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近代革命の社会力学(連載第139回)

2020-08-26 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(2)オーストリア社労党の独自路線 
 オーストリア革命において中心的な役割を果たしたのは、オーストリア社会民主労働者党(以下、「オーストリア社労党」または単に「社労党」という)であった。オーストリア社労党は、ドイツの社会主義労働者党の影響の下、19世紀末に結成されたオーストリアにおける社会主義政党の先駆けである。
 そのため、結党時からドイツのラッサ―ルの影響が強く、議会への進出を優先する穏健な傾向性を帯びていた。実際、1897年の選挙で帝国議会に初めて議席を獲得して以来、20世紀初頭には議会で躍進し、全国政党として確立されていった点で、ドイツのカウンターパートとなる社会民主党と同様の軌跡をたどった。
 しかし、イデオロギー面で、オーストリア社労党はドイツ社民党とも異なる独自路線を採った。それは、1899年に党が採択した「ブリュン綱領」に表れている。同綱領は、一名「ブリュン民族綱領」とも称されるように、オーストリア帝国において機微な問題であった民族問題に関する党の路線を示したものである。
 それは、オーストリアを民族自治に立脚した多民族連邦国家へ変革することを要求するもので、具体的には、ドイツ人・ハンガリー人・チェコ人・ポーランド人・イタリア人・南スラブ人という主要六民族の自治のうえに、諸民族の連邦国家を築くという構想であった。
 このように、労働者階級政党として発足したオーストリア社労党が、労働問題の前に民族問題を置くという路線に赴いたのも、党自身が民族別に構成された連合政党の性格を持っており、党内の民族対立という問題を抱えていたことが反映されている。実際、1911年に、かねてより独立性の強かった党内チェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として自立するに至ったことは、来る帝国それ自体の民族別解体を予示するような事態であった。
 オーストリア社労党のイデオロギー面での独自路線を支えていたのは、「オーストロ・マルクス主義」と総称されるオーストリア独自の思潮であった。この思潮は、ドイツ社民党が傾斜していた穏健な改革主義路線とロシアのボリシェヴィキが体現する急進的革命主義の狭間に立って、民族問題というオーストリア固有の問題に取り組む見地から、議会制度の下での社会主義の実現という新しい方向性を示した。
 この思潮の理論的指導者の中でも、カール・レンナーは政治家としても手腕を発揮し、革命直後の第一共和国初代首相(後に、第二次大戦後の臨時首相・第二共和国初代大統領)として、革命政権を主導したことで、「オーストロ・マルクス主義」はオーストリア革命の中心的な理念となった。
 「オーストロ・マルクス主義」内部にも理論的な対立がないわけではなかったが、ロシアやドイツのカウンターパートのように、党が完全に分裂するほどの対立関係はなく、比較的急進的で労働者評議会を指導したフリードリヒ・アドラーのような人物も、ドイツのスパルタクス団→共産党のような革命的蜂起を志向することはなかった。
 ちなみに、オーストリアでもロシアのボリシェヴィキに呼応する共産党が結党され、革命直後の1918年11月にクーデターを起こしたが、これは準備不足かつボリシェヴィキの承認と支援も受けない拙速な蜂起であったため、いとも簡単に鎮圧され、その後も共産党が影響力を持つことはなかった。

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