三十四 ハンガリー民主化未遂革命:ハンガリー動乱
(3)脱スターリン化と政治混乱
1952年に首相と勤労者党第一書記を兼任し、スターリン主義に基づく独裁を固めたラーコシであったが、翌年のスターリン死去と、それに続くソ連指導部によるスターリン批判により、情勢が一変する。
ラーコシはポーランドのスターリン主義独裁者ビェルトのようにショック死こそしなかったが、党内の脱スターリン化の動きを阻止することはできず、秘密警察により厳しく統制されてきた一般社会でも、若手労働者を中心に体制批判の動きが生じてきた。こうした蠕動は、56年革命の最初の予兆であった。
不穏な緊張が高まる中、モスクワもラーコシの恐怖政治を問題視し、1953年7月、圧力をかけて彼を首相の座から降ろした。代わって、ナジ・イムレが首相、党第一書記は引き続きラーコシという分業体制が敷かれた。
ここで政府の前面に登場したナジは後に56年革命の主役となる人物であるが、一筋縄ではいかない人物でもあった。彼はハンガリー共産党が禁圧されていた1930年代にはソ連秘密警察の情報提供者として活動し、戦後は閣僚や国民議会議長を経験して、ラーコシ党指導部でも政治局員として遇されていた。
興味深いのは、56年革命が挫折した後、親ソ派として新たに登場するカーダール・ヤーノシュが内相だった時、ラーコシの不興を買い、辞職に追い込まれた末、でっち上げの罪により終身刑を受け、収監されたことがあったが、ナジは党政治局員としてカーダールの逮捕に署名していたことである。
こうした履歴上は、ナジもラーコシ体制の一員であったのだが、ラーコシの後任として首相に就任すると、彼は改革派としての性格を押し出した。一方、党は引き続きラーコシが率いて、依然影響力を保持する構成となった。
こうして保守派ラーコシが睨みを利かせつつ、改革派ナジが政府を主導するというバランス策が採られた形であったが、情勢からして、改革の流れは抑圧し切れず、ナジ首相はラーコシ体制の修正に踏み込んでいく。特に、ラーコシ体制の象徴でもあった農業集団化と恐怖政治の緩和である。後者の一環として、54年にはカーダールも釈放されている。
ただ、50年代のハンガリーでは、社会主義体制の下で工業化が進展する一方、労働条件の劣悪さや農業集団化に伴う食糧難により、勤労者党独裁体制下での勤労者の生活苦という皮肉な矛盾が生じており、労働争議が拡大していたが、これに対してナジ政権は十分な対応ができなかった。
そうした情勢を見たラーコシら党内保守派は、1955年4月、党内クーデターを仕掛け、ナジ首相を辞職と党からの除名に追い込み、後任に30代の保守派ヘゲドゥシュ・アンドラーシュを据えた。しかし、彼はラーコシの返り咲きを望まないモスクワに配慮して据えられたラーコシの名代にすぎなかった。
こうして再び事実上のラーコシ独裁体制が戻ってきたわけであるが、ナジ政権下で先鞭をつけられた自由化の流れを阻止することはもはやできず、ナジの解任・追放に対する党内外からの反発圧力が急速に強まっていく。