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近代革命の社会力学(連載第361回)

2022-01-07 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(4)革命政権の展開と反革命運動の始動
 40年以上に及んだソモサ一族独裁体制を打倒した後、政権を掌握した国家再建評議会(以下、単に評議会という)は、まさに一からの国家再建を主導する役割を担ったから、その名にふさわしいものであった。同評議会は、基本的にFSLN第三者派の構想に沿い、FSLNと保守系の反体制派とで構成された連合政権であった。
 とはいえ、評議会を主導するのはFSLNであり、中でも第三者派指導者のダニエル・オルテガが評議会調整者という立場で、事実上の元首格にあり、旧ソモサ体制の国家警備隊に取って代わったFSLNのゲリラ部隊が正規軍に横滑りし、軍事的な睨みを利かせている状況であった。
 そのため、最初期革命政権では、保守系の賛同も得られた旧ソモサ財閥の解体と識字率の向上に焦点を当てた農村への教育の普及に関しては成功を収めたが、それ以上の社会主義的な改革課題を追求することに関しては評議会の保守派メンバーからの異論が強く、頓挫した。
 こうした評議会内部の保革対立は、革命から一年足らずの1980年までに決定的となり、評議会の保守系メンバーが辞任していった。もっとも、保守派の離脱はFSLNの権力固めにとって好機ではあった。
 しかし、外部環境の激変が新たな障害となる。すなわち、アメリカでカーター現職大統領が再選に失敗し、反共イデオロギーを掲げてソ連やキューバとの対決を打ち出すレーガン共和党政権に交代したことである。
 レーガンは革命後のニカラグアを西半球の癌と形容し、FSLN政権の排除を主要な中米政策とする方針を打ち出した。ただし、過去の米政権のように、直接に軍事介入することは避けていた。
 そうした中、レーガン政権に呼応する形で、同政権が発足した1981年以降、ニカラグア国内でも、反革命運動の組織化が始動した。この運動は後に「コントラ」と総称されるようになるが、一枚岩組織ではなく、大きく二ないし三のグループに分かれていた。
 その最大のものは旧ソモサ体制の国家警備隊幹部を中心とするグループで、これにはアメリカが直接に援助したため、急速に勢力を拡大した。このように、旧国家警備隊が反革命武装勢力に転じて再興したのは、革命政権が彼らを正規軍に取り込むでも徹底的に排除するでもない、中途半端な対応に終始したつけでもあった。
 二番目は、真のサンディニスタを自任し、FSLN内部から離反した元ゲリラ司令官エデン・パストラが指導するグループ、三番目は農村のゲリラ戦士グループであったが、後者は最終的にコントラ末端兵士の給源となる遊軍的勢力である。
 これらのグループはイデオロギーやメンバーの履歴にも差があり、相互に対立し合いながらも、反FSLNという一点では一致し、レーガン政権や周辺の親米反共諸国の支援を得ながら、ゲリラ戦の形で反革命武装活動を展開していく。言わば、攻守所を変えてのゲリラ戦争の始まりである。
 こうした動きに対して、FSLN政権側は1982年以降、非常事態宣言を布告して、臨戦態勢に入った。その一環として、秩序維持及び公共安全法の制定や反ソモサ派人民法廷の設置が続き、反革命派とみなされた者への弾圧や報道統制などが矢継ぎ早に導入されていく。
 革命後の反革命運動に対処するための非常措置はロシア革命をはじめ、過去の革命でもよく見られた馴染みのプロセスであり、多くの場合、その過程で革命指導者への権力集中を伴う。ニカラグアでもそうしたプロセスが発現したわけだが、それは、事実の元首格であるオルテガの権力が強化されていく過程でもあった。

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