二十八 バルカン・レジスタンス革命
(2)ユーゴスラヴィア・レジスタンス革命
〈2‐1〉パルティザンの結成
第二次大戦前のユーゴスラヴィア(以下、ユーゴと略す)は、第一次大戦を契機とする革命によりオーストリア‐ハンガリー帝国が解体されたことを受け、オーストリア支配下にあった南スラブ系諸民族が結集し、先にオスマン・トルコ帝国から独立を果たしていたセルビアのカラジョルジェヴィチ王家を君主とする王国として成立した新興の多民族国家であった。
ユーゴ王国では、第二次大戦に当たり、時の若年の国王ペータル2世と親類の摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチの間で、いずれの陣営に参加するかで対立が生じ、いったんは枢軸国参加を主張したパヴレが勝利し、ナチスドイツと同盟を結んだものの、間もなく反枢軸派のクーデターでパヴレは失権し、ペータルの親政が開始された。
ペータル親政政権は安全保障上、ナチスドイツとの同盟維持策を採ったが、これを信用せず、バルカン半島への版図拡大を目論むドイツはユーゴ侵攻作戦を断行、反撃できないユーゴ政府は、1941年4月に降伏した。その結果、ユーゴ王国は解体され、セルビア地域はドイツ傀儡の「セルビア救国政府」に、クロアチア地域はイタリアとドイツを後ろ盾とする衛星国家「クロアチア独立国」に分割された。
このような亡国状況の中、1941年中に、二つの反枢軸武装抵抗組織が立ち上がる。その一つはユーゴ共産党を主力とするパルティザン(国民解放軍・ユーゴスラヴィアパルティザン分隊)、今一つはセルビア民族主義のチェトニク(ユーゴスラヴィア軍チェトニク分隊)であった。
前者の母体となったユーゴ共産党は、ロシア革命の影響下、ユーゴ王国成立直後の1919年に結成されたものの、王国体制から危険視され、1921年に非合法化されて以降、地下活動を強いられていたところ、亡国状況の中、クロアチア人出自のヨシップ・ブロズ・チトーという傑出した指導者を得て、パルティザンを通じたレジスタンスを開始する。
パルティザンは反ファシズム・共産主義のイデオロギーで統一され、民族主義を排していたことが利点となり、複雑な民族構成を持つユーゴにありながら、結束の固いレジスタンスとして急成長し、最後までレジスタンスを貫くことができた。
一方のチェトニクは、セルビア民族主義者ドラジャ・ミハイロヴィチを指導者とするセルビア人の民族主義抵抗運動であり、在英のユーゴ王国亡命政府と結び、王国復活を目標とする反共レジスタンス組織であった。
その点では、フランス・レジスタンスにおける自由フランス軍と類似した立場にあったが、自由フランス軍が民族でなく、ブルジョワ保守主義のイデオロギーと社会階級によっていたのに対し、チェトニクは明確にセルビア民族主義により、セルビア人の組織に偏っていた点に限界があった
そうした組織の性格から、パルティザンとは敵対的であり、亡命政府及び連合国の支援を受けながら、枢軸勢力と戦うよりパルティザンと戦うことのほうが多いありさまであった。最終的には、枢軸勢力及び傀儡のセルビア救国政府との協力関係に転じたことで、そもそもレジスタンス組織としての性格を喪失し、レジスタンスから脱落していったのである。