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近代革命の社会力学(連載第231回)

2021-05-05 | 〆近代革命の社会力学

三十三 アルジェリア独立革命

(5)独立戦争の展開Ⅱ~終結まで
 民族解放戦線(FLN)の壊滅を目前にしながら、アルジェリア独立戦争に画期的な転回が生じたのは、1958年5月のアルジェリアの白人入植者コロン層によるクーデターと、その結果としての第四共和政の崩壊が原因であった。
 当時、フランス本土では国論にも変化が起き、次第にアルジェリア独立を容認・支持する世論も有力となり、国論が分裂し始めていたことに加え、国際社会ではフランスの苛烈な鎮圧作戦に対する批判の強まりと、ソ連をはじめとする東側陣営によるNLFへの支援態勢も構築されていた。
 そうした内外の情勢に対処できない第四共和政に対する不満が、アルジェリアのコロン層の間で高まっていた。かれらは第二次大戦におけるフランス解放の英雄で、いったんは政界を去っていたシャルル・ド・ゴール将軍の復帰を要求し、クーデターを起こした。
 これは当初、アルジェリア駐留軍による地方的な反乱という形で発現したが、反乱はアルジェリアを超え出てコルシカ島占拠、さらには本土にも上陸しかねない勢いとなった。このプロセスもまた、1930年代、モロッコ駐留軍の反乱に端を発したスペイン内戦の状況と類似していた。
 こうしてアルジェリア駐留軍の反乱が実質的なクーデターの様相を呈する中、第四共和政は事態を掌握する能力を喪失し、政府は総辞職、当時のルネ・コティ大統領はコロン層の要求どおり、ド・ゴールを首相に任命して事態の収拾を図った。
 ド・ゴールは就任早々、議会優位の第四共和政を改め、大統領権限を強化する憲法改正を通じて国家構造を再編した。こうして、1958年10月に新たな第五共和制が発足し、新体制の初代大統領には当然ながら、ド・ゴール自らが就いた。
 コロン層がド・ゴールの復帰を要求したのは、彼ならば対独レジスタンス当時のように、断固としてアルジェリア植民地を護持するだろうと期待したからであった。しかし、この期待は完全な誤算であったことがすぐに明らかとなる。
 現実主義者のド・ゴールは58年9月の時点で、アルジェリアの民族自決を容認することを明言した。そして、年末には自身の擁立に貢献した反乱主導者でもあるアルジェリア駐留軍のサラン司令官を事実上更迭したうえ、アルジェリアの軍政シフトを廃止した。
 一方で、ド・ゴールはサラン司令官の後任に空軍のモーリス・シャール将軍を据え、「シャール計画」と呼ばれる独立戦争過程で最大規模の攻勢をしかけ、1960年初頭までにFLN軍事部門をほぼ壊滅させることに成功した。
 ド・ゴールはそうしてFLNを軍事的に弱体化し、アルジェリア情勢を安定させたうえで、60年7月には「アルジェリア和平計画」を発し、アルジェリア独立のプロセスを明確にした。これに反発したコロン層は11月に暴動を起こすが、翌61年1月の国民投票では、大多数がアルジェリア独立を支持した。
 これによってアルジェリア独立戦争は終結に向けて動き出し、ここから先は、ド・ゴール政権に反発を強めたフランス国粋主義者とド・ゴール政権との間の紛争に転化する。一部の過激分子はフランコ独裁下のスペインで秘密軍事組織(OAS)を結成し、ド・ゴール政権に対するテロやクーデターなど数々の謀略を開始した。
 しかし、61年4月、ド・ゴールに裏切られたサラン将軍やシャ―ル将軍ら四人の将軍がアルジェで決起した軍事クーデターが五日で失敗に終わると、アルジェリア独立の流れは加速した。
 62年3月にはFLNとの間で休戦協定(エビアン協定)が成立し、これに基づくフランス全土における国民投票及びアルジェリアにおける住民投票で、いずれも独立が支持され、アルジェリアの独立が正式に確定したのであった。
 こうして、アルジェリア独立戦争後半は、ド・ゴール政権による方針転換により、政治主導で終結へと導かれた。フランスにとっては、軍事的にも敗北したインドシナ戦争の轍を踏まず、軍事的に勝利しつつ、政治的に譲歩して独立を容認するという巧妙な戦術と言える。


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