(独裁者以外の)政治家が襲撃される事件が発生した際における非難の国際的な決まり文句ともなっているのが、〝民主主義への挑戦〟なるレトリック(類似レトリックを含む)である。先般の安倍元首相射殺事件に際しても、各種声明に見られたところである。
実際に民主主義を否定するという動機を被疑者が供述しているならともかくであるが、今回の被疑者は現時点での報道による限り、個人的な怨恨を供述しているようである。だとすると、これは政治的な暗殺でもなく、怨恨殺人で、標的が元首相という大物だっただけということになる。
そのような怨恨事案を〝民主主義への挑戦〟と表現するのは、意図的な拡大解釈、フレームアップである。そうしたフレームアップによって起こり得ることの一つは、前記事でも記したように、刑事司法の原則を排除する対テロ立法のような抑圧的治安法規の制定である。
こうした抑圧的な立法は〝自由〟を重視するはずの欧米諸国でも、すでに現れている。それは、欧米で21世紀に入って続発した国内テロ事件を背景としているので、ある程度の立法理由はあるが、日本ではそうした事案の発生はなく、今般の事件もテロではない。
日本の場合、そこまで便乗的に進むかはわからないが、前記事でも例示したような国家要人の殺人に通常の殺人より重罰を科する刑法改正、あるいは警備の失策という「反省」に基づき、政治演説会周辺での過剰警備による大量拘束など法執行面での抑圧強化の可能性はある。
そもそも〝民主主義への挑戦〟を精力的に展開されていたのは故人だったのではないだろうか。実際、安倍政権は公安警備系警察官僚OBを内閣官房の中枢に長期間据え置き、人事を通じて官界全般に睨みを利かせつつ、官邸中心、国会軽視、対メディア圧力など非民主的な手法を用いて、憲政史上最長という記録的な政権となったのである。
そうした〝挑戦〟によりすっかり力を削がれ、断片化された野党や委縮させられたメディアまでが〝民主主義への挑戦〟レトリックを揃って使っていたのでは(使っていない党や社にはお詫びを)、情けない。
政治的テロの範疇には到底入りそうにない今般の事件の政治的な利用に加担させられないためにも、政権与党の部外者は事件のフレームアップに手を貸すべきではないと考えるが、近年の同調主義の風潮からして、もはや確信は持てない。