十七ノ三 イラン・ギーラーン革命
(3)革命政権の内紛と混迷
ギーラーン革命で成立した「イラン・ソヴィエト社会主義共和国」における不安定な連合体制は、結局のところ、後ろ盾のボリシェヴィキの東方外交戦略と連動しつつ、民族主義勢力と共産党の間のシーソーゲームのような権力闘争によって、二転三転を繰り返すことになる。
最初の転回は、政権樹立から約一か月で、政府首班のミールザー人民会議議長自身が政権を離脱したことである。民族主義派の彼は、テヘランのカージャール朝民族派との連携を目指していたが、これに反対しつつ、急進的な農地改革を求める連立相手の共産党及び同党と結ぶジャンギャリー左派がミールザーを排除するクーデターを企てていることがわかったためである。
ミールザーが離脱した後、ロシアのボリシェヴィキの支援を受けたイラン共産党がクーデターを起こし、新政権を樹立した。ミールザー政権の陸海軍総司令官だったエフサーノッラーが率いるこの新政権は、ボリシェヴィキの傀儡に近いものであり、ボリシェヴィキの綱領に沿って、伝統的なバザールの禁止や企業国有化、反革命派とみなされた地主や商人の大量処刑を進めた。
こうした強権的恐怖政治に加え、文化的な脱イスラーム化も急進的に進めるエフサーノッラー政権には、市民の反発が強まった。折から、モスクワのボリシェヴィキの間でも、対英融和のため、イランを含む東方での勢力拡大を自重しようとする考えが有力となり、イランの急進的な革命を支援をし続けることへの懐疑が生じていた。
そうした中、ロシアのレーニン政権はイラン共産党への支援方針を変更し、共産党主導ではなく、民族主義ブルジョワジーとの連合路線を指示した。これを受けて、共産党はエフサーノッラーを党中央委員会議長から解任し、彼の党内敵手であったヘイダル・ハーンに交代させたのである。
ヘイダル党指導部は、1921年1月、革命テーゼを修正し、ギーラーン革命をもって「プロレタリアートから中小ブルジョワジーまでを糾合した反カージャール朝闘争」と階級連合的に規定する新テーゼを公表した。これにより、革命当初の振り出しに戻ったとも言える。
一方で、ヘイダル党指導部とレーニン政権との間にも亀裂が生じていた。対英融和とカージャール朝容認に動いていたレーニン政権としては、ギーラーン革命政権がカージャール朝民族派と連合すること―ミールザーの路線に帰一する―を要請していたが、ヘイダル党指導部はこれを拒否したからである。
実際、レーニン政権は、1921年2月、カージャール朝との間で友好条約を、翌月には英ソ通商条約を締結して、カージャール朝及びその後ろ盾のイギリスとの融和に舵を切っていた。
このように、後ろ盾のロシアの外交方針が急転回する中、ヘイダルは5月、再びジャンギャリーとの連合の再構築に動き、ミールザーを革命委員会議長として呼び戻した。
しかし、一度分裂したジャンギャリー右派と共産党の関係修復は困難であり、ミールザーの復帰も一時的であった。そうした中、革命政府は独力でテヘランへ進軍する動きを見せるも、この無謀な作戦はかえって藪蛇となって、政府軍の掃討作戦を招いただけであった。