その前日から奈良を旅していた。東大寺二月堂のお水取りを見たいという願いを叶えたいというのが旅の目的だった。前日にお水取りを見て、その日は法隆寺から薬師寺、唐招提寺、平城宮跡を巡り、それから大阪に向かうために駅に向かった。
旅に出る前から、中小規模の地震が続けて起きていた。何か嫌な予感がしたものの、まさかこんな大災害が起きるとは…と唖然とした。
駅から家にいる母と当時の職場に何度も電話を掛けたがなかなか繋がらなかったものの、何とか無事と状況確認を行い、大阪へと向かった。妹が母を心配して当時まだ3歳だった姪を連れて家に向かってくれているということが気になった。
大阪に行った目的は、当時放送されていた朝ドラ『てっぱん』のセットを見ることだった。会場に着くと大きな画面に八戸漁港の様子が映し出されていた。じわじわと水位が上がり、海水が溢れる様子を視ていた時には、これくらいの時間があれば人々は避難できたのではないかと簡単に考えていた。そして、夕食を取り夜の大阪を少し歩いていると、妹と姪が5時間かけて家に来てくれたと電話が入った。そして、安心して奈良のホテルに戻った。
奈良に向かう電車の中で、友人から安否を確認するメールが寄せられた。僕が思っていたよりも大事になっていることに慌てた。そして、ホテルに戻りテレビをつけると、その惨状が断片的にではあるけどわかった。ニュースでは原子力発電所の状況についても伝えていて、その内容に不安を感じたものの、歩き疲れて眠ってしまった。
翌日、すぐには帰れないと開き直り、奈良市内の観光を続け、夜行バスの時間まで再度お水取りを見に東大寺二月堂を訪れていた。ただ、原子力発電所の状況が気になり、Twitterなどで情報を追っていた。お水取りが始まるのを待っていると「福島第一原発が爆発した」という報せが流れた。その時「もう家族と二度と会えなくなるかもしれない」と思い、東大寺を後にし近鉄電車に乗って京都に向かった。その間に妹とメールで連絡を取りながら、必要なものを確認した。駅前のバスセンターで夜行バスのキャンセル手続をしてすぐに、反対側の八条口から少し行った場所にあるイオンに駆け込み、カップ麺や食パン、電池などを買い込み、新幹線に乗り込んだ。不安が募っていたけれど、だからといって新幹線がスピードを上げてくれる訳ではなかった。それでも無事に家に戻った。
月曜日に職場に行くと、浦島太郎のような状況になっていた。実は当時、防災対策などを担当していたので、大震災の際に社内にいなかったことでその後の仕事が非常にやりにくくなった面があった。その後退職した直接の理由ではないものの、遠因ではあった。
その後も「あの時は大変だった」という話になると、当時の状況がわからなくて困ることがある。犠牲となられた方々には不謹慎だけど、それが本音だ。
でも、今思えば「経験しなかったからわからない」というのは逃げ口上にしか過ぎなかった。体験していないなら、体験した人たちに聞き込めばよかったのだ。それは、戦争体験にも通じるだろう。
さて、あの日から4年が経ったものの、僕はあの日からあまり進歩していない。
ようやくあの日のことを少しだけど書くことができた。いつまでも逃げてばかりいても始まらないから、これからしっかりとした足取りで歩き始めたい。