三十九 アラブ連続社会主義革命
(4)南北イエメン革命
〈4‐4〉北イエメンにおける第二次革命
アラブ連続社会主義革命が1970年のナーセルの死と後継サーダート政権によるエジプトのイデオロギー的・政策的大転回を契機に退潮していく中、北イエメンでは内戦終結後の1970年代半ばになって、言わば遅れてきた第二次革命が発生する。
この事象は基本的に1960年代までのアラブ連続社会主義革命の潮流からは年代的に外れることになるが、内戦なかりせば60年代中に起きた事象であったとも言えるので、言わば先延べされた革命的事象として、便宜上ここで追加的に触れておくことにする。
北イエメンで内戦終結後に改めて第二次革命が生じたのは、67年の無血クーデターから内戦終結をはさんで、保守的なアル‐イリアーニ政権が続く中、軍部内に残存する急進派の鬱積した不満がもたらした反作用のゆえであった。
そのため、第二次革命もまた急進派将校グループによって担われ、その指導者は62年の第一次革命を指導したアル‐サラルより一世代若い30代のイブラヒム・アル‐ハムディ中佐であった。
1974年のクーデターにより政権を掌握したアル‐ハムディは、軍事司令評議会議長として「革命矯正運動」と呼ばれる新たな革新的施策に乗り出していく。言わば、長期の内戦によりほとんど進捗していなかった革命のやり直しプロジェクトである。
その柱は、アラブ世界でも最も開発が遅れていた状況を打開するべく、長期的な展望を持った経済計画に基づく経済発展であったが、アル‐ハムディ政権の新政策の内容は、全体として、社会主義的という以上に、依然残る前近代的な慣習の廃絶と近代化の進展に重点が置かれていた。
そのため、依然として強力な部族勢力の力を削ぐべく、地方のインフラストラクチャーを整備するための自治的なコミュニティーとして地方開発協会を設立し、独自財源に基づき地方の経済社会開発に当たらせる仕組みを創設した。
しかし、軍の階級呼称の廃止や、後述するように1967年の独立革命後マルクス‐レーニン主義への傾斜が進んでいた南イエメンへの接近と南北統合構想などの急進化は、軍内部の反発とともに、隣国サウジアラビアの不信をも招いた。その結果、1977年、アル‐ハムディは暗殺され、軍事政権の幹部でもあったアーマド・アル‐ガシュミが後任の大統領となった。
アル‐ガシュミ新大統領はサウジアラビアの支持を受けており、サウジアラビアの意を受けてアル‐ハムディの暗殺にも関与していた可能性があるが、暗殺事件の真相は解明されていない。
ところが、翌年の1978年、アル‐ガシュミもまた、南イエメン特使との会談中に爆弾テロにより殺害され、この暗殺には南イエメンが関与したことが疑われている。
こうした外国の思惑も絡んだ政治混乱を収拾したアリ・アブドッラー・サーレハ中佐が新大統領に就任し、以後、1990年の南北イエメン統一をはさみ、30年以上にわたり権威主義的な長期体制を構築したことで、イエメンは安定化に向かうが、2010年代に民主化革命の潮流に直面することになる。