二十二 タイ立憲革命
(2)近代的エリート階級の成長と人民団の結成
タイ立憲革命の背景として、チャクリー朝による上からの近代化改革により、近代的エリート階級が成長してきたことがある。そして、王朝が育てた彼らが革命の担い手ともなったのであった。これは、ラーマ5世・6世父子王の時代に進展し、王朝名を取って、しばしば「チャクリー改革」とも呼ばれる全般的な改革の中でも、教育及び軍制改革の産物であった。
教育制度改革としては、義務教育制度の施行に加え、高等教育制度が未整備な中、中産階級子弟に対する海外留学の奨励が重要であった。後者において留学先として選ばれたのは、主にフランスであった。フランスは伝統的に官僚制の国であり、ナポレオン時代以来、その法体系やそれに基づく行政制度は後発国が近代的官僚制によった中央集権国家体制を見習ううえで都合の良いものであった。
軍政改革の重点は、近代的な軍隊の創設である。これはまた、近代的な士官学校制度の創設という教育制度改革とも結びついており、ラーマ5世が1887年に設立した王立陸軍士官学校が近代的な軍隊の士官養成機関として定着し、多くの軍人が当校の卒業生である。
ラーマ7世の時代になると、こうした改革の成果として誕生した文民官僚と職業軍人が新しいエリート階級を形成するようになっていた。彼らの中で政治意識の高い者たちは連合して、人民団を結成した。
これは7世時代初期、主にフランス留学組の官僚や軍人によってパリで結成された小グループを最初の細胞としたグループで、政党というよりは、まさにグループであったが、近代的な立憲主義の実現を目指し、その手段として武力行使も辞さないことを当初から盟約していた点では、革命集団としての萌芽であった。
人民団は、前国王ラーマ6世時代の放漫財政に加え、世界恐慌の影響で、米の輸出が停滞したことなどから歳入も激減し、財政危機に陥る中、兄王の早世により、急遽即位した経緯から権力基盤が弱く、統治能力が疑問視されるラーマ7世の下、着実にメンバーを殖やしていった。
人民団の当初の実質的な指導者は法律家・法務官僚のプリーディー・パノムヨンであったが、軍人も勧誘したため、ポッジ・パホンヨーティンや、後に台頭するプレーク・ピブーンソンクラームのような職業軍人も加入して、内部に文官派と武官派という職能別の派閥が形成される要因となった。
革命前、この派閥対立は表面化することなく、友愛会的な統一を保持していたが、革命成就後に始まる権力闘争の過程で対立が発現することになる。そうした意味でも、人民団は共通のイデオロギーで結ばれた政党ではなく、時限性の強い文武エリートの秘密結社の性格が強かったと言える。このことは、革命の遂行に当たり、電撃的なクーデターの手法でこれを成功させるうえでは有益だったかもしれない。