ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第362回)

2022-01-10 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(5)革命の民主的終了とその後
 アメリカが強力に支援する反革命武装勢力・コントラとの内戦に入った後のニカラグア革命政権の展開として注目すべきは、内戦渦中の1984年に大統領選挙が実施されたことである。それまでは、ダニエル・オルテガが国家再建評議会調整者という立場で事実上の元首格にあったが、この暫定体制を清算し、共和政体を整備することが目的であった。
 とはいえ、革命後の内戦渦中に選挙による体制整備がなされる例は稀有であるが、実際のところ、野党の多くがボイコットしたため、投票率は50パーセントに満たない縮小選挙となった。その結果、オルテガが当選し、大統領に就任した。
 こうして、いちおう選挙プロセスを経て正式に権力を掌握したオルテガは、内戦対処と並行して、主要産業の国有化と親ソ連・キューバの外交政策を軸とするFSLN本来の政策を実行していった。選挙の洗礼を受けたことにより、かえってFSLNの純化路線を展開しやすくなったとは言える。
 しかし、これは逆効果となった。純化路線を忌避するブルジョワ層の国外脱出が相次ぎ、頭脳流出も起きる中、アメリカ政府による経済制裁も追い打ちとなり、継続する内戦による荒廃と合わせ、ニカラグア経済は破綻へ向かったからである。さらに、インフレーションの亢進により庶民の生活苦は増すこととなった。
 後ろ盾のソ連もアフガニスタン内戦支援を抱え、国内的にも体制末期の改革・変動期にあったため、十分な援助はなされず、キューバからの支援も医療・教育などの民生分野にとどまったため、内戦は膠着し、独力での終結が見通せなかった。
 そうした中、オルテガ政権は1987年、ラテンアメリカ諸国の仲介による和平提案を受け入れ、88年にコントラとの休戦協定が成立した。さらに1990年には国連監視下での大統領選挙が実施され、再選を目指したオルテガは保守系野党連合に惜敗、下野した。
 こうして、サンディニスタ革命は、国際的に監視された民主的選挙をもって平穏に終了することとなった。武装革命がこのような終わり方をすることも稀有であるが、これは前年に東西冷戦の象徴だったベルリンの壁の解体と米ソ首脳会談による冷戦終結宣言という時代の転換点を経ていたことがもたらした終局であっただろう。
 しかし、ブルジョワ保守勢力に政権交代したことは、国民の大半が貧困層に属する中で、FSLNにセカンド・チャンスを提供した。90年代以後のFSLNは引き続きオルテガの指導の下、マルクス‐レーニン主義を放棄しつつ、貧困階層を代表する有力野党として生き延び、2006年の大統領選挙では、僅差での辛勝ながら、オルテガが勝利し、大統領に返り咲いたのであった。
 以来、オルテガは現時点まで連続四選し、長期政権を維持している。この第二回のオルテガFSLN政権は、イデオロギー色を薄めつつも、親ロシア・中国の立場で権威主義的な強権統治の様相を見せ、1979年革命当時のサンディニスタの理想からは乖離した選挙制独裁という新たな政治形態の一例となっており、民衆の抗議活動も活発化している。

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近代科学の政治経済史(連載第3回)

2022-01-09 | 〆近代科学の政治経済史

一 近代科学と政教の相克Ⅰ(続き)

ガリレオ・ガリレイと科学的方法
 近代科学原理に基づく考察の手順、すなわち今日にいわゆる科学的方法には、特定の偉大な創始者が存在するわけではないが、最も早い時期にそれを実践した代表者がイタリア人のガリレオ・ガリレイであったことは確かである。
 ガリレオは有名な地動説裁判のゆえに天文学者として名を残しているが、彼の本来の専門は数学及び物理学であり、各地の大学で数学教授を務め、出身地トスカーナ大公国で大公付き数学者という栄誉ある地位も得ていた。
 次の章で取り上げるように、当時のトスカーナ大公メディチ家は近代科学のパトロンでもあり、とりわけガリレオを子弟の家庭教師に雇うなど、強力に援助しており、黎明期の近代科学には世俗王侯と結ばれた御用学術という側面があった。
 ガリレオが何処で科学的方法論を修得したかについては定かでないが、本業の呉服商のかたわらセミ・プロ的な音響学者として数学的な方法論を開拓していたという父ヴィンチェンツォの影響が指摘される。いずれにせよ、ガリレオは実験に基づく数学的手法を用いた考察、さらには第三者による追試再現の奨励、その前提となる実験結果の積極的な公表という、今日の科学界では常道となっている方法の先駆者となった。
 総じて、ガリレオの方法論は、従来、哲学者によって兼業されていた思弁性の強い自然哲学を哲学から分離し、自然科学という新たな学術分野に整備する先駆けとなったと言えるが、このような方法論は、思弁性の極致でもあったカトリック神学とはいずれどこかで衝突する運命にあったとも言える。
 その点、ガリレオが活動した時代には、プロテスタント運動に対抗するカトリック側による対抗宗教改革が隆起していたことが、迫害の土壌を形成していた。対抗宗教改革の内実は多岐に及ぶが、教皇パウルス4世の時代に導入された禁書目録制度は、近代科学者にとっても脅威となり得る思想言論統制であった。
 禁書目録は、パウルス4世治下の教皇庁によって1564年に初めて公式に定められたが、奇しくも、この年はガリレオの生誕年でもあった。禁書の対象は何と言っても神学に関わりのある思想書が多く、近代科学を特に標的としたわけではなかったが、カトリック神学と近代科学はその方法論が真逆と言ってよいものであり、いずれ科学的著作が禁書指定される可能性は大いにあった。
 禁書目録とともに、教皇庁膝元のローマにも異端審問所が設置され、異端に対する取締りが強化されたことも、黎明期の近代科学にとっては脅威であった。ガリレオは、このような時代に近代科学の開拓者として登場したのだった。

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近代革命の社会力学(連載第361回)

2022-01-07 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(4)革命政権の展開と反革命運動の始動
 40年以上に及んだソモサ一族独裁体制を打倒した後、政権を掌握した国家再建評議会(以下、単に評議会という)は、まさに一からの国家再建を主導する役割を担ったから、その名にふさわしいものであった。同評議会は、基本的にFSLN第三者派の構想に沿い、FSLNと保守系の反体制派とで構成された連合政権であった。
 とはいえ、評議会を主導するのはFSLNであり、中でも第三者派指導者のダニエル・オルテガが評議会調整者という立場で、事実上の元首格にあり、旧ソモサ体制の国家警備隊に取って代わったFSLNのゲリラ部隊が正規軍に横滑りし、軍事的な睨みを利かせている状況であった。
 そのため、最初期革命政権では、保守系の賛同も得られた旧ソモサ財閥の解体と識字率の向上に焦点を当てた農村への教育の普及に関しては成功を収めたが、それ以上の社会主義的な改革課題を追求することに関しては評議会の保守派メンバーからの異論が強く、頓挫した。
 こうした評議会内部の保革対立は、革命から一年足らずの1980年までに決定的となり、評議会の保守系メンバーが辞任していった。もっとも、保守派の離脱はFSLNの権力固めにとって好機ではあった。
 しかし、外部環境の激変が新たな障害となる。すなわち、アメリカでカーター現職大統領が再選に失敗し、反共イデオロギーを掲げてソ連やキューバとの対決を打ち出すレーガン共和党政権に交代したことである。
 レーガンは革命後のニカラグアを西半球の癌と形容し、FSLN政権の排除を主要な中米政策とする方針を打ち出した。ただし、過去の米政権のように、直接に軍事介入することは避けていた。
 そうした中、レーガン政権に呼応する形で、同政権が発足した1981年以降、ニカラグア国内でも、反革命運動の組織化が始動した。この運動は後に「コントラ」と総称されるようになるが、一枚岩組織ではなく、大きく二ないし三のグループに分かれていた。
 その最大のものは旧ソモサ体制の国家警備隊幹部を中心とするグループで、これにはアメリカが直接に援助したため、急速に勢力を拡大した。このように、旧国家警備隊が反革命武装勢力に転じて再興したのは、革命政権が彼らを正規軍に取り込むでも徹底的に排除するでもない、中途半端な対応に終始したつけでもあった。
 二番目は、真のサンディニスタを自任し、FSLN内部から離反した元ゲリラ司令官エデン・パストラが指導するグループ、三番目は農村のゲリラ戦士グループであったが、後者は最終的にコントラ末端兵士の給源となる遊軍的勢力である。
 これらのグループはイデオロギーやメンバーの履歴にも差があり、相互に対立し合いながらも、反FSLNという一点では一致し、レーガン政権や周辺の親米反共諸国の支援を得ながら、ゲリラ戦の形で反革命武装活動を展開していく。言わば、攻守所を変えてのゲリラ戦争の始まりである。
 こうした動きに対して、FSLN政権側は1982年以降、非常事態宣言を布告して、臨戦態勢に入った。その一環として、秩序維持及び公共安全法の制定や反ソモサ派人民法廷の設置が続き、反革命派とみなされた者への弾圧や報道統制などが矢継ぎ早に導入されていく。
 革命後の反革命運動に対処するための非常措置はロシア革命をはじめ、過去の革命でもよく見られた馴染みのプロセスであり、多くの場合、その過程で革命指導者への権力集中を伴う。ニカラグアでもそうしたプロセスが発現したわけだが、それは、事実の元首格であるオルテガの権力が強化されていく過程でもあった。

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近代革命の社会力学(連載第360回)

2022-01-06 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(3)革命までの過程
 ソモサ家3代目のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領は、当時の憲法上は連続再選禁止とされていたため、1972年にいったん大統領を退任したが、国家警備隊司令官の職にはとどまり、事実上の院政を敷いていた。
 その年末に発生したのが、ニカラグア大地震である。ソモサはこれを奇貨として、国家非常委員会委員長に就任し、全権を掌握した。委員会は災害復旧を目的とする臨時機関であったが、有効に機能しなかったばかりか、ソモサは海外からの義捐金などを着服した。また、救援任務を負う国家警備隊も規律を欠き、壊滅した首都マナグアで略奪を働く始末であった。
 このようなソモサの災害対応の不備、というよりも機に乗じての汚職は国民各層の反発を強め、サンディニスタ国民解放戦線(FSLN)への支持拡大を助長した。その意味では、巨大サイクロン被害が革命の動因となった1971年のバングラデシュ独立革命ほどではないが、1979年ニカラグア革命も、災害が革命の遠因となった事例と言えるかもしれない。
 とはいえ、震災という危機を巧みに利用したソモサの政治技巧も相当なものであり、彼は焼け太りの形で、1974年に再び大統領に返り咲き、一期目以上に独裁を強化、FSLNメンバーの多くを投獄した。
 これに対し、FSLNは人質作戦で拘束中の政治犯を釈放させるという手荒な戦術で組織の防衛を図るが、革命の道筋は見えてこない中、前回見たような組織内の三派閥の分裂が深まった。もっとも、ソモサ政権側が弾圧を強める時勢柄、階級横断的な糾合による即時の蜂起を目指す第三者派が優勢となる。
 革命への最初の動因は1978年1月、保守系の反体制ジャーナリスト、ペドロ・ホアキン・チャモロが暗殺された事件であった。この事件の犯人は不明だったが、ソモサの息子と国家警備隊の関与が疑われたことで、大規模な抗議行動を誘発した。
 騒然とした情勢の中、同年8月にはFSLNのゲリラ部隊が議会議事堂に乱入し、1000人以上を人質に取り、身代金と政治犯の釈放を求める事件を起こした。親族も人質にされたソモサはこの要求に応ぜざるを得なかったが、この一件はソモサ政権の弱体化をさらけ出す結果となった。
 この事件を契機に全土の主要都市で市民が蜂起し、9月以降、政府軍に相当する国家警備隊との事実上の内戦状態に入った。この全土的な蜂起は、FSLNの三派閥を再び融和する契機ともなり、革命へ向けての準備過程となった。
 ただ、こうした内圧だけでは、40年を越えるソモサ一族支配を打破することは困難であった。その点、1977年に発足したアメリカのカーター民主党政権は人権外交を掲げており、たとえ親米政権でも組織的な人権侵害を行う場合は支援しない方針を打ち出していたことが、外圧として働いた。
 ソモサ政権はこの条件にまさに該当したため、カーター政権は早速支援を打ち切ったが、一方で、FSLNの政権掌握は望まず、ソモサの退陣と保守系民主勢力の政権継承を画策した。しかし、このような干渉が、ますますFSLN支持に傾く青年層を中心とした世論を反発させ、保守系民主勢力をFSLNと連携させる契機となる。
 こうして革命運動が幅広い拡大を見せる中、FSLNは1979年6月に全国ゼネストを呼びかけるとともに、保守系を包括した亡命臨時政府として、国家再建評議会の樹立を発表した。同月中に、首都を除くほとんどの地域がFSLNの手に落ちると、7月17日、ソモサはついに辞職し、マイアミに亡命した。
 その後、ソモサが権力を託した大統領代行者もわずか一日で辞職すると、前出の国家再建評議会が正式に政権を掌握し、革命は完了した。これにより、先々代から数えて42年に及ぶソモサ一族支配に終止符が打たれた。

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近代革命の社会力学(連載第359回)

2022-01-04 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(2)ソモサ一族独裁と抵抗運動
 サンディーノを殺害して、実権を握ったアナスタシオ・ソモサは職業軍人ではないにもかかわらず、国家警備隊司令官を経て1937年に大統領に就任すると、戦後、数年間の中断をはさみ、1956年に暗殺されるまで、国家警備隊を基盤とする独裁統治を行った。
 ソモサは保守的な白人コーヒー農園主の出自であり、その政治目標が地主・農園主階級の利益を増進することに置かれた点では近隣の中米諸国の支配者と大差なかったが、ソモサ体制の特異な点は共和制の枠組みで王朝のように政治を世襲したことであった。
 アナスタシオの暗殺後、長男ですでに上下両院議長を経験していたルイスが大統領を継いだ。ルイスは国家警備隊に所属したことのない文民で、晩年の父がアメリカの圧力で進めていた抑圧緩和路線をさらに拡大したが、ソモサ一族支配を変更することはなかった。
 そうした緩和政策の中、1961年に結成されたのがサンディニスタ国民解放戦線(FSLN)である。サンディニスタは元来、サンディーノの支持者全般を指す用語であるが、サンディーノの抵抗運動がアメリカの侵出に対する民族主義的なものであったのに対し、FSLNの場合は、ソモサ一族独裁―その背後にアメリカがあったことは確かであるが―への抵抗運動に重心があった。
 そのため、結成の直接の契機となったのは、サンディーノの抵抗運動ではなく、1959年のキューバ革命であり、同革命の余波現象の一つであった。とはいえ、FSLNはマルクス‐レーニン主義を標榜しつつも、純粋な党組織ではなく、その内部は大きく三つの派閥に分裂していた。
 第一はマルクス‐レーニン主義のプロレタリア潮流派で、都市労働者層に基盤を置いていた。第二は地方農民層に基盤を置く持久人民戦争派、第三はイデオロギー的には混合的だが、即時の革命蜂起を目指す第三者派であった。
 この三派はイデオロギーもさりながら、それ以上に革命の時間的な想定に相違があった。最も急進的なのは第三者派であり、最も長期のスパンを想定するのが持久人民戦争派、その中間がプロレタリア潮流派となる。第三者派は革命蜂起を急ぐためにも、一部の企業経営者層や聖職者、中産階級なども含めた階級横断的な糾合を目指したため、最終的には最強派閥となった。
 とはいえ、1960年代のFSLNはおしなべてマイナーな存在であった。ソモサ家独裁時代の議会はソモサ一族の私物政党である国家主義自由党が常勝する形式議会であり、FSLNが議会政党として進出できる構造ではなかった。
 転機となるのは、1970年代である。これに先立ち、1967年にソモサ家2代目のルイスが急死し、弟のアナスタシオ・ソモサ・デバイレが後任大統領となっていた。父親と同名の彼は国家警備隊出身の職業軍人にして、亡兄の緩和政策の批判者でもあり、就任するや、父の時代にも勝る抑圧策を敷いた。
 彼の代になると、ソモサ一族はニカラグア随一のコーヒー農園主であったばかりか、数多くの系列企業を擁する最大財閥に成長しており、国内総生産の半分近くがソモサ財閥に握られる状況で、ソモサ家は財閥―政党―軍部(国家警備隊)から成る複合的な政治経済権力と化していた。
 このような状況下で、FSLN内部でも、急進的な第三者派の力が強まった。特に、最大推計で死者1万人余りを出す惨事となった1972年12月のニカラグア大地震は、その後の政府の無策や災害便乗的な汚職、略奪が革命へ向かう流れを加速させることになる。

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近代革命の社会力学(連載第358回)

2022-01-03 | 〆近代革命の社会力学

五十二 ニカラグア・サンディニスタ革命

(1)概観
 1979年の中米では3月のグレナダに続き、7月には大陸部のニカラグアでも革命が勃発した。この両革命の間に直接の関連性は認められないが、いずれもマルクス‐レーニン主義を標榜する勢力による武装革命という点では共通しており、中米を地政学上の「庭」とみなすアメリカにとっては、看過し難い連続革命とみなされた。
 中米でもスペイン語圏の大陸部は、19世紀にスペインから独立した後、大国として台頭してきたアメリカの覇権追求の主たる対象地域となり、アメリカ資本の進出を伴うアメリカへの従属化が進行していたが、中でもニカラグアでは最も早くから従属化が進行した。
 この国では1856年から57年にかけて、アメリカ人傭兵のウィリアム・ウォーカーが自ら外人大統領として支配するという数奇な歴史を持つが、本格的なアメリカの進出は20世紀に入ってからであった。アメリカは、1926年‐27年の内戦に乗じて海兵隊を動員して軍事介入したが、これに抵抗したのがアウグスト・セサル・サンディーノであった。
 彼はゲリラ部隊を率いてアメリカ海兵隊に長期のゲリラ戦を挑み、アメリカを苦戦させたが、1934年、アメリカの支援で創設されていた準軍隊組織・国家警備隊によって殺害された。この時の功績で台頭した国家警備隊司令官アナスタシオ・ソモサが政治の実権を握り、以後、ソモサ一族による世襲の独裁体制が確立されていく。
 第二次大戦を越えて3代40年以上にわたって続いたソモサ家独裁体制を打倒したのが1979年の革命であり、この革命の主体となったのが、前出サンディーノを記銘して1961年に創設されたサンディニスタ国民解放戦線(FSLN)である。
 解放運動の英雄を記銘した同種の武装革命組織は近隣の中米諸国ではしばしば見られるが、革命に成功したのがニカラグアのFSLNだけであるのは、この国では抵抗の対象たる独裁体制が露骨であり、かつそれに対する国民総体の反感も明瞭だったからである。
 他方、FSLNはいちおうマルクス‐レーニン主義をイデオロギーとして採用してはいたが、サンディーノにちなむ独裁体制への抵抗という一点で幅広い反体制派が参集した包括的な組織であったため、キューバのように革命後、共産党に統一されることなく、複雑な派閥構造が革命の前後を通じて維持された。
 そのことが、革命成功後も政体や政策の焦点が定まらない状態を惹起し、内紛を生じさせるとともに、アメリカの支援を受けた反革命勢力の結集を容易にし、革命の遂行を阻害する長期の内戦を結果した。
 しかし、アメリカはグレナダのように直接の武力侵攻による革命政権の打倒を企てず、かつ内戦も膠着する中、1990年の民主的な大統領選挙でFSLNの現職大統領が敗退するという形で、革命は幕引きとなった。
 このように、成功した武装革命が民主的な選挙によって終焉するという事例は稀有であるが、さらに後年、21世紀に入って、FSLNが民主的な選挙で再度政権に返り咲いたという点でも、いっそう稀有な事例となった。
 一方、近代革命史の全体図において、ニカラグア・サンディニスタ革命は、マルクス‐レーニン主義を標榜する一国単位の革命としては、現時点で最終のものとなっている。そうした意味では、サンディニスタ革命の終焉は、同時に、革命思想としてのマルクス‐レーニン主義の退潮を画する意義を持ったと言えるかもしれない。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第30回)

2022-01-02 | 南アフリカ憲法照覧

閣僚及び副大臣の行為

第96条

1 閣僚及び副大臣は、国の法律に規定された倫理規則に従って行為しなければならない。

2 閣僚及び副大臣は、以下のことをしてはならない。

(a)他の有償の仕事を引き受けること。

(b)その職務と矛盾する仕方で行為すること、もしくはその公的責任と私的利益との間で衝突が生じる危険を含む状況に自身をさらすこと、または

(c)自身を富ませるため、またはその他の者に不当な便益を供与するために、その地位もしくは託された情報を利用すること。

 本条は、閣僚及び副大臣の行為規制について定めている。第2項では、有償の副業や利益相反、地位利用行為の禁止が具体的に定められているのが特徴である。通常は、不文か政令等の下位法規で定めるにすぎない閣僚の倫理規定を憲法化している点で、先進的かつ厳格と言える。

職務の委譲

第97条

大統領は、布告によって、特定の閣僚に以下の事項を委譲することができる。

(a)他の閣僚に託されたあらゆる立法の監督

(b)法律によって他の閣僚に託されたあらゆる権限または職務

職務の一時的な委任

【第98条

大統領は、職務を離れ、またはその権限を行使できず、もしくはその職務を遂行できない他の閣僚の権限もしくは職務を特定の閣僚に委任することができる。

職務の委任

第99条

閣僚は、国会の法律の定めるところに従って行使され、または遂行されるべき権限もしくは職務を州政府閣僚もしくは市評議会議員に委任することができる。その委任は‐

(a)関係する閣僚と州政府閣僚または市評議会議員の間の合意の定めによらなければならない。

(b)その定めるところにより関係する権限もしくは職務が行使され、または遂行される国会の法律と合致していなければならない。

(c)大統領の布告によって発効する。

 第97条から第99条までは、大統領及び閣僚による行政権限または職務の委譲や委任についての細則である。第99条は、国の地方への介入を定めた続く第100条とは逆に、国から地方への権限または職務の委任に関する規定である。

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年頭雑感2022

2022-01-01 | 年頭雑感

パンデミック3年目に突入した本年には、これまで経験したことがないほどに、ほとんど更新感がない。現状では、今年中にパンデミック終息宣言が出る目途も立たないだろう。この間、世界の資本主義経済は、恐慌のように激しいクラッシュこそ見せていないが、言わば遅効性の毒が全身に回るような形で、確実にダメージを進行させている。

そうした目に見えないダメージは、経済活動の最末端に垣間見える。筆者の地元でも少なからぬ小店舗が廃業し、あるいは別の店舗に変わったりと、目に見える形での状況悪化が進行している。こうした零細資本は、経済悪化の直撃を最初に受けるからである。

このままさらに何年もパンデミック状態が継続するならば、資本主義経済には回復不能なほどの致命的なダメージが加わり、革命などなくとも、自然に朽ちていくだろう。コミュニストにとっては望むところであるが、資本主義者にとっては何とかして避けたい事態であろう。

それなのに、資本主義経済の保障人であるはずの政治が、ウイルス初発時のパニック・モードを解除して経済正常化を急ごうとせず、新たな変異ウイルスが拡散するたびに、恒例となったロックダウンなどの非常措置へ走りたがるのは、いささか不可解である。

その最も単純かつ穏当な理由として、出口戦略の鍵とみなされていたワクチンの有効性に早くも限界が現れ、ワクチン防御を突破するような変異ウイルスが出現したことで、出鼻をくじかれたことがある。これは、人智をあざ笑うかのようなウイルス側の生存戦略のせいである。

それとも関連する政治的な理由として、政治家が公衆衛生家に一部権力を事実上移譲してしまったことがある。今や、かれらの勅許がなければ、パニック・モードを解除することもできず、公衆衛生家が国内/国際政治を代行しているに等しい状況である。これは、対策の失敗の責任を負いたくない政治家にとっては、好都合な部分的権力移譲なのだろう。

もう一つのより深層的な理由としては、パンデミックを理由とする公衆衛生非常措置やワクチン接種義務化など、平常時では独裁体制でない限り得られないような強大な権力を得られる旨味の味をしめたということが考えられる。その点、現行法制上強力な非常措置を取れない日本では、改憲論議に結び付けられているのも、そうした傾向の日本的な表れである。

さらなる深層的な理由は、多くの業界にとってダメージとなるパンデミック下にあっても収益増に沸いている業界との結託関係である。この火事場泥棒的な業界として、ワクチンの開発・販売利益や治療薬の開発・増産による利益で潤う製薬業界や、巣籠もり需要の急増に沸く通販業界や運送業界など、かなりある。政治がこれら業界に寄生することで新たな汁を吸えるということに目ざとく気付いた可能性もある。

このように、パンデミックの継続は悪いことばかりではないようなのだ。「パンデミック政治経済」のような奇妙な利益複合体が形成されつつあるのかもしれない。そのような形での“新しい資本主義”とやらが誕生するのか、それとも、それは所詮、資本主義経済末期に咲く最後のあだ花に過ぎないのか。これが、今年の個人的な見極めとなる。

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