File22:世界大恐慌
1929年に始まる世界大恐慌は、90周年を経た現時点でも、貨幣経済の暗黒史の中で最大級の事象である。この出来事は19世紀以降膨張を続けてきた資本主義のある意味「集大成」とも言え、その影響範囲もまさに世界的規模に及んだ。
大恐慌の原因や経緯に関しては現在に至るまで経済学におけるメインテーマとして膨大な論考がなされているので、ここでは立ち入らないことにする。それに代えて、大恐慌が主要国に引き起こした状況を概観してみる。
まず「震源地」アメリカが地獄絵図となったことは言うまでもない。大恐慌のピークとみなされている1933年の時点で、GDPは繁栄の1920年代に比べほぼ半減、工業生産高は三分の一減、株価は80パーセントの大暴落、全銀行の業務停止という状況の中、失業者1千2百万人超(当時の総人口約1億2千万人)、失業率25パーセントという惨状であった。
しかも、時のフーバー共和党政権は、根拠のない楽観視により、自由放任経済の伝統政策に固執し、積極的な経済介入を控えたことで、恐慌からの早期脱出に失敗した。このことは、ローズヴェルト民主党政権への交代と、より介入主義的な「ニューディール政策」への歴史的な政策転換を促すこととなった。
アメリカと並んで大打撃を受けたのは、ドイツである。ドイツは第一次世界大戦の敗北で巨額の賠償金債務の負担にあえぐ中、アメリカ資本の進出によって戦後不況を克服しつつあったところ、大恐慌を機にアメリカ資本の引き上げが相次いだことで不況脱出は頓挫、銀行や企業の倒産が相次ぎ、失業率は40パーセントにも達した。
これに対し、時のワイマール体制ブリューニング政権がデフレ政策で臨んだことは逆効果的に経済危機を深め、立憲的なワイマール体制の崩壊につながった。代わって登場するのが、ヒトラー率いるナチス党である。
ナチスは、債務問題の大元であるベルサイユ条約への反抗を軸に、自立経済による雇用拡大や再軍備、さらに侵略による領土拡張といった膨張政策で大恐慌からの脱出を図り、一定の成功を収めたが、その代償は非人道的な暴政であった。
ドイツと対照的な道を行ったのが、イギリスである。イギリスは、恐慌を機に七つの海に広がる超大な植民地経営が行き詰まり、植民地の自治領化と新たなイギリス連邦の結成を軸に、ブロック経済化と金本位制離脱で対応しようとした。
金本位制からのイギリスの離脱はフランスにも遅効的に大恐慌の影響を波及させ、物価上昇や失業の増大、株式市場の崩落をもたらし、ドイツの再軍備への警戒から、ソ連に接近して仏ソ相互援助条約の締結という奇策に走らせた。
一方、日本では大恐慌に先行した昭和金融恐慌の処理に目途がついたところへの大恐慌の直撃となった。加えて、大恐慌渦中の1930年に実施した金輸出解禁策はデフレーションを招来するとともに、生糸の対米輸出の急減に伴う生糸価格の暴落を機に、農産物市場の崩落が起きた。そこへ東北地方の冷害という自然現象が追い打ちをかけ、農業恐慌に陥った。
これに対して、昭和金融恐慌以来、引き続き高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大策に加え、中国大陸への侵出と植民地の拡大という膨張に活路を見出して恐慌脱出に成功するも、ために抑圧的な軍部主導体制の成立という代償を伴った点は、ドイツの場合と類似している。
特筆すべきは―スターリンの恐怖政治という代償を伴いつつではあるが―、社会主義体制を採り、世界市場から退出して独自の計画経済による経済開発を進めていたソ連は当時の主要国で唯一大恐慌の余波を免れ、着実に工業生産高を伸ばしたことである。
ソ連は貨幣経済そのものを廃止したわけではなかったが、計画経済によって投資管理を行ない、貨幣経済をコントロールすることが、恐慌に対する一定の防波堤となることは、ソ連史において恐慌という事象を経験しなかったことが実証している。