二十八 バルカン・レジスタンス革命
(1)概観
第二次世界大戦では、参戦国が総力戦のため総動員体制を敷いたことから、外部的な戦争にすべての人的・物的資源が投入された反面、内爆的な革命の発生する余地はほぼなかったが、ドイツ・イタリアの枢軸国に占領されたバルカン半島では、レジスタンス勢力による枢軸勢力の撃退がそのまま国内の革命となり、レジスタンスを基盤とする新体制が樹立された例がある。
その代表例がユーゴスラヴィアであるが、隣接するアルバニアも同様であった。ギリシャでも同様の流れが生じかけたが、ここでは反革命・保守派の反撃により、国を疲弊させる凄惨な内戦に進展した。
レジスタンスはナチスドイツに占領されたフランスでも結成されたが、フランスでは、レジスタンスの中核となったのが後に大統領となるド・ゴール将軍率いる保守派の自由フランス軍であり、共産党のレジスタンスは第二勢力であったのに対し、バルカン半島諸国のレジスタンスの中核は共産党であった。
そのため、フランスでは解放後、革命に進展することなく、第四共和国の議会制度が回復され、その下で、レジスタンスへの寄与が好感された共産党が一時的に第一党となるにとどまったが、バルカン半島では、レジスタンスの中核を共産党が担ったため、解放そのものが共産党の主導による社会主義革命となった。
また、フランスのレジスタンスが米英軍を中核とする連合国軍によるバックアップなしには実現できなかったのに対して、バルカン半島のレジスタンスは、ソ連による限定的な援護はあったものの、ナショナリズムを理念とし、ほぼ自力で解放を達成したことも大きく異なり、これも革命へと転化し得た要因である。
加えて、支援国ソ連の影響も限定的であったため、特にユーゴスラヴィアでは、共産党支配体制ながら、ソ連とは一線を画し、むしろ反ソ的な独自の社会主義体制に移行した。そのため、戦後、ソ連の占領下で、ソ連の衛星国家としての社会主義体制が樹立されていった中・東欧諸国とは大きく異なる展開を見せた。
アルバニアの社会主義体制は1960年代までは親ソ派であったが、スターリンの死後、反スターリンの立場に転換したソ連との路線対立からソ連を離反し、親中国に立場を変えるも、その中国とも決裂して以後は、特異な鎖国状態に入った。
一方、ギリシャのレジスタンス運動は、フランスに似て、共産党を中核としソ連の支援を受ける左派レジスタンスと、保守系の右派レジスタンスとに分裂していたところ、解放後、左派レジスタンスの革命に反対する右派レジスタンスとの間で内戦に進展したものである。
ギリシャ内戦は第二次大戦後における東西冷戦の幕開けを画する重要な事変となり、米英が右派レジスタンスを、ソ連が左派レジスタンスをそれぞれ援護する最初の代理戦争の事例ともなった。最終的に右派が勝利したことで、内戦後、再建されたギリシャは東欧にあって西側陣営の飛び地的な衛星国家の役割を果たす複雑な地政学的地位に置かれることとなる。