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近代革命の社会力学(連載第140回)

2020-08-28 | 〆近代革命の社会力学

十九 オーストリア革命

(3)多民族帝国の解体
 オーストリア帝国を解体する革命の開始契機は、第一次大戦渦中における労働者の大規模なゼネストであった。参加者数50万人超とされたこのゼネストは当時欧州最大規模であり、まさにローザ・ルクセンブルクが待望したように、自然発生的なゼネストによる革命の始動であった。
 従前のオーストリア帝国は、1914年に当時のフランツ‐フェルディナンド皇太子がサラエボで暗殺された事件を直接の引き金としていたことからしても、まさに大戦の最重要当事国の立場にあって、隣国ドイツ帝国とともに同盟国側で参戦していた。
 そのため、戦時中は議会も停止し、皇帝大権による戦時専制という極端な戦時総動員体制が採られていた。この「戦時専制」の下では、社会民主労働者党も戦争協力方針を採り、国内は一致団結しているように見えた。
 しかし、戦況は同盟国側に不利となる一方、総力戦による経済の疲弊と生活の窮乏が深刻化し、国民の我慢が限界に達したことが空前のゼネストとなって噴出したのであった。このような展開は、ほぼ同時代のロシア、ドイツの革命とも同様の経過である。
 オーストリアにおける革命の展開が他と異なっていたのは、人工的な多民族帝国というオーストリアの特殊変数を反映して、ゼネストが、ハンガリー人をはじめ、支配下諸民族の分離独立運動の触媒となったことである。
 その点、帝国の維持を前提に、民族自治体に立脚した連邦国家という構想を提示していたオーストリア社会民主労働者党が方針を急転し、帝国の解体とドイツ系を含む主要民族の独立を勧奨する方針を採択したことは、革命の正式な合図となった。
 これを受けて、1918年10月21日には、ドイツ系議員が社労党とカトリック保守主義のキリスト教社会党が大同団結する形で国家評議会をウィーンにて樹立した。この時点では、皇帝と帝国政府はいまだ存続していたため、評議会は革命的対抗政府の形態であった。
 これを皮切りに、10月28日から末日にかけて、同君連合を組むハンガリーが帝国から離脱していった(アスター革命)のに続き、チェコ、ポーランド、南スラブ(クロアチア・スロヴェニア)も独立し、帝国はあっけなく解体したのである。
 この間、大戦中の1916年に即位したばかりの若い皇帝カール1世も、手をこまねいていたわけではなかった。1918年10月12日には、支配下全民族の議員から成る「諸民族内閣」の発足を命じたが、特に帝国への不満の強かったチェコ人や南スラブ人などスラブ系からは参加を拒否され、あえなく挫折した。
 続いて、カールは「全民族がその居住域において独自の国家共同体を形成する連邦国家」への移行を宣言する。これは、かねて社労党が提唱していた新国家構想に遅ればせながら合流する新方針であったが、もはや遅きに失しており、帝国解体の流れを食い止められない段階に来ていたばかりか、自身の帝位すらも危うくなっていたのである。

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