法)に基づく立憲君主制の回復を明確な目的としていたから、これは一つの立憲革命であった。
 この革命を主導した集団が1792年のグスタフ3世暗殺の背後にあったと見られる集団と同一かどうかは、暗殺事件の背後関係の解明が完全にはなされなかったため、判然としないが、絶対君主制の時代に逼塞していた貴族階級は、革命としては失敗に終わった暗殺事件の後も、雌伏して時機を待っていたものと思われる。
 1809年の革命では、4世は暗殺されることなく、廃位されるにとどまった。4世は退位して同名の王太子グスタフに譲位することで妥協しようとしたが、新政府はこれを拒否し、グスタフ4世子女の王位継承を否定、4世の叔父に当たるカール13世を新国王に推戴したのである。
 カールと言えば、グスタフ3世時代の1789年の陰謀に際しても、首謀者集団によって新国王に担がれることが目論まれていたが、彼がこれを拒否したことで失敗に終わった経緯がある。
 遡れば、カールは1772年の兄王の反動クーデターに協力しており、決して立憲君主制の支持者とは言えなかったが、すでに高齢で、継嗣もないことから、当面の「つなぎ」として革命派に担がれたものと考えられる。
 こうして、グスタフ3世・4世父子による37年に及んだ復刻絶対君主制の時代は突然強制終了したが、その最大の要因は対ロシア戦争の敗北であった。このことがなければ、他の大陸欧州がまだ反動の時代にあった1809年の時点で立憲革命は成功していなかっただろうという点では、敗戦が革命の動因となった後世のロシア革命等との共通性も見られる。

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