二十七 コスタリカ常備軍廃止革命
(4)革命‐内戦と平和福祉国家の樹立
ピカード政権による選挙結果の転覆という事態を受け、1948年3月、幅広い抗議行動が自然発生的に生じた。これをチャンスととらえたフィゲーレスは、配下のカリブ軍団をベースに国民解放軍を結成し、武装蜂起した。
後に国民解放党として政党化される革命軍は、実際のところ、雑多な構成を持っており、反共右派から福祉国家に懐疑的な保守派、さらに福祉国家の進展を求める社会民主主義者まで含まれていた。
他方、当時のコスタリカ政府軍にはわずか数百人の要員しかおらず、社会民主主義のピカード政権の支持基盤に入っていた共産主義者の民兵組織やニカラグアのソモサ反共独裁政権軍の援護さえ受けざるを得ないありさまであった。
このように1948年革命の両陣営の構成にはイデオロギー的なねじれがあり、イデオロギー的な抗争よりも、派閥的な抗争に近い性格があった。ただ、大雑把に見れば、容共的な政権vs反共的な革命軍という対立図式である。そのため、革命軍は、珍しいことに、アメリカからの暗黙の支持を得ていた。
革命は政権軍側の抵抗により内戦に転化したものの、政権軍は巻き返すだけの物量を持っておらず、44日間の戦闘の後、戦死者約2000人を出して革命軍の勝利に終わった。革命戦争としては比較的短期で終結したとはいえ、戦死者2000人は当時の人口100万人に満たなかった小国としては小さくない犠牲である。
革命後の臨時政府となった第二共和国建国評議会を率いたフィゲーレスが最初にしたことが常備軍の廃止であり、それが革命の最大の成果となった背景にあったのも、こうした内戦の犠牲への反省と将来、軍部の政治介入による政情不安を防止するという目的からであった。
ちなみに、フィゲーレスは思想的な面で、社会主義的な平和主義者であったイギリスのSF作家H.G.ウェルズの歴史書『歴史の概略』に影響されたことを明かしている。ウェルズは同時期に日本でも制定された新憲法の平和条項にも影響を与えたとされ、海を越えた二つの国での常備軍廃止政策をつなぐ糸ともなっている。
建国評議会のその他の政策に関しては、銀行の国有化を除けば、特段急進的なところはなく、革命で打倒したカルデロン‐ピカード体制の福祉国家政策の集大成を行ったに過ぎなかった。一方で、カルデロン‐ピカード体制が支持基盤に組み込んでいた共産党その他の共産主義政党は禁圧され、反共政策が鮮明となった。
このような反共‐平和福祉国家が革命後の第二共和国の基調となったことは、同時期に革命が進行中であったグアテマラとは対照的に、国内的な融和を担保し、かつアメリカからの支持も取り付けて、以後のコスタリカ情勢を中南米全体で最も安定化させることに寄与した。
ちなみに、フィゲーレスは18か月に及ぶ建国評議会を解散して民政に復帰した後、1950年代と70年代の二度にわたり民選大統領を改めて務め、第二共和国の発展を見届けている。
大統領在任中の1955年、ニカラグアとの国境紛争を背景に、同国のソモサ独裁体制に支援された反革命軍が侵攻してきた時、平和国家は試練を受けたが、警察部隊だけで反撃しつつ、発足間もない米州機構の仲介で停戦を導くことに成功した。
一方、1959年のキューバ革命が成功し、共産党体制が現れると、フィゲーレスは中南米における反共的な左派政党の協力機関とするべく自ら設立した研究所の設立資金を通じて、アメリカのCIAと関わりを持ったことを後に認めた。
こうした点で、1948年コスタリカ革命は、そのおよそ十年後に起きたキューバ革命と共産党支配体制に対抗する親米・反共民主化革命の範例として、アメリカにとっても容認できるモデルとなったことはたしかである。